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「君は何でも自分ひとりで抱えようとする。そんなことをしなくて良いんだ。私がいるじゃないか。だから私に苦しい部分を預けると良い」 吉羅はテーブルの下で香穂子の手を握り締めてくれる。 その力強さと温かさに、香穂子は心ごと包まれたような気がした。 「…吉羅さん…、有り難うございます…。何だか少しだけホッとしました…」 香穂子が泣き笑いの表情を浮かべると、吉羅は柔らかなまなざしで心を包み込んでくれた。 不意に吉羅が時計を見る。 「そろそろ良い時間だ。行こうか」 「はい…」 吉羅は香穂子の手をそっと握り締めると、そのまま入口へと向かった。 こうして吉羅に手を握られていると、不思議なぐらいに安心することが出来た。 車に乗り込んだ後、吉羅は香穂子をそっと抱き寄せる。 「うちに来ないか? 君とは色々と話がしたい」 「…はい…」 吉羅の自宅に向かいながら、香穂子は胸がドキドキするのを感じていた。 吉羅の家に行く。 そうすれば少しは気が紛れるかもしれない。 香穂子は笑顔になりながら、吉羅に甘えるように寄り添った。 香穂子から聞かされた事実は、吉羅にとっては、かなり衝撃だった。 まさかあの生命力のある香穂子が、余命宣告を受けていたのはかなりのショックだった。 いや、本当は解っていたのかもしれない。 だがその事実から避けてきたのだ。 吉羅はこころが動揺する余りに震えているのを感じる。 香穂子が来年の桜を見られないかもしれない。 そんなことは認められない。 香穂子には来年の美しい桜も見て欲しかった。 願わくば、一緒に見られたらこれ以上の喜びはないと思ったのだ。 奇蹟を起こす方法はきっとある筈だ。 探せば必ず。 だからこそ、吉羅は絶対に諦めたくはないと思っていた。 吉羅は、香穂子を自宅へと連れていく。 それしか思い浮かばなかったのだ。 そばにいて、ただ抱き締めてやりたかった。 いいや、自分自身が抱き締めたいだけなのかもしれなかった。 吉羅は、香穂子を連れて自分の部屋へと入る。 ふたりきりになった瞬間、吉羅は香穂子をしっかりと抱き締めた。 「香穂子…、私は君から絶対に離れやしない。君と一緒に闘いたい。君と一緒に奇蹟を探したい」 奇蹟は必ず何処かにある。 吉羅はそう信じて止まなかった。 「…有り難う…」 香穂子が感きわまったように声を震わせると、吉羅にしっかりと抱き付いてきた。 奇蹟をふたりで信じればどうにかなる。 吉羅はそう信じていた。 吉羅は香穂子の柔らかい躰を抱き締めた後で、いつまでもじっとしていた。 吉羅が奇蹟を信じてくれている。 香穂子にとってはとても嬉しいことだ。 吉羅は本当に奇蹟を信じてくれているが、香穂子はそうではなかった。 自分の人生の残りが後少しであり、それが覆るものではないことを解っていたから。 香穂子は吉羅の腕の中でまあるくなりながら、幸せと絶望を感じる。 健康であるならばこんなにも幸せなことはないというのに。 「…香穂子…?」 気配で香穂子が起きていることに気付いたのか、吉羅は声を掛けてきた。 「…起こしてしまいましたか…?」 吉羅は香穂子を更に近くに抱き寄せると、その額にキスをしてくれる。 「…大丈夫だ、心配しなくても良い。そろそろ起きる時間帯だからね」 吉羅はベッドサイドの時計を確認すると、躰を起こした。 「ずっと眠れなかったのかね…?」 「私も先ほど目が覚めたばかりですから、大丈夫です」 「…そうか…」 吉羅はほんのりとホッとした後、ベッドから出る。 「香穂子、朝食を作るから、君はもう少し寝ていなさい。