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教会の舞台に立った時、直ぐにあのひとを見つけることが出来た。 クールで美麗な雰囲気を持つあのひとを見つめるだけで、震えが止まらなくなる。 ずっとあこがれていたひと。 初めて出会ったのはまだ高校生の頃。 学院の会議で高等部にやってきたあのひとを見て、ひとめぼれをしたのだ。 しかもヴァイオリンを持って慌てていたところで、前も見ずに吉羅暁彦にぶつかってしまったのだ。 ふんわりとした男性らしい官能的な香りに、鼓動が激しく高鳴り、しっかりとした逞しい胸にくらくらしながら、私は顔を上げた。 その瞬間、麗しき秋の王様が目の前に現れたのではないかと思った。 こんなにも素晴らしい大人の男性に、今まで巡り逢ったことはなかった。 息を呑む程に素敵なひとはそうはいない。 豊かな身長に引き締まった肉体はとてもスーツが似合い、身のこなしもクールでスタイリッシュ。 そしてあの声。 低い落ち着いたトーンの美声は、私のこころの奥深くに語りかけてきた。 「君、怪我はないかね? ヴァイオリンは無事かね?」 あの声を聴いた瞬間、真っ白だった私の世界は、吉羅暁彦色に染まった。 ヴァイオリンを今日は吉羅暁彦のためにだけ弾く。 吉羅のこころに響けば、それで構わない。 そんな情熱を秘めて、いつもよりも熱い音色を奏でた。 演奏が終わり、香穂子は予定通りに子どもたちと一緒に、クッキー販売の屋台に立つ。 昨日、ヴァイオリンの形をしたクッキーを沢山焼きあげたのだ。 もう今日は吉羅暁彦に逢えないだろう。 だが、ヴァイオリンの演奏を聴いて貰えただけで嬉しかった。 クッキーを子どもたちと売っていると、目の前に吉羅が現れる。 まさかあの吉羅暁彦がクッキーなんかを買うとは思えない。 男らしい素晴らしさに引きつけられながらも、香穂子は素通りすると思っていた。 だが、実際は屋台に真っ直ぐ来ると、クッキーを指差した。 「…これを頼む」 「はい、有り難うございます!」 香穂子は声を僅かに震わせながら、嬉しそうに言うと、引きつった笑顔で商品を手渡す。 憧れのひと。 恐らく結婚もしているのだろう。 本当にプライベートは解らないひとだ。 「お子さんにですか?」 香穂子が息苦しさを感じながら言うと、吉羅は甘苦笑いを浮かべる。 「子どもはいないのだがね。秘書はいるがね。秘書に渡そうと思っている」 「失礼しました。だったらおまけしますね」 吉羅の言葉にホッとしてしまう。 吉羅はとても魅力的な人間であるから、女性が放さないと思ってはいたが、いささかホッとした。 苦笑いすら魅力的だ。暫く、見惚れてしまい、我をなくす。 こんなことは今までなかったというのに。 香穂子は、目の前の吉羅暁彦きこころ奪われるのを感じながら、一挙手一投足が気になってしょうがなかった。 「おまけをつけておきます。とても美味しいですから、是非秘書の方と召し上がって下さいね。 「有り難う」 吉羅のクールな笑みを見るだけで、香穂子は脚が震えてしまうほどにときめく緊張を覚えていた。 「有り難うございました」 香穂子がバザー会場に響き渡るような声で挨拶をすると、吉羅は僅かに微笑んだ後で、駐車場へと向かう。 香穂子は、その背中を見送りながら、こんなにも幸せな背中はないと思っていた。 財界主宰のパーティで演奏するメンバーに選ばれ、香穂子は吉羅暁彦に逢えるかもしれないと思い、引き受けることにした。 吉羅と話したい。 吉羅にヴァイオリンを聴いて貰いたい。 それだけの強い想いが、香穂子のこころに滲んでいた。 プロの演奏者が演奏する前の、所謂「前座」だ。 香穂子は、吉羅暁彦がいることを願いながら、小さなステージに立った。 