*Limited Lovers*

11


 信じられなくて、香穂子はその場で心臓が止まりそうになる。
 吉羅の不実を感じて、香穂子は涙が瞳の奥で滲んでしまうほどに、哀しくなる。
 最初からそんな吉羅だと解って近付いて受け入れたのに、こんなにも独占欲を感じるとは思わなかった。
 吉羅が自分のものにならないことは解っているのに、自分のものにしたいだなんて。
 香穂子はしょんぼりとしながら、ゆっくりと歩き始めた。
 途中で気分が悪くなってしまい、何度か立ち止まる。
 苦しい。
 発作を起こしてしまうかもしれない。
 香穂子はその予感に怯えながら、会場へと戻った。
「…日野…! どうしたんだ!? 顔色が目茶苦茶悪いぞ!」
 金澤が直ぐに心配そうに駆け寄ってくる。
 香穂子の病状を大体知っている金澤は、直ぐに躰を支えてくれた。
「…大丈夫ですが…もう帰らせて頂こうかと…」
 香穂子は何とか笑みを零しながら金澤を見た。
「まあ! 顔色がかなり悪いわよ!」
 続いてパーティの主催者の妻が駆け寄ってきてくれた。
「少し休んだほうが良いわ。休んでからお帰りになったら…」
「有り難うございます。だけど大丈夫です。帰れますから」
「だったら吉羅さんを…」
 心配して呼びに行こうとする金澤と主催者の妻を、香穂子は制する。
「近いですから、ひとりで帰れますから…。大丈夫です…」
 香穂子はやんわりと断ると、帰る準備を手早く始めた。
「…近くまで送っていくわよ…」
「俺も近くまで…」
「大丈夫です。本当に有り難うございます」
 香穂子が礼を言いながら断ったところで、吉羅と女が帰ってきた。
 全くタイミングが悪い。
 香穂子は溜め息を吐くと、見つからないようにしようとした。
 だが親切心からか、主催者の妻は、吉羅に直ぐに事情を説明する。
「香穂子、直ぐに家まで送る」
 吉羅はクールに淡々と申し出てくれたが、香穂子はあえてそれを断ることにした。
「家まで近いですから、ひとりで帰れます。吉羅さんはパーティを楽しまれて下さい」
 香穂子は深々と頭を下げると、そのまま吉羅の側から離れようとした。
「…私が送ると言っているんだ。無理をするな」
 吉羅は険悪な声でピシャリと言うと、香穂子の腕を思い切り掴んで来た。
 吉羅の指先が二の腕にしっかりと食い込んでくる。
 かなり痛かった。
「香穂子、わがままを言うんじゃない。来るんだ」
「あ、あ、あのっ…!」
 吉羅は香穂子を引っ張るようにそのまま連れていく。
 吉羅が車を停めている駐車スペースに着く頃には、雨が降り始めていた。
 吉羅は強引に香穂子を車に乗せると、そのまま発進する。
 雨は途端に酷くなり、ワイパーのお世話になる。
「石川町方面だったね」
「…はい…」
 直ぐに吉羅はハンドルを切る。
「香穂子、君はどうしてそんなにも素直になれないのかね」
 吉羅はかなり苛々しているようで、冷徹な雰囲気を漂わせている。
「…吉羅さんこそ、綺麗な女性と一緒にいれば良いじゃないですか…。私なんかを送らなくても…、良いじゃないですかっ!」
 香穂子はいきり立ちながら、吉羅を思い切り睨み付けた。
「私が誰と一緒にいようが、君には関係ないじゃないか…。嫉妬をしてそんなわがままを言うものじゃない」
 吉羅はいつも以上に冷徹な声で言うと、香穂子を睨み付ける。
 香穂子は更に胸が抉られるような気がした。
 こんなにも苦しいことは他にないのではないかと思う。
 心臓が狂うように痛い。
 解っている。
 このままでは発作を起こしてしまうことを。
 香穂子は車窓を確かめ、ここが家からそんなにも離れていないことに気付く。
 ここならば、何とか帰るこてが出来る。
 家に着いて発作を起こしても大丈夫だから。
「吉羅さん、車を停めて下さい」
「何、子供染みたことを言っている。この雨では風邪を引く…」
「良いから!」
 香穂子が声を荒げたのと同時に、吉羅はブレーキを踏む。
「そんなに嫉妬をしてどうする。私は君のものではないのだから…」
 吉羅は呆れ果てたとばかりに溜め息を吐いてくる。
 香穂子はそのままドアをこじあけようとした。
「何をするんだ」
「帰ります。ここから近いですから!」
「だったら勝手にしなさい!」
 吉羅は珍しく声を荒げると、ドアを開く。
「…君とはもう逢わないほうが良いのかもしれないね…」
 吉羅は呆れ果てたように溜め息を吐く。
「そうですね」
 もう心臓が停まってしまうかもしれないと思うほどに、香穂子はショックを受ける。
 だが、受け入れられる。
 香穂子は雨の中、車から飛び出して、自宅へと向かう。
 ヴァイオリンだけは守らなければならないと、抱き締めるように運んだ。
 吉羅と逢えなくなる。
 だが、それが一番辛い。
 だがそれが一番良い方法に思えた。
 雨に打たれながら、香穂子は小走りで家まで向かう。
 心臓がもうもたないかもしれない。
 限界に来ている。
 どうか家に到着するまでは頑張って貰うしかない。
 香穂子はようやくうちが見えてホッとする。
 玄関ドアを開けた瞬間、示し合わせたかのか、香穂子はそのまま崩れ落ちた。
 もう何もない闇に漂った。