良いね」 「有り難うございます」 香穂子は素直に吉羅に甘えることにした。 吉羅がベッドから出てシャワーを浴びるためにバスルームへと向かうのを見送った後、ベッドに横になる。 こんなにもゆったりとした気分で過ごせるのは初めてだと思いながら、ベッドの上で思い切り伸びをした。 香穂子は吉羅がバスルームから出てキッチンへと向かったことを確認した後で、バスルームに入ってシャワーを浴びる。 身仕度が終わる頃には、とても気分が良くなっていた。 ダイニングに入ると、吉羅は既に朝食の準備をしてくれていた。 「茶粥だ。君の口にあえば良いんだがね」 「有り難うございます。嬉しいです」 吉羅の手作りの料理を食べるなんて、なかなかチャンスがないことなので、香穂子には嬉しかった。 「頂きます」 和風の朝食に心をときめかせてしまう。 「美味しい!」 香穂子が明るいトーンで言うと、吉羅は喜んでくれる。 それが嬉しかった。 吉羅は食事を取り終えた後で、時計を腕につけて、テレビの時計を見ながら自分の時計の時間を合わせていた。 「時計が狂っているんですか…?」 「いいや。私は手巻き時計を使っていてね、毎朝、時間を合わせているんだよ」 「私に時間合わせをさせて貰って良いですか?」 香穂子が笑顔で言うと、吉羅はフッと笑って言葉を紡いだ。 「だったら、君にお任せしよう」 「有り難うございます」 吉羅から時計を受けとると、香穂子は楽しげな気分で、時間を合わせ始めた。 きちんと合わせなければならないせいで、かなり神妙な気分で、時計を合わせた。 ドキドキしながら何とか吉羅の時計を合わせて、香穂子は手渡す。 「はい、どうぞ」 香穂子が時計を手渡すと、吉羅は笑顔で受け取ってくれた。 文字盤までが精巧に作られた素晴らしい時計だと、思わずにはいられなかった。 「良い時計ですね」 「有り難う」 「とても素敵な時計だなあって思っていたところなんです」 「有り難う」 吉羅は満足そうに言うと、香穂子を抱き締めた。 「時計をしてみるかね?」 「ぇ 良いんですか?」 「ああ。少しぐらいならね」 「有り難うございます」 吉羅に緩やかに左手を差し出す。 「さあ、時計をしたまえお嬢さん」 「有り難うございます」 香穂子は左手首を幸せな気分で何度も見ながら、笑顔になった。 「凄く細かい装飾がうっとりとするぐらいに、素敵だと思います」 「それは良かった。君が気に入ってくれていて私もとても嬉しいよ」 「だけどかなり高級品なんですよね。着けられたことだけで嬉しいです」 香穂子が丁寧に時計を外して吉羅に手渡すと、少しだけ苦笑いをした。 「…君によく似合っていたと思うよ」 「私には分不相応だから」 香穂子は軽く笑うと、吉羅を笑顔で見つめた。 「…そんなことはないさ。確かに男物だから、君には少しデコルテが大きいかもしれないがね」 「だけどとても素敵な時計です。クラシックなデザインも私の好みです」 「…そうか…」 吉羅は時計を手早く着けた後、香穂子の髪を優しく撫でてくれる。 それが嬉しい。 「…香穂子…、ここで暮らさないか?」 「…え…?」 いきなりの吉羅の申し出に香穂子は驚いて目を見開く。 「少しでも君のそばにいたいんだよ。構わないかね?」 いきなりの申し出に、香穂子はどう対処して良いかが解らない。 「…吉羅さん…、それは私が余命宣告を受けていることと、何か関係しているでしょうか…」 香穂子の問いに、吉羅は静かに首を横に振った。 「…いいや、それは関係ない…。君とただ一緒にいたい。それだけなんだよ。余命宣告を受けていることは関係ないよ」 吉羅はキッパリと言うと、香穂子の手をしっかりと握り締めてくれた。 |