*こい・うた・ひめ*

13


 この格好を吉羅はどう思ってくれているだろうか。
 香穂子は気になる余りにドキドキしてしまう。
 喉がからからに渇いてどうしようもない。
 吉羅の熱っぽいまなざしが、少しずつ冷えていつもどおりになる。
「…香穂子、行こうか」
「はい」
 履き慣れないハイヒールに緊張しながら、香穂子は一歩ずつ歩いていく。
 吉羅に本格的にエスコートをされるのは、初めてだ。
 それゆえに緊張も頂点に達する。
 女性をエスコートするのに慣れている吉羅には、きっと子どもに映るだろう。
「今まで君が経験をしなかった大人の世界を少しだけ覗こうか?」
「はい」
 吉羅は、ハイヒールに不馴れな香穂子をサポートするように、腰をしっかりと抱いてエスコートをしてくれた 。
 連れて行ってくれたのは、高級レストラン。
 東京の夜景がとても綺麗に見えるところだ。
「ヴァイオリニストを目指す君には、良い社会見学になるかもしれないね」
 全くの子ども扱いだ。
 それが香穂子には切ない。
 レストランに入り、席に案内される間も、香穂子はずっとドキドキしてしまう。
 吉羅と不釣り合いに思われていないかと、そればかりを気にしてしまう。
 シートに掛けた後、香穂子は少しだけホッとして溜め息を吐いた。
「どうしたのかね?」
「緊張してしまって…」
「これは社会見学だ。緊張しなくても構わないんだ…」
「…はい…」
 そうは言われても、吉羅に恥をかかせるわけにはいかないのだ。
 香穂子は緊張と気持ちの責めぎあいになる。
「食事はゆっくりと楽しめば良いから」
「はい」
 吉羅に言われたものの、本格的なディナーであるが故に香穂子はなかなか緊張を取ることが出来なかった。
「こういう食事は、少しずつ慣れていかなければならない。これからの君のためには必要だろう。色々な意味においてね」
「はい」
 香穂子は神妙に頷いた後、とにかく食事を楽しむことにした。
 目の前には大好きなひとがいる。
 だから楽しまなければ損だと思った。
 いつまでも気後れなんてしてもしょうがないのだから。
 香穂子がにこにこと笑いながら食事をしていると、不思議と吉羅も笑みを浮かべてくれる。
 やはりリラックスした食事は一番良い。
 デザートの後、香穂子はこれで魔法がとけるのだと思い、心から残念に思った。
 最初とは打って変わって、もう少し楽しみたいとすら思った。
「これで楽しい社会見学はおしまいですね…」
「いや…。君さえ良ければ、更に社会見学を続けることが出来るが…、どうするかね?」
 吉羅はあくまで香穂子に選択を任せてくれる。
 ならばもう少しだけ、大人のデートをしてみたいと香穂子は思う。
「…だったらもう少しだけ…、こうしていたいです…」
「解った。もう少しだけこうしていようか…」
「…はい。有り難うございます」
 香穂子は笑顔で吉羅に言うと、そっと手を取ってくれる。
 レストランを出て、吉羅が連れていってくれたのは、お洒落なバールだった。

