*こい・うた・ひめ*

10


 どうしてあの曲を香穂子が奏でているのだろうか。
 レパートリーにはなかったはずた。
 “あなたが欲しい”だなんて意味深い挑発的なタイトルだということを、香穂子は知っているだろうか。
 吉羅は、金澤に香穂子が唆されたのではないかと思ってしまうほどに、不安になってしまった。
 こんなことは今までなかったし、吉羅をからかうのが趣味な金澤を、疑ったことなんて一度もなかった。
 なのに、こうして不安になってしまう。
 それは香穂子がただひとりの相手だと認めているからに他ならない。
 金澤特有のからかいであることは解っている。
 解ってはいるのに、こうして急がずにはいられない。
 吉羅はなるべく安全運転を心掛けながらも、スピードを上げて自宅へと戻った。

 吉羅が息を切らせながらリビングに入ると、ふたりはのんびりとお茶を飲んでいた。
「吉羅さんおかえりなさい! 直ぐにご飯を温めますね」
 香穂子は相変わらず屈託のないあどけない笑顔を吉羅に向けてくる。
 本当に可愛い。
 香穂子の笑顔にホッとしながら見送った後、吉羅は金澤を睨み付けた。
 金澤はと言えば、相変わらず吉羅をからかうような笑みを浮かべているだけだ。
「どういうことですか!? 金澤さん!」
「さあな。どういうことだと言われてもなぁ…」
 金澤は惚けるように言った後で、吉羅の肩をポンと一度だけ叩いた。
「…少しは焦れ。早く手を出さないと、後悔するぞ」
 低い声で嗜めるように言う金澤に、吉羅は一瞬目を閉じる。
「けしかけるんですか? 教職のあなたが」
「そうだ」
 金澤はフッと笑うと、真直ぐ吉羅を見つめた。
「俺がけしかけなければお前は足踏みするだろう? アパートも決まったし、明日、ここを引き払うが、お前は 宝物を手に入れるためには、もう少し早急に動く必要があるのかもしれないがな」
 金澤はまるで自分に言い聞かせるように言うと、もう一度吉羅を見た。
「…解りました。あなたの忠告を参考にしますよ…。私は香穂子と禁忌な関係であることを、気にはしていませんから。以上」
 吉羅らしい締め括る言葉に、金澤は柔らかく微笑む。
「手をこまねいていたら、俺が手を出すからな」
「それはさせませんよ」
 吉羅はキッパリと言うと、金澤に笑ってみせた。
「そうだな…」
 ふたりが笑いあったところで、香穂子が食事を運んでくる。
「吉羅さん、夕飯です」
「有り難う」
 香穂子が吉羅の前に食事を置くと、吉羅は微笑む。
 温かくて癒される気分になるのは、本当に嬉しいことだ。
「吉羅、お前たち新婚みたいだな」
 金澤からツッコミを入れられて、香穂子は真っ赤になる。それがまた可愛いと吉羅は思った。
 ツッコミを入れてくれた金澤に、吉羅はほんの少しだけ感謝してしまう。可愛い香穂子が見られたから。
 そこまで思って、吉羅は苦笑いを浮かべる。
 何処まで香穂子中毒なのだろうかと。
「日野、俺は明日ここから出て行くから、ゆっくりと新婚気分を味わうと良い」
「あ、あ、あの…っ」
 金澤がからかうように言うと、純情な香穂子は思わず耳まで真っ赤になる。
「…じゃあ俺は寝る。ふたりきりの時間をゆっくりと味わえよ」
「有り難うございます…」
 香穂子は訳が分からないような礼を言うと、金澤を見送った。
 ふたりきりになり、吉羅は食事を始める。
「これでようやく静かになる」
「…淋しくなるかもしれないですね…」
 香穂子がほんのりと寂しそうにするのが気に入らない。
 吉羅は素っ気なく「そうかね」としか言わなかった。
 食事を終えて、香穂子とふたりで後片付けをする。
 ふたりだけの幸せな時間でもある。
 吉羅は香穂子とふたりで後片付けをした後で、手にハンドクリームを塗ってやるのが習慣になりつつあった。
「ヴァイオリンを弾くには指先が大切だからね」
「有り難うございます」
 香穂子と過ごす蜜のように輝かしい甘い時間が、吉羅を幸せな気分にさせてくれていた。

