*こい・うた・ひめ*

15


 不思議と先程のような緊張はなかった。
 吉羅に組み敷かれて抱き締められて、すんなりと受け入れることが出来る。
 吉羅と肌を重ねて、お互いの熱を交換しあう。
 それがこんなにも嬉しいことだなんて、香穂子は思ってもみなかった。
 吉羅と躰も心も重ね合わせる。
 それが何よりも幸せだった。
 香穂子は、吉羅に愛されて愛して女にされることが、これほどまでに幸せなことだとは思ってもみなかった。
 吉羅と愛し合えたことが嬉しくて、刻まれた痛みよりも悦びを感じる。
 こうしてお互いに世界で一番近い存在になったのだ。
 何度も愛し合って、抱き合って眠る。
 太古の昔からずっと続いてきた男と女の愛の交わし方。
 吉羅とそれが出来て良かったと、香穂子は思わずにはいられなかった。

 翌朝、いつもよりも早くすっきりと目覚めることが出来た。
 何だか生まれ変わったような気持ちですこぶる気持ちが良い。
 世界でただひとり、総てを受け入れて愛してくれるひとがいる。
 総てを知ったうえで、心からの愛をくれたひとがいる。
 香穂子はそれだけで幸せだと思った。
 目をゆっくりと開き、香穂子は吉羅を見つめた。
 くすりと微笑んでしまうぐらいに、吉羅が愛しいと思ってしまう。
 本当に夢のように素敵で綺麗なひとだと思う。
 そんな吉羅が、こうして愛してくれたことが奇蹟のように思えた。
 神様に奇蹟を起こしてくれて有り難うと、何度も言わずにはいられない。
 香穂子は溜め息を吐くと、吉羅の頬のラインをなぞってみた。
 本当に綺麗だ。
 見つめていてもいつまで経っても飽きない。
「…どうしたのかね…?」
 吉羅は目を開けると、香穂子をじっくりと見つめてくる。
 その瞳を見るだけで、香穂子はうっとりとしてしまった。
「…まだ早いだろう?」
 吉羅は香穂子をその逞しい胸に抱き寄せてくれる。
「何だかすんなりと目が覚めたんですよ。きっと嬉しいからだと思います。吉羅さんとこういう風になれて、私はとても嬉しいんです。生まれ変わったような新鮮で幸せな気分です…」
「私も、いまだかつてないほどに幸せだよ」
 ふたりで微笑み合うと。吉羅は香穂子の唇に甘くキスをくれた。
「…香穂子、大人のデートは合格…だな。これからはこのようなデートを時間がある限り設定しようか」
「有り難うございます。嬉しいです。大人のデートがこんなにも嬉しいものだとは、思いませんでした」
「またしよう。時間はいくらでもあるのだからね」
「はい…」
 吉羅にこうして抱き締められている間は、最高の女になった気持ちになる。
 世界で一番素敵な女性になったのではないかとすら、思わずにはいられない。
「…しばらくこうしていたいです…」
「私もだ…」
 ふたりでただ抱き合っているのが幸せだ。
 それだけで幸せでしょうがない。
 吉羅に髪を撫でられて、肌に触れられて、再び熱くて優しい至上の時間を過ごす。
 本当にこんなにも幸せなことがあるのかと、思わずにはいられなかった。