「ここには君が大好きなノンアルコールも豊富だ。私も車だからね、そちらのほうが有り難い」
「はい」
 バールは大人の社交場のようなお洒落で落ち着いた雰囲気がある。
 いつも香穂子が使うカフェとは雰囲気が違う。
 大人で雰囲気がスマートなひとばかりが来ている。
 香穂子は気後れしてしまった。
「ここのカフェオレはお勧めだが…、君は何にするかね?」
「ではカフェオレでお願いします」
「解った」
 吉羅はカプチーノを注文し、香穂子のカフェオレも一緒に注文してくれる。
 カウンターに座っているだけで、香穂子はドキドキした。
「あら…、吉羅さん」
 妖艶な声を聞き、香穂子が顔を上げると、そこには美しい女性がいた。
 大人びた知的な雰囲気に香穂子は思い出す。
 新進気鋭の女性指揮者都築だ。
「都築茉莉さん…」
「まあ、嬉しいわ。あなたは…高等部のヴァイオリン専攻ね。顔は見たことがあるわ」
「はい。覚えて下さっていて有り難うございます」
 都築は大人びた妖艶な笑みを浮かべると、香穂子を真直ぐ見つめてくれた。
「吉羅さんの秘蔵っ子ってあなただったのね。今日は制服姿より随分と大人びているわね。似合っているわ」
「有り難うございます」
 大人の都築にそう言って貰えて、もの凄く嬉しい。
 香穂子は思わず満面の笑みを向けた。
「良い笑顔だわ。あなたにぴったりね」
 ふたりが話していると吉羅の携帯が鳴る。
「…はい。いつもお世話になっております」
 吉羅は電話に出ると、足早に外に向かう。
 都築とふたりきりになった。
「…吉羅さんとあなた付き合っているでしょう?」
 都築は柔らかな笑みを浮かべると、香穂子をじっと見つめた。
「あ、あの…」
 図星を指摘されて香穂子が慌てていると、都築は微笑んだ。
「やっぱりね。あなたを見ている吉羅さんのまなざしがとても優しくて、癒されたわ。本当にあなたを愛しているんだなあって思ったわよ。あの吉羅さんが本当に愛する女性を見つけたんだって思うと、感慨深いわ」
 都築がふふっと笑い優しい瞳で見つめてくるものだから、香穂子は恥ずかしくなる。
「吉羅さんは本当にあなたを心から大切に思っているわよ。自信を持ちなさい。氷の男と呼ばれていた吉羅暁彦が、あんなにも優しくて愛が溢れたまなざしを女性に向けたことなんてなかったんだから…」
「都築さん…」
 吉羅の過去は知らない。
 だが、こうして誰よりも愛されているのだと言われているのが、嬉しくてしょうがない。
「…あ、吉羅さんが帰ってきたわ。私はこれで…。吉羅さんをしっかり愛して包み込んであげるのよ…。良いわね」
「はい」
 都築は立ち上がると。香穂子に笑顔の一瞥を投げた。
「…吉羅さん、また」
「ああ」
 吉羅は戻ってくると、香穂子の横に腰を掛けた。
「都築君が何か言ったのかね?」
「いいえ。温かい気持ちでお話をさせて頂きました。素敵なひとですね、都築さんって」
「ああ。彼女は素晴らしい指揮者になるだろうね。男世界でもしっかりやっていける女性だよ。私はそう思っているよ」
「そうですね。素晴らしい方ですから」
「そうだね」
 ふたりで笑みを交わしあった後、温かなカフェオレを飲む。
「美味しいです」
 カフェオレ自体の美味しさもさることながら、都築との話が甘いスパイスになっている。
 こんなにも素敵なカフェオレは他にないと思う。
「吉羅さん…有り難うございます。凄く素敵な気分です」
「それは良かった」
 吉羅はフッと微笑んでくれる。
 自分だけにくれる微笑みだと、香穂子は解っているから、つい笑みを零してしまう。
 温かなカフェオレを飲んだ後、ふたりは手を繋いでバールを出た。
 今度こそ大人の社会見学はおしまいだ。
「吉羅さん…本当に素敵なデートでした。大人の幸せなデートをすることが出来て本当に幸せです」
「大人のデートはこれぐらいにしておこうか。この先は次のお楽しみだね」
「…この先は…」
 この先にあることを、香穂子はなんとなく解る。
 その領域に踏み込むのは正直言って怖かった。
 だが、知ってみたいという甘い好奇心もある。
「…吉羅さん…この先にあるものは…なんですか…? 教えて下さい」
 香穂子はドキドキしながら呟く。
 すると吉羅が香穂子の頬に触れて来た。
「知りたいのなら、来るんだ…」
 吉羅は呟くと、香穂子の瞳を覗き込む。
 着いて行くしかなかった。



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