*こい・うた・ひめ*


 春の連休が明け、初夏を迎えた頃に、その嵐はやってきた。
「吉羅ー! 暫く世話になるぞ!」
 嵐のようなそのひとを見た時、香穂子は目を見開いて驚いた。
「あ、あの、吉羅さんっ!」
 香穂子が慌ててバタバタと吉羅を呼びに行くと、驚きもせずに静かに立ち上がった。
 吉羅が何事もないかのように歩いて行くのを、香穂子はただおろおろと見つめるしか出来ない。
「金澤先輩…」
「来たぞ! アパートが見つかるまで世話になる。お前の家なら部屋は幾つもあるからな」
「アパートが見つかるまでですよ。先輩」
 吉羅はうんざりするように言うと、髪をかきあげた。
 吉羅が他人にこのような態度を取るのは珍しい。
 恐らくは余程近い間柄なのだろうと香穂子は思った。
 男は整った容姿をしているが、わざとだらしない男を演じているように思える。
 声もよく通り、男は姿勢も良かった。
 不意に男は香穂子をじっと見つめる。
 思わずうろたえてしまった。
「…吉羅の幼な妻?」
 いきなりドキリとするような発言をされて、香穂子は固まってしまう。
 半分当たっているようないないような状況だったので、香穂子は真っ赤になってしまう。
「金澤さん! 失礼です。彼女もびっくりしているじゃないですか!?」
 吉羅が嗜めるように言ってくれたことにホッとしながら、香穂子はおずおずと男を見た。
「こちらは日野香穂子。私の義理の姪にあたります」
「日野…香穂子…。ヴァイオリンの…?」
 先程までちゃらちゃらしていたと思ったら、男は急に瞳を厳しくさせる。
「…そうです。ヴァイオリンの日野香穂子です」
 吉羅は男に頷いた。
「金澤紘人だ。星奏学院の音楽教師として赴任してきた。専門は声楽。宜しく頼む」
「宜しくお願いします。金澤先生」
 香穂子はそこまで言ってハッとする。
「金澤先生って、テノールの金澤紘人!?」
 イタリアで活躍をし、最年少のテノール歌手としてCDデビューを果たしたことを思い出した。
「…昔のことだ…」
 金澤は何故だか唇を歪めると、目線を下げる。
 吉羅に視線を向けると、何処か切なそうな瞳をしていた。
「金澤さんの部屋はこちらです。案内をします。香穂子、火傷をしないように紅茶を淹れてるように。花梨の蜂蜜を忘れずに」
「解りました」
 香穂子は頷くと、直ぐに紅茶を淹れにキッチンへと向かった。

 金澤を部屋に案内をし、吉羅は溜め息を吐いた。
「香穂子を余り動揺させないで下さい」
「ああ。お前があれぐらいの女の子を家に住まわせているなんて、意外だと思ってな」
「そうでしょうか?」
「ああ」
 金澤はあっさりと認めると、吉羅をじっと見つめた。
「お前も変わったものだな。あんなにも誰も近付けないような雰囲気を漂わせていたのにな。あんなにもあっさりとあの子を受け入れるなんてな」
 金澤は先程までとは違ってクールなまなざしを向けてくる。
 無意識なのか胸ポケットにある煙草に指を伸ばした。
「金澤さん! 何やっているんですか!?」
 吉羅は厳しい声で金澤を叱り付けて、睨む。
 流石の金澤もビクリとしてしまった。
「…厳しいな…。お前は相変わらず」
「まだ歌える可能性は残っています。それをみすみす棒に振るなんて、あなたはどうかしていますよ」
 吉羅は感情的にはなりたくないと思いながら、つい厳しく言ってしまう。
 自分もヴァイオリンを辞めてしまった身だが、金澤はずっと実力でこの世界を渡ってきた。
 だからこそ諦めて欲しくはない。
 金澤の実力は誰よりも解っているつもりだからだ。
「相変わらずお前は厳しいな」
「そうでしょうか?」
「そうだ。だが…昔に比べたら、随分マシになったかもな。融通がきかないというわけではなくなったからな。少し柔らかくなったっつうかな」
 金澤に指摘されても、吉羅はイマイチピンとはこなかった。
 自分自身は変わったとは思ってはいないのだから。
「金澤さん、香穂子が紅茶を入れて待っていますから、リビングに行きましょう」
「おう」
 吉羅は金澤をリビングへと案内する。温かな紅茶の香りが広がっていた。

