*こい・うた・ひめ*


 吉羅が一番恐れていること。
 それは香穂子がいつか自分を見限って、他の男のものになるのではないかということ。
 今まではその恐れから逃げようとしていた。
 だがもう逃げられないところまで来ているのだ。
 香穂子は出会った頃よりも美しくなっている。
 この短時間にどんどん綺麗になっていっているのだ。
 これほどまでに美しくなるとは想像だにしなかった。
 明日も今日よりは美しくなっていることだろう。
 吉羅にはそれが嬉しくてほんの少しだけ切なかった。
「吉羅よ、あの子は放したら後悔するタイプだ」
「解っていますよ」
 吉羅はからかわれているのを解っていながら、クールに答えた。
「それぐらい充分に解っているつもりです」
 吉羅はそれだけを言うと、ソファから立ち上がる。
「吉羅」
 金澤に呼ばれて、吉羅は軽く睨みをきかせる。
「あの子を奪うのが俺でないという保証はないんだからな」
 堂々と宣言されてしまい、吉羅は余計にはらわたが煮える気分になった。
 吉羅は溜め息を吐くと、そのまま洗面所へと向かった。

「香穂子、いるのかね?」
「はい」
 吉羅にノックをされた後、香穂子は洗面所のドアをそっと開ける。
 金澤があのようなことを言うものだから、吉羅をかなり意識をしてしまう。
 真っ赤になりながら、香穂子はまともに吉羅に目線を合わせることが出来なかった。
「…あ、あの…」
「失礼な先輩で申し訳なかったね」
「あ、その…大丈夫ですから」
 香穂子は何とか笑顔を作ると、そのまま吉羅を見た。
 吉羅の艶のある真摯な瞳とぶつかる。
 官能的なのにとてもクールなまなざしだ。
 香穂子は吐息がおかしくなるのを感じた。
 吉羅を見つめているだけで、瞳が熱く潤んでくる。
「…いけない瞳をしているね…?」
「…え…?」
 香穂子が驚いて吉羅を見ると、そのまま唇を耳朶に持っていかれてしまう。
 耳朶を軽く噛まれただけなのに、躰が震えてしまうほどになる。
「…あ…」
「…お仕置がいつも必要なのかね? 君は…」
「そ、そんなことは…」
「いいや、そんなことはあると思うがね」
 吉羅はさらりと言うと、香穂子を思い切り抱き寄せてきた。
「…あっ…!」
「…君は…、本当にいけない…」
 吉羅は何処か苦しげに囁くと、唇を深く重ねてきた。
 金澤がいる。
 余り甘い声を出してはいけないことぐらいは解っている。
 なのに香穂子はキスに夢中になってしまい、その事実を忘れてしまう。
 吉羅といつしかしっかりと抱き合いながら、何度もキスをする。
 金澤がいつ洗面所をノックするかが分からないのに。
 唇が官能的にぷっくりふっくらとなるまで、キスを交わした。
 ようやく離れたが、吉羅は香穂子の手を握り締めてくる。
「余りに部屋を空けると不信がられる。リビングに戻ろう」
 「はい…」
 ふたりでしっかりと手を繋ぐと、リビングへと向かう。
 リビングの前に来ても、吉羅は手を放しはしない。
「金澤先生にバレますよ…?」
「構わない」
 吉羅がほんの少し可愛く思えて、香穂子はくすりと笑った。
「どうしたのかね?」
 拗ねている吉羅が可愛くて、香穂子はまた微笑んでしまう。
「なんでもありません。吉羅さんが大好きだと思っただけです」
 香穂子がにっこりと微笑むと、吉羅の機嫌が少しだけ良くなる。
「君は私の機嫌を良くする術を心得ているようだね…」
「本当のことを言っただけですよ」
 香穂子の言葉に吉羅は円やかな甘い笑みをくれる。その笑みがとても愛しかった。
 吉羅は香穂子の手を握り締めたままで、リビングのドアを開ける。
 イケナイコト。
 だけどシアワセナコト。
「さてと、俺はそろそろ部屋に行く。明日は早いからな」
 金澤は思い切り伸びをした後で、吉羅と香穂子がしっかりと繋いでいる指先をチラリと見た。
 フッと微笑んだ後、金澤は部屋へと上がっていく。
 甘くからかったような笑みに、香穂子はほんのりと恥ずかしい気分になった。

