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まさか香穂子が入院しているなんて思ってもみなかった。 まさに青天の霹靂だ。 「…日野君は…入院をしているんですか?」 「…ああ。この間のパーティの後だ…。そろそろ退院だとは聞いているがな…」 「日野君が…」 吉羅はショックでしょうがなかった。 まさかあの後倒れたなんて、吉羅は責任の一端を感じずにはいられない。 大喧嘩をした後にまさか発作を起こして入院してしまうとは、吉羅は思ってはみなかった。 しかも、今更ながら、香穂子が何の病気にかかっていることを知らなかった。 しかも発作だなんて穏やかではない話だ。 香穂子の病気が何なのか、知らなければならないと思った。 「…金澤さん、香穂子の病が何なのか…、分かりますが?」 「…本人から直接訊いてくれ…。俺もよくは知らないんだ。ただ、心臓の深刻な病気だということだけは訊いている」 「…心臓の深刻な病気…」 吉羅は思わず反芻する。 もしそうならば、吉羅はなんてことをしたのかと思わずにはいられなかった。 「一度本人に逢いたいのですが…」 「…俺からは何処に入院をしているかは言えない。お前さんが直接訊いたほうが良いと俺は思う」 「…解りました。そうですね…」 吉羅は携帯電話を切ろうとする。 「吉羅、日野は昼間に連絡をつけたほうがつかまり易い」 「解りました。そのようにします」 「ああ」 吉羅は電話を切った後で、溜め息をひとつ吐いた。 まさか香穂子が心臓の病気にかかっているとは、思ってもみないことだ。 吉羅は昼休みを狙って、香穂子に電話を掛けることにした。 昼食を終えて、香穂子は楽譜を読んだり、音楽に関する書物を読む。 じっくりと読んでいると、不意に携帯電話が鳴り響いた。 ちらりと見ると、着信相手は吉羅暁彦だ。 手が震えて、電話を取ろうとする。 だがそれは出来ない。 香穂子は思い止まって何とか携帯電話を出ないようにした。 一旦止まってホッとするのも束の間、また電話が鳴り始める。 今は病院にいるので、昼休みだけ電源を入れている。 恐らくはそれを狙って吉羅は電話をかけてきたのだろう。 香穂子は携帯電話を枕の下に隠して、それから逃れるようにした。 あの声を聴いてしまえば、また期待を持ってしまう。 決心や覚悟というようなもの総てが消え去ってしまう。 それは出来なかった。 香穂子にとっては出来ない相談だった。 吉羅からは本当の意味で離れなければならないと思う。 とうとう三回目の電話がかかる。 ちょうどそのタイミングで、母親が入ってきた。 「香穂子、電話が鳴っているわよ。出てあげないと」 何も知らない母親は、香穂子をさらりと咎めるように言った。 しょうがなく、香穂子は電話に出た。 「…はい…」 香穂子の声を聞いた途端、吉羅は何度か電話を掛けて良かったと、心から思った。 あの声を聴いただけで、この上ない幸せを感じた。 「香穂子…」 吉羅の声に、胸が痛くてしょうがなくなる。 「…吉羅さん…」 「…君と話がしたかった…!」 吉羅は心からの言葉を、魂から振り絞るように言う。 逢って貰えなくても構わないから、せめて話をしたかった。 「…吉羅さん…、私はもう…お話することはありません…。お話は前もってした筈です…」 「香穂子、君が入院をしていると聞いた。具合は大丈夫なのかね…?」 「大丈夫ですから、心配されなくて良いです」 香穂子は淡々と冷徹な声で言うと、直ぐにでも電話を切ろうとする。 それは阻止したかった。 「待ってくれ、君を見舞いたい」 「わざわざお越し頂かなくても大丈夫です。もうすぐ退院ですし。 責任を感じられる必要はないですから」 「…香穂子。お願いだ、ひとめ君に逢いたい。本当に元気なのかを確かめたい…」 「このように吉羅さんと話す事が出来るんですから、元気には違いないです」 香穂子は明るい調子で言うが、吉羅には何処か空元気な感じがしてたまらなかった。 「…私は、君を傷付けてしまった…。本当に済まなかったと思っている…。本当だ…。何度謝ったとしても駄目なのは解ってはいるが、本当に済まないと思っている…」 吉羅は心からの謝罪の気分で呟く。 「…吉羅さん、お気持ちはとても有り難いと思っています…。…私は…、これ以上あなたといたとしても、未来はないと思います。私はこのような躰だから、未来を見ることが出来ないんですよ…。だから…あなたは未来が見られるように、他の方を見つけて下さい。憐れみで見ないで欲しいんです」 香穂子はキッパリと言い切る。 その声には芯が通り、凜としていた。 吉羅はそれでも諦めきられないと思う。 それほどまでに相手を想うのは、香穂子が初めてなのだ。 「お願いだ…。少しで良いから話をさせてくれないか?」 「…吉羅さん…」 香穂子はかなり逡巡しているようだった。 香穂子なりに苦しんでいるように見える。 「…一度あなたにお逢いすると、私自身の決心が鈍ってしまうんです。だから逢わないほうが良いと思っています。先日のことは…、実は…余り関係がないのかもしれませんね…」 香穂子は小さく呟くと溜め息を吐いた。 「…では疲れてしまうので電話を切りますね…」 「待ってくれ。君は何処の病院に入院をしているのかね?」 「…それは言えません」 「教えてくれ」 吉羅はなおも食い下がる。 香穂子が何処の病院に入院しているかをどうしても知りたかったのだ。 香穂子は暫く黙っている。 苦しそうなのは解る。 吉羅は更に食い下がった。 「本当に君に逢いたい」 吉羅が誠実に想いの丈を滲ませて言うと、香穂子は遂に大きな溜め息を吐いた。 「…今日一日猶予を下さい。お願いします…」 香穂子は考えてくれるという。それが嬉しかった。 吉羅はホッと胸を撫で下ろして溜め息を吐くと、香穂子に言う。 「有り難う。良い返事を期待している」 吉羅は取りあえずは第一段階を乗り越えることが出来たと思った。 「…有り難う…」 「…では、切りますね」 「ああ」 吉羅は少しだけホッとして電話を切る。 本当に良かったと心から思った。 香穂子は携帯電話を切るなり、大きく深呼吸をした。 かたくなな自分のこころがほぐれて来る。 香穂子はホッと溜め息を吐くと、携帯電話を見つめる。 吉羅を信じたい。 吉羅を信じられるのか? そのようなことを、つい自問自答をしてしまう。 香穂子は吉羅の番号を見つめながら、まだ夢を見たいと思っている自分がいることに気が付く。 残り時間は少ないのかもしれない。 だが、その残り少ない時間は、吉羅色に染め上げたいと思う。 吉羅を傷付けるリスクもかなりあるだろう。 香穂子はそれが一番辛かった。 このまま吉羅と切れてしまえば、傷つかなくて傷つけなくて済む。 だが、それでも一緒にいたいと思う自分がいる。 それが香穂子には辛かった。 決心がなかなかつかない。 どちらが良いのだろうか。 それを見極めることが出来なかった。 吉羅への恋心を糧にこの先生きて行くのか。 それとも、傷つかずに静かに過ごすのか。 香穂子にはそれが解らない。 いや、正確には理性が解っていないのだ。 本音では吉羅のそばに最期までいたい。 悔いのないほうを選ばなければならない。 そこまで考えたところで、香穂子はハッとする。 悔いのないほう。 それは紛れもなく、吉羅のそばにいるほうだと思った。 |