吉羅暁彦が、非の打ち所がないほどに美しく、聡明そうな女性と共にこちらを見ているのが見える。 解っている。 吉羅暁彦ほどになると、美しい女性がそばにいてもおかしくはない。 吉羅がいつも美しい女性を連れているのは、分かり切ったことなのだから。 胸を痛めるのは、本当に筋違いだ。 吉羅とは恋愛関係ではないというのに。 こちらが一方的にあこがれているだけの話なのに。 吉羅が誰と恋愛をし、結婚しようが、香穂子が住む世界とは違うところにいるというのに。 なのに、付き合ってもいないのに、独占欲の強い想いで嫉妬すら感じてしまうなんて。 あこがれているからこそ、何処か理想の恋愛を吉羅が相手ならば出来ると思っているのかもしれない。 全く身勝手な話だ。 自分の馬鹿さ加減に辟易しながら、香穂子は胃がキリキリと痛むのを感じつつ、ヴァイオリンを奏でる。 ヴァイオリンを弾いていると、自然とこころが休まってくれる。 それが助かる。 香穂子は乱れた想いをリセットすると、今精一杯の力と恋心を吉羅に向けた。 ヴァイオリンにしか、吉羅への想いは滲ませることは出来ないから。 演奏が終わると、吉羅が挨拶にきてくれる。 その事実を、覚えてくれていることが嬉しくて、香穂子は笑顔で応える。 その瞬間、吉羅も蕩けるような笑みくれた。 こんな笑みを見せられると、恋をせずにはいられない。 自分には届かないひと。 いくら手を伸ばしても住む世界は違うのだということは、分かりきっているはずなのに、なかなか割り切ることが出来なかった。 「君のヴァイオリンはやはり温かな音色で素晴らしいね」 「有り難うございます。そう感じて頂けたら、これほどまでに嬉しいことはありません。有り難うございます」 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅はまた静かな笑みを返してくれる。 それが嬉しかった。 「暁彦さん、あちらでご挨拶をされたいという方が…」 吉羅の横に、タイミングを図ったかのように、美しいひとが現れる。吉羅が同伴してきた女性だ。 香穂子よりもずっとずっと美しく、そして聡明そうに見えるひと。 こんなにも美しい女性は他にはいない。 本当にお似合いだ。 吉羅暁彦の世界にはぴったりと当てはまる女性だ。 彼女には、背伸びをしても叶わない。 そう思うだけで、胸が軋んでしょうがなかった。 香穂子は息苦しさを感じながらも、気遣うように吉羅に視線を送る。 「…解った…」 吉羅は女性にクールなまなざしを送ると、そのままゆっくりと彼女と共に向かう。 「失礼したね、日野君。機会があれば、また…」 「はい、また…」 香穂子が笑みを零すのを見ずに、吉羅は行ってしまう。 ふたりが揃った姿を見たくはなくて、香穂子は背中を向けて撤収の準備を手早く進めた。 撤収の準備をしていると、肩を軽く叩かれる。 「日野さん!」 「あ! 加地くん!」 同じ大学の政経学部に通う加地が声を掛けてきてくれる。 加地は学部こそ音楽学部には進まなかったが、香穂子とは音楽サークルで一緒だった。 「今日も凄く良かったよ」 「有り難う、加地くん。嬉しいよ」 「うん。今日の演奏は、ダイナミックで熱かったね。凄く良かった」 加地の言葉に、香穂子は抱えていたもやもやが一気に吹き飛ぶのを感じる。 「有り難う。本当に。ところで加地くん、今日のパーティは、お父様と一緒?! 「いいや、父の名代だよ。面倒臭い話だよね。今のうちに顔を売っておけっていうのが、父の方針だからね」 「大変だね」 加地の父親は高名な代議士なので致し方ないのだろう。 「だけど日野さんのヴァイオリンが聞けたから大満足だよ」 「有り難う」 加地と話ながらも、香穂子の意識はずっと吉羅暁彦を捕らえていた。 |