*こい・うた・ひめ*

17


 吉羅は家にひとりで戻り、どうしようもないほどに寂しいのを感じた。
 こんなにも寂しいのは初めてだ。
 香穂子がいない頃と何ら変わることがないというのに、心から寂しい。
 それほどまでに、香穂子の存在が大きくなっていたのだ。
 吉羅はシャワーを浴びて寝る支度をしてからベッドルームに向かう。
 最近はずっと一緒に眠っていたから、ベッドが広く感じてしょうがなかった。
 ついくせで香穂子を抱き寄せようとしてしまう。
 吉羅は苦笑いを浮かべると、目を閉じた。
 今夜、義理の姉によく見つめられていたと思う。
 そのまなざしは何処か厳しくて何処か優しかった。
 恐らくは、香穂子との仲を気付いているのだろう。
 だが義姉は決して責めようとはしていないようだった。
 それは有り難いことだ。
 香穂子については、早目に手を打つつもりだ。
 決してもう離さない。
 そばに置くのだ。
 そのためにしなければならないことが何かを、吉羅はよく解っていた。
 明日は香穂子のコンクールだ。
 晴れ晴れしい日と言っても良い。
 だからこそ、これがチャンスなのではないかと吉羅は思った。
 香穂子はもう離さない。
 吉羅は強く思った。

 いよいよ日本音楽コンクールの本番だ。
 今までの集大成といっても良い。
 ベストなヴァイオリン演奏が出来れば良いと、香穂子は思う。
 落ち着くように何度も何度も深呼吸をした。
「日野君、いよいよだね」
 吉羅に声を掛けられて、香穂子は若干強張った笑顔を浮かべる。
「頑張りなさい…。君なら出来るはずだ…」
「有り難うございます。頑張ります」
 香穂子が笑顔で返事をすると、吉羅はフッと笑みを浮かべながら頬に手を宛ててくれた。
 それだけで沢山の癒しとやる気がチャージされる。
 大丈夫。
 きっと大丈夫。
 総てが上手く行く。
 香穂子はごく自然に、リラックスすることが出来た。
「吉羅さん、行って来ます」
「ああ。私も客席に戻るとしよう」
「はい」
 吉羅を見送った後で、香穂子はお腹に力を入れて背筋を伸ばす。
 深呼吸をすると、心が澄んでくるのが解った。
「次、日野香穂子さん」
「はい」
 香穂子は名前を呼ばれると、静かにステージへと向かった。
 吉羅と両親に心を込めて愛の歌を奏でる。
 甘く切ないヴォカリーズ。
 香穂子は恋をしている自分になぞらえてヴァイオリンを奏でる。
 コンクールだとかそんなことは関係ない。
 ただ無心だった。
 ヴァイオリンを奏でている間、香穂子は落ち着いていた。
 ただ自分の想いを込めて、ヴァイオリンを奏でる。
 それが嬉しかった。
 演奏を終えて、香穂子は静かにお辞儀をする。
 これまでの総てに感謝を込めて、香穂子は深々と頭を垂れた。

 吉羅は、香穂子が演奏する様子を、じっと見つめていた。
 どのような音も、動きも、何一つ見逃したくはなかった。
 今日の香穂子は本当に完璧で、吉羅ですらうっとりとしてしまうほどだ。
 美しく可憐だった。
 香穂子をこのままこの腕に閉じ込めたい。
 いや閉じ込めてはならない。
 そのせめぎあいに、吉羅は苦しむ。
 香穂子を羽ばたかせなければならないのに、それが出来ない自分が切なかった。
 香穂子の素晴らしい演奏は、満場の拍手と共に終わりを告げる。
 香穂子の深々と頭を下げる姿が、まるで女神のように見えた。