 車内にひとり残された吉羅は、大きな溜め息を吐いた。
 こんなにも怒ったのは久しぶりだ。
 香穂子が一緒にいると感情がコントロール出来なくなるのだ。
 このような相手は初めてだ。
 冷静沈着でいつもいたいと思っていたのに、それが出来ない自分がもどかしくてしょうがなかった。
 香穂子は危険分子だ。
 このまま一緒にいないほうが良い。
 その方がお互いの為だ。
 吉羅は溜め息を吐きながらベストな選択だと自分で思う。
 いや、思おうとしているだけなのかもしれない。
 本当は…。
 吉羅はそこまで考えて、考えないことにした。
 遠くでけたたましい救急車の音が聞こえる。
 全く迷惑で苛立たしい音だと、吉羅は思った。
 吉羅は救急車の音を聞き流してから、自宅へと向かう。
 早く救急車の音から逃れたかった。

 一体、何が起こったかが解らなかった。
 ただ気付いたらベッドの上だったのだ。
 これには香穂子も苦笑いを浮かべるしか出来なかった。
 沢山の医療器具が着けられているのが、切なかった。
 香穂子が目をパチパチさせていると、母親が気が付いて、その手を握り締めてくれた。
「香穂子、目が覚めたのね…。もう大丈夫だから…」
 香穂子はホッとして笑顔になる。
 母親が心配そうにこちらを見ているのが解る。
 発作を起こしたということは、香穂子にとっては死に近付いているということを意味している。
 それを母親は苦しく思っているのだろう。
 香穂子はもう母親には迷惑をかけることは出来ないと、心底から思った。
「風邪も拗らせているから、一週間ほど入院することになるからね…」
 香穂子は頷いた後目を閉じた。
 そこまで酷い状態だったのだろうと、香穂子は察する。
 吉羅とは綺麗にお別れをしたかったが、しょうがない。
 もうこれでおしまいなのだ。
 お終いにした方が良いと、香穂子は思った。

 香穂子からは一切連絡はない。
 これで良かったのだ。
 誰かに束縛をされるのは嫌だ。
 自分は誰のものでもないのだから。
 吉羅は自分からも連絡をすることはもうないだろうと思う。
 だが、つい香穂子のメールアドレスや携帯電話の番号を探る自分がいる。
 今は別れたばかりだからそうなるのだろう。
 吉羅は自分自身にそう言い聞かせていた。



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