 香穂子が照れ臭そうに吉羅を見ている視線がとても艶やかでドキリとする。
 少女と女のはざかいにある者特有の、清らかな艶だ。
 自分だけのものにしたい。
 ただそれだけを強く思う。
 だが、なかなかそうは出来ないのは、愛しいが故なのだろう。
「吉羅さんは金澤先生のことを信頼しているんですね?」
「どうしてそう思うのかね?」
「…だって信頼をしていなかったら、こうやって堂々と私と手を繋がないかなと思って」
「口は固いひとだからね」
 吉羅はそれだけを言った後で、香穂子を抱き締める。
「私たちの唯一の理解者ですね」
「さあね…」
 吉羅はそれだけを言うと、香穂子を更に強く抱き寄せた。
 こうして香穂子を抱き締めていると、本当に離したくはなくなる。
 離してしまえば、二度と手に入れることが出来ない相手だ。
 それゆえに臆病にもなる。
 こんなにも愛に怯えてしまうなんて、吉羅は思いもしなかった。

 翌日から赴任をした金澤は、のらりくらりとやる気はなさそうなのに、やるべきことはやるというところが、生徒たちには好意的に受け入れられていた。
 人柄が気さくだということもあるだろう。
 金澤は定時にいつも帰るせいか、香穂子とは通学路で遭遇することも多かった。
 今日も一緒に吉羅邸まで帰る。
 居候のふたりが、邸の主人よりも早く帰るなんててい笑ってしまう。
「金澤先生、今日の授業は面白かったです。曲の解釈が広がって、本当に楽しいです。演奏をするには、 やはり解釈の幅を広げるための様々な知識が必要なんだなあって、改めて思いました」
 香穂子はまるでダンスをするような軽やかな気分で言い、金澤に同意を求めた。
「そうだな。解釈は様々な角度からアプローチをしなければ、良い音楽を奏でるとは言い難いからな」
「これからも沢山教えて下さい。より良い曲を奏でるために、前向きに頑張って行きたいので」
「ああ。夕食後に、一度、お前さんのヴァイオリンを聴きたいが構わないか?」
「はい!」
 香穂子が明るい調子で返事をすると、金澤にじっと見られてしまう。
「ど、どうかされましたか…?」
「…吉羅の奴がお前さんをそばに置く理由がなんとなく解ったような気がしてな」
 金澤はひとりごちるように言うと、香穂子を見た。
「そうだ。とっておきの楽譜を持っている。それを練習する気はないか?」
「とっておきの楽譜!? 勿論、練習したいです」
「だったら決まりだな。その楽譜で練習をしてくれ」
「はい」
 とっておきの楽譜とはどぬようなものか、香穂子は楽しみで楽しみでしょうがなくて、にっこりと笑った。

夕 食後、渡されたのは“ジュ・トゥ・ヴ”だった。
 ロマンティックな曲だが、香穂子は一度として弾いたことがない曲だった。
「吉羅が好きな曲だ。それを弾いてやったら喜ぶだろうから、ふたりきりの時に弾いてやってくれ」
「はい。有り難うございます」
 吉羅が好きな曲だなんて練習しがいがある。
 香穂子は早速、夢中になって楽譜と向き合い始めた。

 もう少しだけ仕事をこなして帰ろうかと思ったところで、携帯電話がけたたましく鳴る。
 相手は金澤だ。
「はい、吉羅です」
「吉羅、早く帰ってこなければならないぜ」
 携帯電話の向こうから、香穂子のヴァイオリンが聞こえる。
「日野、気持ちが良いか?」
「気持ちが良いです」
 ふたりの会話が聞こえた瞬間、携帯電話がプツリと切られた。
 吉羅に焦りの感情が芽生える。
 早く帰らなければならないと思った。



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