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穏やかな生活。 香穂子はとても満たされた幸せを感じている。 人生の最後で、こんなにも素晴らしい贈り物を貰えるなんて思ってもみなかった。 だから病気になったとしても、幸せでたまらない時間を過ごすことが出来ている、 それだけでも感謝をしなければならないと、香穂子は強く思った。 吉羅とふたりで朝食を取る。 なんて幸せなのだろうかと思う。 「吉羅さん、時計の時間を合わせます」 「ああ、頼んだ」 吉羅に手渡された手巻きの高級時計を、香穂子は時間を合わせて、丁寧に巻く。 一緒に暮らすようになってから、こうして時計を手巻きすることが、朝の日課になっていた。 香穂子にとっては幸せが詰まった時間には違いない。 こうして自分が出来る数少ないことを、吉羅にしてあげることが幸せだった。 「どうぞ」 「有り難う」 吉羅が時計を手早く腕にする。 その仕草を見るのが好きだった。 「今日は大学なのかね?」 「はい」 「しっかりと頑張りたまえ」 吉羅は香穂子の頬を優しく撫でて、力をくれる。 「有り難うございます」 「じゃあ私は行くから。戸締まりをきちんとしてくれたまえ」 「はい」 吉羅を見送った後、香穂子も大学へと向かう。 幸せな時間を謳歌しようと思った。 キャンパスを歩いていると、金澤とばったりと逢う。 「こんにちは金澤先生」 香穂子が丁寧に頭を下げると、金澤はフッと笑った。 「吉羅とは上手くいったんだな?」 金澤は事実を噛み締めるように言うと、香穂子を見た。 「有り難うございます。ふたりで、時間を大切にしながら充実した時間を送りたいと思っています。先生には色々とお世話になりました。何とかふたりで頑張っていけたらと思っています」 「そうか…」 金澤は香穂子を見守るようなまなざしで見つめると、寂しそうに笑った。 「…有り難うございます、本当に色々と」 「ああ。今度は三人で飲もうや」 「そうですね」 金澤が笑顔で言ってくれるのが嬉しい。 香穂子もまた笑顔になった。 たくさんの人々に見守られて自分達はいるのだと思う。 香穂子は、本当に心から感謝をしなければならないと思った。 吉羅が楽しんで貰えるように。 ただそれだけの理由で、香穂子はヴァイオリンの勉強に全力投球をする。 吉羅を少しでも癒せる音楽を奏でたいと想う力が、香穂子を更に上達をさせてくれていた。 吉羅と暮らす家に戻り、愛するひとのために食事を作る。 これぐらいのことしかしてあげることが出来なかったから。 香穂子は食事を作って、吉羅を待つ。 あの大喧嘩から、吉羅は香穂子以外の女性とは出かけないようにしてくれていた。 吉羅はなるべく早く帰って、香穂子との時間を大切にしてくれている。 今日も早目に帰ってきてくれた。 「ただいま」 「お帰りなさい」 香穂子が甘えるように抱き付くと、吉羅もまた抱き締め返してくれた。 こうして少しでも長くそばにいたかった。 食事の後は、ふたりでゆったりとした時間を過ごす。 香穂子がヴァイオリンを奏で、吉羅がそれを静かに聞いてくれるのだ。 幸せな時間だ。 ふたりを結び付けてくれたヴァイオリンを、香穂子は今まで以上に大切に想うようになっていた。 「最近、お疲れではありませんか? 遅くまで持ち帰った仕事をされているようですから」 「疲れてはいないから大丈夫だ。むしろ、以前よりも効率よく仕事をしていると思っているけれどね」 吉羅は大丈夫だとばかりに、香穂子に優しい笑みを向けてくれる。 「余り無理をしないようにして下さいね」 「ああ。有り難う」 ふたりで濃密な時間を過ごした後、吉羅はベッドから出る。 