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信じられなくて、香穂子はその場で心臓が止まりそうになる。 吉羅の不実を感じて、香穂子は涙が瞳の奥で滲んでしまうほどに、哀しくなる。 最初からそんな吉羅だと解って近付いて受け入れたのに、こんなにも独占欲を感じるとは思わなかった。 吉羅が自分のものにならないことは解っているのに、自分のものにしたいだなんて。 香穂子はしょんぼりとしながら、ゆっくりと歩き始めた。 途中で気分が悪くなってしまい、何度か立ち止まる。 苦しい。 発作を起こしてしまうかもしれない。 香穂子はその予感に怯えながら、会場へと戻った。 「…日野…! どうしたんだ!? 顔色が目茶苦茶悪いぞ!」 金澤が直ぐに心配そうに駆け寄ってくる。 香穂子の病状を大体知っている金澤は、直ぐに躰を支えてくれた。 「…大丈夫ですが…もう帰らせて頂こうかと…」 香穂子は何とか笑みを零しながら金澤を見た。 「まあ! 顔色がかなり悪いわよ!」 続いてパーティの主催者の妻が駆け寄ってきてくれた。 「少し休んだほうが良いわ。休んでからお帰りになったら…」 「有り難うございます。だけど大丈夫です。帰れますから」 「だったら吉羅さんを…」 心配して呼びに行こうとする金澤と主催者の妻を、香穂子は制する。 「近いですから、ひとりで帰れますから…。大丈夫です…」 香穂子はやんわりと断ると、帰る準備を手早く始めた。 「…近くまで送っていくわよ…」 「俺も近くまで…」 「大丈夫です。本当に有り難うございます」 香穂子が礼を言いながら断ったところで、吉羅と女が帰ってきた。 全くタイミングが悪い。 香穂子は溜め息を吐くと、見つからないようにしようとした。 だが親切心からか、主催者の妻は、吉羅に直ぐに事情を説明する。 「香穂子、直ぐに家まで送る」 吉羅はクールに淡々と申し出てくれたが、香穂子はあえてそれを断ることにした。 「家まで近いですから、ひとりで帰れます。吉羅さんはパーティを楽しまれて下さい」 香穂子は深々と頭を下げると、そのまま吉羅の側から離れようとした。 「…私が送ると言っているんだ。無理をするな」 吉羅は険悪な声でピシャリと言うと、香穂子の腕を思い切り掴んで来た。 吉羅の指先が二の腕にしっかりと食い込んでくる。 かなり痛かった。 「香穂子、わがままを言うんじゃない。来るんだ」 「あ、あ、あのっ…!」 吉羅は香穂子を引っ張るようにそのまま連れていく。 吉羅が車を停めている駐車スペースに着く頃には、雨が降り始めていた。 吉羅は強引に香穂子を車に乗せると、そのまま発進する。 雨は途端に酷くなり、ワイパーのお世話になる。 「石川町方面だったね」 「…はい…」 直ぐに吉羅はハンドルを切る。 「香穂子、君はどうしてそんなにも素直になれないのかね」 吉羅はかなり苛々しているようで、冷徹な雰囲気を漂わせている。 「…吉羅さんこそ、綺麗な女性と一緒にいれば良いじゃないですか…。私なんかを送らなくても…、良いじゃないですかっ!」 香穂子はいきり立ちながら、吉羅を思い切り睨み付けた。 「私が誰と一緒にいようが、君には関係ないじゃないか…。嫉妬をしてそんなわがままを言うものじゃない」 吉羅はいつも以上に冷徹な声で言うと、香穂子を睨み付ける。 香穂子は更に胸が抉られるような気がした。 こんなにも苦しいことは他にないのではないかと思う。 心臓が狂うように痛い。 解っている。 このままでは発作を起こしてしまうことを。 香穂子は車窓を確かめ、ここが家からそんなにも離れていないことに気付く。 