*Limited Lovers*

12


 ようやく医療器具が外されて、香穂子は自由になった。
 だが、まだ退院は出来ない。
 退院してからも、恐らくはもう余り無理をすることは出来ないだろう。
 自由に大学に行くこともかなわなくなるだろう。
 今は自分が許された時間に静かに全力を尽くすしかないと香穂子は思っていた。
「香穂子、金澤先生と天羽さんが見えたわよ」
「うん、有り難う、お母さん」
 香穂子がベッドから躰を起こすと、可愛い花を持った天羽と金澤が姿を現した。
「菜美! 有り難う! 金澤先生有り難うございます!」
 ふたりの姿を見ていると、本当にホッとする。
 温かいオアシスのようなものだ。
 見舞いの花を受け取り、香穂子はその花の香りを楽しむ。
 柔らかくて優しい香りだ。
「大丈夫なの…? 香穂…」
「笑顔で大丈夫…って言える状態ではないようだけれど…、来週には退院して自宅でのんびり出来ると思っているよ。大学に行くのは自分のペースを考えながらになるから、かなりスローペースになるのは間違いないけれど…」
「…そうなんだ…。余り無理はしないようにね…?」
 天羽は本当に心底心配をしてくれている。
 それがとても温かいと思う。
「大学はいつでもお前さんを待っているから、焦らず無理せずに頑張るんだ」
 金澤は、心配そうに香穂子を見つめてくる。そこには様々な感情が滲んでいることを、香穂子は気付いていた。
「先生、いつもご心配下さって有り難うございます。退院したら大丈夫ですから、また大学に通えます。自分のペースでしっかりと頑張りたいと思っています」
 香穂子が笑顔で言えば、金澤は何処か切ない眩しさを秘めながら頷いた。
 ふたりを交えて話すのは本当に楽しくて、良い気分転換になったと香穂子は思った。
 こうして話していれば、考え込まなくて良い。
 病気のことや吉羅のことで色々と思い悩むことはないから。
 よく笑って、よく喋って、短い時間だが充実することが出来た。
「それじゃ…、俺たちはこれで」
「はい。気をつけて帰ってくださいね」
 金澤は一瞬、香穂子に背中を向けた後、振り返る。
「日野、吉羅のことは…」
 相当言いにくいことなのだろう。金澤は逡巡するように言う。
 金澤に余り心配をかけることは出来ない。
 香穂子はあくまで吹っ切れた笑顔で金澤を見た。
「終わったことですから」
 ただそれだけを穏やかに言う。
 すると金澤も納得をしたのか、しっかりと頷いた。
「…そっか…。俺は…吉羅といるお前さんが、素直で良いと思っていたがな」
 金澤は、さり気なく香穂子の心を抉るような言葉を言ってくる。それが辛い。
「じゃあまたな」
「はい、また…」
 ふたりの背中を見送りながら、香穂子は急に寂しさと切なさを感じていた。

 香穂子とはもう終わったことなのだ。
 何も考えることはない。
 もう遠い過去の女なのだ。
 吉羅はそう思うようにした。
 今日もまた違う女を連れて、バールへと向かう。
 その途中で、ばったりとこの間のパーティを主催した夫婦に出くわした。
「あら…」
「こんにちは」
 吉羅が挨拶をすると、夫妻も挨拶をしてくれた。
 夫妻は吉羅が連れている相手が香穂子ではないことに、若干ではあるが驚いているようだ。
 吉羅はそれが苦々しく思えた。
 もう終わったことだ。
 日野香穂子には二度と逢う気はない。
 なのに。
 どのような女と付き合っても、香穂子と一緒にいる時のような幸せを得ることは出来ない。
 癒されることはない。
 それがかえって苛立ちを覚えた。
 吉羅にとっては過去のことだと思えば思うほどに、香穂子を求めてしまう自分がいるのが嫌でしょうがなかった。
「吉羅さん、またパーティに見えて下さいね。あのヴァイオリニストさんのヴァイオリンをまた聴かせて頂きたいですわ」
 ふたりは笑顔で言うと、軽く会釈をしてどちらかへと行ってしまった。
 香穂子のヴァイオリンが無性に聞きたい。
 それは吉羅も同じことだ。
 あの音色に癒されたい。
 そして何よりも香穂子自身に癒されたいと思う自分がいた。