本当はじっとこうしていたいところだが、今は出来ない。 そんなことをしていては時間が無駄に過ぎてしまう。 香穂子の貴重な時間を、そんなことで潰したくはなかった。 「…吉羅さん…」 香穂子は、吉羅がベッドから出て行くことを察したのか、その腕を掴んできた。 「すまない…。少しだけ仕事に戻る」 「…やっぱり…無理をされているんじゃないですか…?」 「大丈夫だから、心配しなくても良いから」 吉羅は香穂子を抱き締めると、額にキスをした。 「三十分もしたら戻るから、君は先に眠っているんだ…」 「…はい…」 香穂子が頷くと、吉羅はホッとしてフッと笑った。 吉羅は書斎に向かい、香穂子の心臓手術をしてくれる外科医を探す。 難手術であるがゆえに、殆どの医師が難色を示す。 成功率が非常に低い。 それは裏を返せば、死亡率が高いということなのだ。 吉羅はそれを解っているから、引き受けないのだろうと思った。 今日も芳しくない返事ばかりがあるのだろうとメールをチェックすると、香穂子の主治医である都築からメールが来ていた。 「非常に優秀な外科医が見つかるかもしれません」 そのメールタイトルに、吉羅は素早くクリックする。 非常に優秀な心臓外科医の先生がいます。 手術をするために、日本中を飛び回っている先生です。 捕まえるのは難しい程に忙しい先生ですが、連絡してみて下さい。 都築 都築のメールには、連絡先が記されている。 この医師に賭けるしかないと吉羅は思う。 吉羅はメールをプリントアウトすると、明日、早速、連絡することにした。 これで香穂子が助かるのなら、どんなに遠くにいたとしても逢いにいく。 吉羅は香穂子のためならどのようなこともするっ決めた。 ベッドに戻ると、香穂子は優しい寝顔で眠っていた。 この寝顔をいつまでも見つめていられたら良いのにと思わずにはいられない。 吉羅は暫く、香穂子の寝顔を見つめた後、その横に躰を滑り込ませた。 翌朝、香穂子は穏やかな気分で食事を取っていた。 とても気持ちが良い。 香穂子は静かな幸せを味わいながら、吉羅との食事を楽しんでいた。 「本当に気持ちが良い朝ですね。幸せです」 「そうだね」 吉羅の穏やかな笑みに、香穂子が微笑み返した時だった。 「香穂子、そろそろ“吉羅さん”と呼ぶのは止めてくれないか?」 吉羅からの申し出に、香穂子は驚いてしまう。 「…だって…吉羅さんは…吉羅さんだから…」 「名前で呼んでくれないかな。“暁彦”と…」 いきなり言われても、恥ずかしくてしょうがない。香穂子は耳まで真っ赤にしながら俯いた。 「呼んでくれ」 「あ、あの…」 名前で呼ぼうとしてもなかなか上手く行かない。恥ずかしさが全面に出て来てしまう。 「あ、あの…その…。暁彦さん…」 香穂子は恥ずかし過ぎてモゴモゴと言ってしまう。 「まあ、よく出来たとは言い難いが、よしとしようか」 「採点が辛口です」 香穂子が泣きそうな気分で言うと、吉羅は苦笑いを浮かべた。 「もっと恥ずかしがらずに言ってくれたら良かったのだがね」 「意地悪ですね」 「意地悪じゃないよ」 ふたりは甘いやり取りをしながら、くすぐったい気分に浸っていた。 立ち上がろうとした時だった。 「…んっ…っ!」 突然、心臓を貫く痛みに、香穂子は顔をしかめる。 このまま息が出来なくなる。 香穂子はそのまま目を閉じると、暗闇に墜落していった。 吉羅は椅子から崩れ落ちた香穂子を、そのまま抱き起こす。 「香穂子っ! 香穂子っ!」 何度か名前を呼ぶが、香穂子は答えない。 まるで死んだように静かに目を閉じている。 吉羅は香穂子を死なせたくは無い想いに駆られながら、直ぐに救急車を呼んだ。 |