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吉羅は家にひとりで戻り、どうしようもないほどに寂しいのを感じた。 こんなにも寂しいのは初めてだ。 香穂子がいない頃と何ら変わることがないというのに、心から寂しい。 それほどまでに、香穂子の存在が大きくなっていたのだ。 吉羅はシャワーを浴びて寝る支度をしてからベッドルームに向かう。 最近はずっと一緒に眠っていたから、ベッドが広く感じてしょうがなかった。 ついくせで香穂子を抱き寄せようとしてしまう。 吉羅は苦笑いを浮かべると、目を閉じた。 今夜、義理の姉によく見つめられていたと思う。 そのまなざしは何処か厳しくて何処か優しかった。 恐らくは、香穂子との仲を気付いているのだろう。 だが義姉は決して責めようとはしていないようだった。 それは有り難いことだ。 香穂子については、早目に手を打つつもりだ。 決してもう離さない。 そばに置くのだ。 そのためにしなければならないことが何かを、吉羅はよく解っていた。 明日は香穂子のコンクールだ。 晴れ晴れしい日と言っても良い。 だからこそ、これがチャンスなのではないかと吉羅は思った。 香穂子はもう離さない。 吉羅は強く思った。 いよいよ日本音楽コンクールの本番だ。 今までの集大成といっても良い。 ベストなヴァイオリン演奏が出来れば良いと、香穂子は思う。 落ち着くように何度も何度も深呼吸をした。 「日野君、いよいよだね」 吉羅に声を掛けられて、香穂子は若干強張った笑顔を浮かべる。 「頑張りなさい…。君なら出来るはずだ…」 「有り難うございます。頑張ります」 香穂子が笑顔で返事をすると、吉羅はフッと笑みを浮かべながら頬に手を宛ててくれた。 それだけで沢山の癒しとやる気がチャージされる。 大丈夫。 きっと大丈夫。 総てが上手く行く。 香穂子はごく自然に、リラックスすることが出来た。 「吉羅さん、行って来ます」 「ああ。私も客席に戻るとしよう」 「はい」 吉羅を見送った後で、香穂子はお腹に力を入れて背筋を伸ばす。 深呼吸をすると、心が澄んでくるのが解った。 「次、日野香穂子さん」 「はい」 香穂子は名前を呼ばれると、静かにステージへと向かった。 吉羅と両親に心を込めて愛の歌を奏でる。 甘く切ないヴォカリーズ。 香穂子は恋をしている自分になぞらえてヴァイオリンを奏でる。 コンクールだとかそんなことは関係ない。 ただ無心だった。 ヴァイオリンを奏でている間、香穂子は落ち着いていた。 ただ自分の想いを込めて、ヴァイオリンを奏でる。 それが嬉しかった。 演奏を終えて、香穂子は静かにお辞儀をする。 これまでの総てに感謝を込めて、香穂子は深々と頭を垂れた。 吉羅は、香穂子が演奏する様子を、じっと見つめていた。 どのような音も、動きも、何一つ見逃したくはなかった。 今日の香穂子は本当に完璧で、吉羅ですらうっとりとしてしまうほどだ。 美しく可憐だった。 香穂子をこのままこの腕に閉じ込めたい。 いや閉じ込めてはならない。 そのせめぎあいに、吉羅は苦しむ。 香穂子を羽ばたかせなければならないのに、それが出来ない自分が切なかった。 香穂子の素晴らしい演奏は、満場の拍手と共に終わりを告げる。 香穂子の深々と頭を下げる姿が、まるで女神のように見えた。 コンクールの結果が間も無く発表される。 なのに香穂子は不思議と落ち着いていた。 ベストを尽くしたのだから、悔いはなかった。 今、自分が出来る最高のことが出来たのだから。 悔しさだとかそんなものは一切なかった。 ベストを尽くした結果だから、どのようなことでも受け入れられる気分だった。 