 香穂子は紅茶を淹れて、吉羅が買ってきてくれたクッキーを用意する。
「まさか、テノール歌手の金澤紘人に逢えるとは思わなかったなあ」
 喉の故障で静かに引退したと聞いている。
 香穂子にとっては遠い世界の歌手だった。
 そのひとがこんなにも近くにいるなんて半ば信じられない。
 香穂子はほんのりとときめかずにはいられなかった。
 それはプロという厳しい世界への憧れでもあった。
 香穂子が紅茶をリビングに持っていくタイミングで、吉羅と金澤がやってきた。
 金澤はお客様だから、香穂子は優先して紅茶を出した。
 お茶を出した後、香穂子は吉羅の前に腰をかける。
「今、何年だ?」
「3年です」
「だったら俺が担当する学年か…」
「そうなんですか?」
「ああ。俺は3年担当でA組の副担任だ」
「私もA組です」
 香穂子が笑いながら頷くと、金澤もまた笑顔で返してくれた。
「嬉しいです。プロの世界を知っていらっしゃる方が副担任でいて下さるのは!」
 香穂子が屈託のない笑顔を浮かべて言うと、ふと金澤が視線を吉羅に向けた。
「…だとさ。どうする、吉羅よ」
 金澤と同じように香穂子も吉羅に視線を向けると、薄くではあるが怒っているように見えた。
「日野、お前さん、吉羅といつ結ばれたんだ?」
 金澤のストレートな物言いに、香穂子は飲んでいる紅茶をむせかえらせる。
「ちょ、ちょっと洗面所にっ」
 香穂子は動揺を隠すことができなくて、バタバタと洗面所へと向かった。
「…もう、びっくりした…」
 本当に何を言い出すのかと思い、香穂子は大きく深呼吸をして息を整える。
 大人の吉羅と恋人同士。
 それは紛れもなく、吉羅とは大人の関係であるということになる。
 いつかはそうなれば良いとは思っているが、今はまだ考えられない。
 愛し合っているならば、恐らくは早晩そうなるのだろう。
 香穂子はそうなることは吉羅以外には考えられないが、何処か恥ずかしくてしょうがない。
 香穂子は耳まで真っ赤になりながら、落ち着くまで暫くじっとしていた。

 香穂子が洗面所へ行ってしまってから、吉羅は今までないと思うほどの厳しいまなざしを金澤に向ける。
「…金澤さん、香穂子をからかうのは止めて下さい」
 吉羅が厳しい声でピシャリと言っても、金澤は何処か楽しんでいるようにしか見えない。
 それどころか笑みを浮かべて、吉羅を見つめた。
「…余りに大事だから、手を出せない…。違うか? 吉羅よ」
 吉羅の芯を突くように、金澤はピシャリと言う。
「…あなたに答える必要はないでしょう?」
 吉羅が厳しい声で言っても、金澤は動じなかった。
「…いや、そのような相手を見つけられるなんて…、お前さんが羨ましいと思っただけだ」
 金澤はフッと何処か寂しげに笑うと、吉羅を見た。
「お前さんにとってあの子は大切で大切でしょうがない、お前さんの心の救世主なんだな…」
 金澤のまなざしを見ていると、吉羅は胸が痛くなるのを感じた。
 金澤が、愛する女性も夢も総てをイタリアに忘れてきたことを、吉羅はよく解っているからだ。
「…大事にしろ。そして早く手を出せ」
「言っていることが矛盾していますよ」
「…いいや。手を出しておかなければ、あの子は他のヤローにさらわれるぜ」
 金澤の言葉に、忘れようとしていた苦い嫉妬が吉羅の内面に浮かび上がった。



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