 結局、女とはバールで一緒にいただけで、直ぐに別れた。
 一緒にいる気になれない。
 最近はとみにそう思えてしまう。
 香穂子のことばかりを思い出す自分に対しての苛立ちが最高潮に達していた。
 吉羅は時計を見て、まだ香穂子が起きているだろうと推測する。
 電話を掛けようと指が自然に動いてしまう。
 自分でそれはダメだと思っても、こころが従おうとはしなかった。
 自宅まで向かおうとしたところで、今度は金澤と鉢合わせをした。
「金澤さん、こんばんは」
「…何だ…、お前さんはひとりだったのか…」
 金澤は溜め息を吐くと、吉羅を見た。
「…日野とは終わったらしいな」
「いつものことですよ」
 吉羅はさらりと受け流そうとする。
 だが、金澤はそれで止めなかった。
「…お前さん、相当苛ついているんじゃないか…? 俺にはそう見える。今までなら…女と別れて…そこまで苛立ちをすることはなかったはずだ。日野と一緒にいる時のお前さんは、穏やかだったし、お前さんらしかったと思うぜ」
 金澤に痛いところを突かれてしまい、吉羅は黙り込んでしまう。
 そのように見えてしまったのだろうか、金澤には。
 元々、のほほんとしているように見えて、いつもシビアな洞察力で物事を見ている。
 そこが凄いところだと、吉羅は思っていた。
 今回も完璧に当てられてしまったのが、ほんのりと悔しい。
 吉羅はわざとポーカーフェースを装った。
 自分でも解ってはいる。
 だが、お互いに相容れなかったのはしょうがない。
 吉羅はぼんやりとそう思った。
「…俺は…お前さんたちがふたりでいるのを見ていると、本当に幸せそうだと思った。お互いにな」
「金澤さん…」
「…まあこれで良かったのかもしれないがな…。お互いに深く傷つかなくて済んだんだからな…」
 金澤はフッと寂しそうに笑うと、吉羅の横を通り過ぎた。
「…じゃあな」
「はい」
 金澤の後ろ姿を吉羅はじっと見つめる。
 真実を言い当てられて、吉羅は香穂子のことを思い出す。
 やり直しなんて出来ないはずなのに、やり直したいとすら思う。
 吉羅は自分自身で否定すると自宅へと戻る。
 だが、香穂子に逢いたいと思う気持ちは、なかなか消えやしなかった。
 香穂子に逢いたい。
 離れている時間が長ければ長いほどに、香穂子に逢いたくなった。
 やり直せる。
 やり直せない。
 自問自答をしながら、吉羅は携帯電話のディスプレイに香穂子の番号を出す。
 吉羅は緊張しながら、電話をかけてみた。
「…お掛けになった番号は電波の届かないところにいるか、電源が入っていません…」
 吉羅は溜め息を吐くと、電話を切った。
 香穂子の声が聞きたい。
 それが聞けたら、こんなにも素晴らしいことはないのにと、思わずにはいられなかった。

 何度か香穂子に電話を掛けたが、いつも電源が入っていないか電波の届かないところにいた。
 通じない。
 これほどまでに続いてしまうと、何かあったのではないかと思わずにはいられなかった。
 吉羅は余りにも電波不調が続くので、金澤にそれとなく訊いてみることにした。
 吉羅は金澤に電話をする。
「金澤さん…日野君が電話に出ませんが…何か…」
 吉羅の問いに金澤は溜め息を吐く。
「…日野だが…、今…、入院しているんだよ…」
 金澤の言葉に、吉羅は息を呑んだ。



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