「では日本音楽コンクールヴァイオリン学生部門の第一位は、星奏学院高校の日野香穂子さんです」 名前を呼ばれた時、香穂子はにわかには信じられなかった。 まさか自分が選ばれるとは考えてもみなかったから。 だが、実際にこうして名前を呼ばれている。 「ほら日野、行け」 付き添いの金澤に背中を押されて、香穂子はひょこひょことステージの中央部に立って表彰を受けた。 表彰を受けている間、これは夢なのではないかと香穂子は何度も思った。 写真撮影をされ、クラシック専門誌や主催新聞社のインタビューを受けても、実感は全くなかった。 ようやく取材攻勢から解放され、香穂子は笑顔を吉羅と両親に向けた。 「…有り難うございます。皆さんのお陰です」 ステージの上よりも、香穂子は更に深々と頭を下げた。 「おめでとう香穂子、よく頑張ったわね」 「おめでとう香穂子」 「おめでとう日野君」 吉羅と両親に祝福されてようやく、香穂子は自分が第一位を取れたことを実感した。 嬉しくて涙をポロポロと零しながら、笑顔を浮かべる。 こんなにも幸せはないと思った。 香穂子のコンクール優勝をお祝いしようと、吉羅と両親は、生演奏が自慢の高級レストランに連れていってくれた。 ふわふわとした幸せな気分になる。 香穂子は笑顔で食事をする。 「香穂子、お前の実力は解った。これをお前に」 父親は大きな封筒を香穂子に差し出す。 「…何…?」 「ジュリアード音楽院の願書だ。お前にこれだけの実力があるんだ。受けて、私たちのそばに来ないか?」 「ジュリアード音楽院…」 その音楽院が優秀な音楽家を多数輩出しているのは、香穂子も知ってはいる。 だが、そこに入学してしまったら、吉羅と離れ離れになってしまう。 それは嫌だ。 香穂子は両親には感謝しながらも、吉羅のそばで音楽をやっていきたいと思う。 吉羅を見ると、香穂子に選択を任せるかのように静かに見ていた。答えは決まっている。 吉羅のそばにいたい。 それだけだ。 「…お父さん…、お母さん…、私…、日本で、星奏学院で勉強したいと思っているんだ…。大学の音楽学部も充実していて、講師もそろっているから…」 香穂子は迷いない視線を両親に向ける。 すると吉羅が突然立ち上がった。 「…彼女のことは私が面倒を見ます、一生…。幸せなヴァイオリニストにします。…お義父さん、お義母さん、…香穂子を私に下さい…」 頭を深々と下げると、吉羅は暫く頭を上げなかった。 嬉しくて言葉に出来ない。 だが、両親はどう思っているのだろうか。 香穂子は嬉しさと不安で心を震わせながら、両親を見た。 黙っている。 香穂子も思わず立ち上がると、吉羅と一緒に頭を下げた。 吉羅と一緒にいたい。 寄り添っていたい。 ただそれだけなのだ。 吉羅と香穂子がじっと頭を下げていると、不意に母親がフッと笑った。 「暁彦、香穂子を宜しくお願いします」 「…暁彦君…。ヴァイオリン以外に何も出来ない娘だが、宜しくお願いします」 顔を上げると、両親は笑顔でふたりを見ている。 改めて香穂子の両親は立ち上がると、頭を深々と下げた。 「暁彦さん、娘を宜しくお願いします」 「幸せにします」 吉羅は静かに言うと、もう一度深々と頭を下げた。 愛されている。 こんなにも。 香穂子はそう思うだけで涙が零れてくる。 吉羅以上に素晴らしい男性にはもう出会えないだろう。 こうしてきちんと挨拶をしてくれたのが嬉しくて、香穂子は涙を零した。 「暁彦さん…有り難う…」 吉羅はフッと微笑んで、香穂子の涙を拭ってくれる。 こんなにも嬉しい日は他にない。 吉羅と一緒にこれからずっといて良いと認められて、ヴァイオリニストとしての第一歩を踏み出した日なのだから。 |