 翌日の夕食時間、皿の数が減ってしまい、香穂子は食事を温めるのを寂しく思う。
「短い間ですけれど、金澤先生といた時間は賑やかでしたね」
 香穂子が屈託なく言うと、吉羅は不機嫌になったかのように眉を寄せた。
「私とふたりきりだと寂しいのかね?」
 少しだけ機嫌の悪い声に、香穂子は苦笑いを浮かべるしかない。
「…吉羅さんと兄弟のように仲が良かったから、寂しいんじゃないかと思っていたんです」
「そんなことはないから、心配しなくても良い」
「だったら良いんです」
 香穂子は微笑むと、吉羅を見つめる。
 すると吉羅は香穂子を抱き寄せてきた。
「ふたりきりだとこのようなことも出来るだろう…?」
「吉羅さん…」
 吉羅は香穂子を抱き締めたままで、鮮やかに唇を奪っていく。
 それが甘くてとても素敵だ。
 何度も唇を重ねた後、吉羅に頭ごと抱き締められる。
「…ふたりきりだからこそ君を独占出来るんだ…」
「はい…。やっぱり吉羅さんに独占されるのが、嬉しいです」
 吉羅の肩におでこを宛てて、香穂子は甘える格好になる。
 こうして甘えられるのが嬉しい。
 そのまま吉羅に総てを預けて、香穂子はゆったりと目を閉じた。

 香穂子を自分のものにしたいという想いは、吉羅の中でどんどん大きくなっている。
 金澤のいう通りに、自分のものに簡単に出来たら良いのにと、吉羅は思わずにはいられなかった。
 抱きたい。
 その想いは強い。
 だがキスをすると、香穂子にはそれが早いことを強く感じている。
 そこを感じながら、吉羅は早急にかつ慌てないように事を進めなければならないと思っていた。
 吉羅は香穂子の額にキスをすると、「おやすみ」と声を掛ける。
「おやすみなさい、吉羅さん」
 これ以上香穂子の隣にいてはベッドに連れ込んでしまうと思い、あえて何も言わなかった。
 吉羅は香穂子に背を向けると、自室へと戻っていった。

 吉羅が、自分を女としてどう思っているのだろうかと、ひとりリビングに残された香穂子は考える。
 恋人でありながら、吉羅は香穂子には何も要求をしてはこない。
 それが寂しくてしょうがなかった。
 クラスのみんなの恋話を聞いていると、そろそろ前にみんなが進んでいっている。
 香穂子もまた一歩進みたいと感じている。
 吉羅と対等な恋が出来れば良いのにと、思わずにはいられない。
 皆で今日も恋の話に花を咲かせる。
「香穂子、あんたさ最近カレシが出来たんじゃない?」
 いきなり友人である天羽に指摘をされて、香穂子は驚いて目を丸くした。
「あ、あのっ、そのっ…」
 まさかこの春から学院の理事長になった男に恋をしていますだなんて、香穂子は言えるわけがなかった。
 しかも一緒に住んで、恋人でもあるなんて、言えやしない。
「いないよ…」
「嘘でしょう。最近さ、あんた急に綺麗になったし、それにいつも楽しそうだし」
「だけどいないよ。本当に」
「土浦くんはどうなのよ?」
「土浦くんは尊敬出来る友達だよ」
 香穂子がさらりと言うと、天羽は益々考え込む。
「うーん、土浦はシロか…。本当に思いつかないなあ」
「だからいないって」
 香穂子はわざと何でもないとばかりに、ごまかすように笑った。
 天羽はそれで仕方がないとばかりに諦め、他の友人たちの恋話に顔を突っ込み始めた。
 香穂子はそれを聞きながら、再び思う。
 吉羅と一歩踏み出すのはいつのことなのだろうかと。



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