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吉羅と一緒に暮らす。こんなにも幸せな時間の過ごし方は他にはないだろう。 だが同時に、こんなにも辛くて切ない時間の過ごし方もないだろうと、香穂子は思わずにはいられなかった。 吉羅とふたりで優しい時間を紡ぐ。 それは同時に、別れの時間がかなり辛くなることをしめしていた。 それゆえにじっくりと考えなければならない。 吉羅と一緒にいたい。 だが、別れる時間が辛くなるのは嫌だった。 「…香穂子…、じっくりと考えてくれたら良いんだ」 吉羅が気遣うように呟く。 「…有り難うございます。吉羅さん、私…、別れなければならない局面が来た時に、あなたが傷つかないか心配なんです…」 「そんな日は来ない。君はずっと私のそばにいて生きていく。それだけだ。何か方法はある筈だ。私たちがずっとこうしていられる方法が…」 「…暁彦さん…、有り難う…」 香穂子が泣きそうになっていると、吉羅は抱き寄せてくる。 「起こってもいない最悪なことは考えなくても良いんだ」 「…吉羅さん…」 本当に、起こってもいない最悪なことを考えなければどれ程楽だろうか。 香穂子ひとりならばそう考えられただろうが、吉羅が一緒だとそうはいかなかった。 その先のことを考えて、相手を傷つけたくはないと思ってしまう。 本当にそれしかない。 「…一緒に暮らそう…」 吉羅は香穂子をあやすように抱き締めてくれると、ほんのりと甘いキスを額にくれた。 「…私は傷つかないよ。それよりも君が私と一緒にいてくれないことのほうが、よほど傷つく…」 「吉羅さん…」 「一緒に暮らしてくれるね?」 吉羅がここまで言ってくれている。それが香穂子にとっては泣きたくなるほどに嬉しかった。 「…はい…。吉羅さんと一緒に暮らします…」 「有り難う…。君を出来る限り幸せにするから」 「はい…」 吉羅の言葉が嬉しくて、香穂子はつい泣き出してしまう。 「泣くんじゃないよ…」 吉羅は優しいリズムで言うと、香穂子の背中を撫でてくれれ。 香穂子は総てを吉羅に預けようと決心した。 香穂子と一緒に暮らす。 吉羅はそれがとても嬉しくてしょうがない。 出来たらこのままでずっといられたらと思わずにはいられなかった。 一緒に暮らすことを決めたものの、様々な準備をしなければならなくて、多忙な日々を送る。 一緒に暮らす以上は、香穂子に病状をしっかりと訊いておかなければならない。吉羅は香穂子に訊いてみることにした。 「香穂子…、君の主治医に一度逢って、君の病状を把握しておきたいのだが、構わないかね?」 「…先生に…」 香穂子は目を伏せると、困ったような表情を浮かべる。 そこには何処か切なさがにじんでいた。 「…私…、吉羅さんには先生に逢って頂かなくても良いと思っています…」 「…それは違うと思う。君と一緒にこれから生活を作っていく以上、君の病状をきちんと知っておきたい。…何かあった時、きちんと対処が出来るようにしておきたいんだ。構わないね?」 確かに吉羅が言っていることは一理ある。 だが本当の病状を知ったら、吉羅は離れてしまうのではないかと、香穂子は思った。 それが怖いのだ。 「…病状を知ったら…、吉羅さんは私のことが嫌いになるかもしれません…」 声にならない声で言うと、吉羅は抱き寄せて来た。 「君を嫌いになるなんて、私には有り得ないことだよ。心配しなくても良いんだ…」 「…吉羅さん…」 吉羅の一言が嬉しい。 複雑な気分にになった。 「解りました…。主治医のところに案内します」 「有り難う…」 吉羅はホッとしたようにただ微笑んでいた。 香穂子の病状を聞くために、無理を言って主治医に逢わせて貰う日がやってきた。 香穂子と落合い、大学病院へと向かう。 「本当は…暁彦さんには話をしたくない気持ちはあります…。だけど、一緒に暮らす以上は知って頂かなければならないと思っています…。だけど、複雑ですね」 香穂子は苦笑いを滲ませながら、吉羅を見た。素直な気持ちなのだろうと、吉羅は思う。 「先生の診察室はこちらです」 香穂子は背筋を伸ばすと、診察室のドアをノックした。 「先生、日野です」 「どうぞ」 現れた主治医は心臓内科医の美しい女性だった。 「ようこそ、香穂子さんのことについてお話をさせて頂きます主治医の都築です」 「吉羅暁彦です」 吉羅が頭を下げると、都築は甘く笑った。 「日野さんの病気のことをきちんと訊かれたことはありますか?」 「詳しくは訊いてはいません」 「…そうですか…。こちらが心臓の模型です。香穂子さんの心臓はこの部分に、神経芽細胞種というガンの一種の腫瘍が出来ています。この病気は、普通は小さな子供さんがかかります。香穂子さんのケースはとても珍しいと言えますね。 ----この腫瘍が血流を圧迫し、このまま放置しておけばやがては死を迎えます…。ただこの腫瘍が出来ている位置が難しい場所なんです。手術がとても難しいところで…、成功率は良くて三割です」 医師は淡々と話しながら、心臓の模型を取り出した。 「この部分。一番手術がし難い部分です。リスクが大きいので、なかなか執刀したがる医師がいないのが現状です。日野さんの場合も、まさにそこが問題です。“ゴッドハンド”と呼ばれる医師はなかなかいませんからね」 医師は職業柄病気には慣れているのだろう。 淡々と何事もないかのように話している。 吉羅は事実をなかなか受け止めることが出来なくて、こころがちぎれてしまいそうになった。 「…香穂子さんは、手術はしないという書類にサインをしています。ただ、今の状況ではというところですが…」 都築は溜め息を吐くと、香穂子のカルテに視線を落とした。 切なさと無力感が横顔に滲んでいる。 恐らくは職業柄、慣れているのだろう。 ポーカーフェースを装うことを。 それが感じられて、吉羅は胸が痛い。 「こちらも手を尽くして手術をして下さる医師を探しましたが、見つからなかったんです…」 都築の横顔を見て思う。 ここで諦めてはならない。 諦めてしまえば、香穂子の命は確実に消えてしまう。 吉羅はそれを充分過ぎるぐらいに解っていた。 「探します、手術をしてくれる医師を…!」 吉羅は力強く言い、信念を持って都築を見た。 「それが一番良い方法ですね…。日野さんの発作が最近大きくなってきているので、注意が必要になっていますから。日野さんの発作が酷くなると、それだけ命を縮めることになりますから。お願いしますね」 「はい」 都築は目を閉じると、軽く呼吸をした。 「こちらは日野香穂子さんの心臓のレントゲンです。医師を探す場合、こちらを送付下さい。紹介状はこちらで書きますから」 「お願いします」 何があっても香穂子を失いたくはない。 吉羅は強くそれを思う。 香穂子を失わないために、最大限の努力をしなければならないと、吉羅は思った。 主治医との面会が終わり待合ロビーに行くと、香穂子が静かに座って待ってくれていた。 「終わりましたか?」 「ああ。行こうか」 「はい」 ふたりは手を繋ぐと、駐車場へと向かう。 「ショックでしたか…? 私の本当の病状を知って…」 「…いいや…。私は…ふたりで一緒に闘わなければならないと思った…。それだけだ」 「…吉羅さん…、有り難う…」 香穂子は吉羅を見上げると、ただ泣きそうな顔をしながら見つめて来る。 その心許無いまなざしが可愛くて、吉羅はそっと抱き寄せた。 |