 コンクールの結果が間も無く発表される。
 なのに香穂子は不思議と落ち着いていた。
 ベストを尽くしたのだから、悔いはなかった。
 今、自分が出来る最高のことが出来たのだから。
 悔しさだとかそんなものは一切なかった。
 ベストを尽くした結果だから、どのようなことでも受け入れられる気分だった。
「では日本音楽コンクールヴァイオリン学生部門の第一位は、星奏学院高校の日野香穂子さんです」
 名前を呼ばれた時、香穂子はにわかには信じられなかった。
 まさか自分が選ばれるとは考えてもみなかったから。
 だが、実際にこうして名前を呼ばれている。
「ほら日野、行け」
 付き添いの金澤に背中を押されて、香穂子はひょこひょことステージの中央部に立って表彰を受けた。
 表彰を受けている間、これは夢なのではないかと香穂子は何度も思った。
 写真撮影をされ、クラシック専門誌や主催新聞社のインタビューを受けても、実感は全くなかった。
 ようやく取材攻勢から解放され、香穂子は笑顔を吉羅と両親に向けた。
「…有り難うございます。皆さんのお陰です」
 ステージの上よりも、香穂子は更に深々と頭を下げた。
「おめでとう香穂子、よく頑張ったわね」
「おめでとう香穂子」
「おめでとう日野君」
 吉羅と両親に祝福されてようやく、香穂子は自分が第一位を取れたことを実感した。
 嬉しくて涙をポロポロと零しながら、笑顔を浮かべる。
 こんなにも幸せはないと思った。

 香穂子のコンクール優勝をお祝いしようと、吉羅と両親は、生演奏が自慢の高級レストランに連れていってくれた。
 ふわふわとした幸せな気分になる。
 香穂子は笑顔で食事をする。
「香穂子、お前の実力は解った。これをお前に」
 父親は大きな封筒を香穂子に差し出す。
「…何…?」
「ジュリアード音楽院の願書だ。お前にこれだけの実力があるんだ。受けて、私たちのそばに来ないか?」
「ジュリアード音楽院…」
 その音楽院が優秀な音楽家を多数輩出しているのは、香穂子も知ってはいる。
 だが、そこに入学してしまったら、吉羅と離れ離れになってしまう。
 それは嫌だ。
 香穂子は両親には感謝しながらも、吉羅のそばで音楽をやっていきたいと思う。
 吉羅を見ると、香穂子に選択を任せるかのように静かに見ていた。答えは決まっている。
 吉羅のそばにいたい。
 それだけだ。
「…お父さん…、お母さん…、私…、日本で、星奏学院で勉強したいと思っているんだ…。大学の音楽学部も充実していて、講師もそろっているから…」
 香穂子は迷いない視線を両親に向ける。
 すると吉羅が突然立ち上がった。
「…彼女のことは私が面倒を見ます、一生…。幸せなヴァイオリニストにします。…お義父さん、お義母さん、…香穂子を私に下さい…」
 頭を深々と下げると、吉羅は暫く頭を上げなかった。
 嬉しくて言葉に出来ない。
 だが、両親はどう思っているのだろうか。
 香穂子は嬉しさと不安で心を震わせながら、両親を見た。
 黙っている。
 香穂子も思わず立ち上がると、吉羅と一緒に頭を下げた。
 吉羅と一緒にいたい。
 寄り添っていたい。
 ただそれだけなのだ。
 吉羅と香穂子がじっと頭を下げていると、不意に母親がフッと笑った。
「暁彦、香穂子を宜しくお願いします」
「…暁彦君…。ヴァイオリン以外に何も出来ない娘だが、宜しくお願いします」
 顔を上げると、両親は笑顔でふたりを見ている。
 改めて香穂子の両親は立ち上がると、頭を深々と下げた。
「暁彦さん、娘を宜しくお願いします」
「幸せにします」
 吉羅は静かに言うと、もう一度深々と頭を下げた。
 愛されている。
 こんなにも。
 香穂子はそう思うだけで涙が零れてくる。
 吉羅以上に素晴らしい男性にはもう出会えないだろう。
 こうしてきちんと挨拶をしてくれたのが嬉しくて、香穂子は涙を零した。
「暁彦さん…有り難う…」
 吉羅はフッと微笑んで、香穂子の涙を拭ってくれる。
 こんなにも嬉しい日は他にない。
 吉羅と一緒にこれからずっといて良いと認められて、ヴァイオリニストとしての第一歩を踏み出した日なのだから。



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