ここならば、何とか帰るこてが出来る。 家に着いて発作を起こしても大丈夫だから。 「吉羅さん、車を停めて下さい」 「何、子供染みたことを言っている。この雨では風邪を引く…」 「良いから!」 香穂子が声を荒げたのと同時に、吉羅はブレーキを踏む。 「そんなに嫉妬をしてどうする。私は君のものではないのだから…」 吉羅は呆れ果てたとばかりに溜め息を吐いてくる。 香穂子はそのままドアをこじあけようとした。 「何をするんだ」 「帰ります。ここから近いですから!」 「だったら勝手にしなさい!」 吉羅は珍しく声を荒げると、ドアを開く。 「…君とはもう逢わないほうが良いのかもしれないね…」 吉羅は呆れ果てたように溜め息を吐く。 「そうですね」 もう心臓が停まってしまうかもしれないと思うほどに、香穂子はショックを受ける。 だが、受け入れられる。 香穂子は雨の中、車から飛び出して、自宅へと向かう。 ヴァイオリンだけは守らなければならないと、抱き締めるように運んだ。 吉羅と逢えなくなる。 だが、それが一番辛い。 だがそれが一番良い方法に思えた。 雨に打たれながら、香穂子は小走りで家まで向かう。 心臓がもうもたないかもしれない。 限界に来ている。 どうか家に到着するまでは頑張って貰うしかない。 香穂子はようやくうちが見えてホッとする。 玄関ドアを開けた瞬間、示し合わせたかのか、香穂子はそのまま崩れ落ちた。 もう何もない闇に漂った。 車内にひとり残された吉羅は、大きな溜め息を吐いた。 こんなにも怒ったのは久しぶりだ。 香穂子が一緒にいると感情がコントロール出来なくなるのだ。 このような相手は初めてだ。 冷静沈着でいつもいたいと思っていたのに、それが出来ない自分がもどかしくてしょうがなかった。 香穂子は危険分子だ。 このまま一緒にいないほうが良い。 その方がお互いの為だ。 吉羅は溜め息を吐きながらベストな選択だと自分で思う。 いや、思おうとしているだけなのかもしれない。 本当は…。 吉羅はそこまで考えて、考えないことにした。 遠くでけたたましい救急車の音が聞こえる。 全く迷惑で苛立たしい音だと、吉羅は思った。 吉羅は救急車の音を聞き流してから、自宅へと向かう。 早く救急車の音から逃れたかった。 一体、何が起こったかが解らなかった。 ただ気付いたらベッドの上だったのだ。 これには香穂子も苦笑いを浮かべるしか出来なかった。 沢山の医療器具が着けられているのが、切なかった。 香穂子が目をパチパチさせていると、母親が気が付いて、その手を握り締めてくれた。 「香穂子、目が覚めたのね…。もう大丈夫だから…」 香穂子はホッとして笑顔になる。 母親が心配そうにこちらを見ているのが解る。 発作を起こしたということは、香穂子にとっては死に近付いているということを意味している。 それを母親は苦しく思っているのだろう。 香穂子はもう母親には迷惑をかけることは出来ないと、心底から思った。 「風邪も拗らせているから、一週間ほど入院することになるからね…」 香穂子は頷いた後目を閉じた。 そこまで酷い状態だったのだろうと、香穂子は察する。 吉羅とは綺麗にお別れをしたかったが、しょうがない。 もうこれでおしまいなのだ。 お終いにした方が良いと、香穂子は思った。 香穂子からは一切連絡はない。 これで良かったのだ。 誰かに束縛をされるのは嫌だ。 自分は誰のものでもないのだから。 吉羅は自分からも連絡をすることはもうないだろうと思う。 だが、つい香穂子のメールアドレスや携帯電話の番号を探る自分がいる。 今は別れたばかりだからそうなるのだろう。 吉羅は自分自身にそう言い聞かせていた。 |