 吉羅とふたりでホテルの朝食を取りにいく。
 いつもも一緒に食事はしているが、今日は何だか特別のような気がした。
 顔を合わせて食事をする行為というのが、何だかセクシャルな意味があるように思えて恥ずかしい。
 だが、いつもよりも幸せな気分だ。
「こうして食べるホテルの朝ご飯も美味しいですね」
「そうだね。たまにはこういったものも良いね」
「はい」
 お腹いっぱいに食べた後、香穂子は幸せな気分になる。
 食事の幸せな余韻の後、ふたりはチェックアウトをする。
 今日はこのまま家に戻って、ゆっくりするつもりだ。
 家に向かって、ドライブをする。
 いつものタンデムシートなのに、何故かスペシャルなシートに座ったような気分になった。
 きっと吉羅と結ばれた効果に違いないのだろう。
 このシートは一生自分のシートでありたいと、香穂子は思わずにはいられなかった。
「香穂子、うちに帰ったら軽く家の模様替えをするからそのつもりで」
「はい。何処を模様替えするんですか…?」
「…君は今夜から私の部屋で寝てもらうつもりだからね。その荷物運びが主だよ。ベッドや勉強机は、姉さんの手前移動は出来ないからね…。身の回りで必要な荷物を移動して貰う」
「…はい…」
 吉羅と毎日一緒に眠る。
 想像しただけで恥ずかしくてしょうがない。
 香穂子は嬉しさと恥ずかしさの入り交じった気持ちで、吉羅に微笑んだ。
「一緒に眠る以上は、守ってならなければならないことがある」
 大層なことだと思い、香穂子はほんの少しだけ身構えた。
「…何でしょうか…?」
「“吉羅さん”と呼ぶのを止めて貰えないかね? 出来たら…、“暁彦”と呼んで貰えると嬉しいんだがね」
「…あ、あの…」
“暁彦”なんて呼ぶなんて、とてもではないが出来そうにない。
「ふたりきりの時だけで構わないから」
「あ、あの…」
 ふたりきりの時だけならば、何とか受け入れることが出来る。
「…ふたりきりの時なら…何とか…」
 香穂子が耳まで真っ赤にさせて言うと、吉羅はフッと笑った。
「だったら…、暁彦…さん…」
 香穂子が何とか吉羅の名前を呼ぶと、嬉しそうな笑みが返ってくる。
「ありがとう」
 吉羅の言葉にこのうえなく幸せを感じていた。


 季節が移ろいで来る。
 香穂子はと言えば、日本音楽コンクールに参加する準備をしている。
 どうしても取りたいコンクールのひとつだ。
 それゆえに香穂子は練習にも力を入れている。
 吉羅との華やいだ気分になれる愛の生活が、香穂子のやる気を押し上げてくれていた。
 香穂子は予選会から参加し、無事に突破することが出来た。
 理事長報告ということで、吉羅に真っ先に報告をした。
「吉羅さん、コンクールの予選通過しました!」
「それは良かった。これからもその調子で励みたまえ」
「有り難うございます」
 香穂子は電話を切ると、にっこりと微笑む。
 その後、両親にも予選を突破して本選に進むことを伝えた。
 表面上は、吉羅は理事長として接してくれているが、家に帰れば恋人としてお祝いをしてくれる。
 それが嬉しかった。

 家に帰ると、家政婦が今日はご馳走だからだと、張り切って料理を作ってくれていた。
 吉羅が手配をしてくれているからだろう。
 香穂子はその気遣いが嬉しくてしょうがなかった。

 夕食の準備が整った頃、いつもよりもかなり早く吉羅が帰ってきてくれた。
 白いカサブランカの花束を片手に。
「予選通過おめでとう」
 吉羅は優しい笑みを浮かべると、香穂子に花束を差し出してくれた。
「有り難う」
 手にした花束の香りが心地好くて、香穂子は思わずにんまりと笑った。
「今日はうちでお祝いをしたくてね、予め頼んでおいたんだ」
「有り難うございます。嬉しいです。私も家でゆったりとお祝いがしたいです」
 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅は抱き寄せてその髪を撫でてくれた。

 ふたりきりの甘い夕食。
 香穂子は幸せにひたりながら、これでまた頑張れると思う。
「暁彦さん、有り難うございます。凄く嬉しいですです」
 不意に電話が鳴り響き、香穂子は慌てて出る。
「…はい、あ、お父さん! 有り難う! うん、え、本選の時には見に来てくれるの? 有り難うゆっくり話したいよ」
 電話は父親からで、本選の日には帰国をして見に来てくれると言ってくれている。
 香穂子にはそれが嬉しくてしょうがなかった。



Back Top Next