20
救急車が到着するまでのじかんがこんなに長いものだなんて吉羅は初めて知った。 いつもは余り感じないが、手巻き時計が時間を刻むのがどうしてこんなにも遅いのだろうか。 そんなことすら感じてしまう。 ようやく救急車が到着すると、吉羅は香穂子に付き添って一緒に乗り込んだ。 直ぐに治療室に通されて、都築がやってくる。 慣れているからか、テキパキと香穂子の処置をしていく。 処置は直ぐに終わったが、都築の表情は全くと言って良い程に晴れなかった。 「間も無く目が覚めるでしょう…。恐らくは大丈夫だと想いますが…、吉羅さん、香穂子さんのことで少しお話があります」 都築の晴れない深刻な表情に、吉羅は悪い予感がした。 都築の部屋に呼ばれて、改めて香穂子の心臓部分のレントゲンを見せられる。 「…吉羅さん、香穂子さんの心臓は、後三回発作が起こったら持たないでしょう…。最近、発作の間隔が短くなっています。恐らくは短い時間で三回の発作を起こしてしまうでしょう」 吉羅は目の前が真っ黒になってしまうのではないかと思った。 このまま思った以上にかなり早く別れてしまうことになるだろうと、切ない予感がする。 「手術するしかありません。もうこの段階でしたら、ギリギリのところでやらなければならないかと思います」 都築からのシビアな言葉に、吉羅はもう何も言葉を返すことは出来なかった。 香穂子がいなくなることを、何とか阻止をしたい。 そして出来るのならば、ずっと一緒に暮らせたら良いのにと、思う。 「直ぐに、医師に連絡をして下さい。香穂子さんは二日程入院させます」 「解りました」 吉羅は頷くと、早速、連絡をすることにした。 病室に戻ると、香穂子は眠っていた。 顔色がない寝顔を見つめながら、吉羅はその手を握り締めた。 すると香穂子はゆっくりと瞼を開ける。 「…吉…羅さ…ん…」 「気分はどうかな?」 「少しは…落ちついて…いますが…、苦しいのは、みんな同じだから…」 「明後日まで入院することになった」 吉羅が静かに伝えると、香穂子はがっかりしたような表情になった。 「…そうなんだ…。…私…、病室何かよりも…暁彦さんのそばにいたいよ…。暁彦さんと一緒にいられるだけで…、私は幸せだから…」 こちらがつい泣けてくるほどに嬉しい言葉を、紡いでくる。 「…私も君のそばにいたいよ…」 吉羅が頬を撫でると、香穂子はホッとしたように溜め息を吐いた。 「だけど…わがままですよね…。だって暁彦さんはお仕事だもん…」 「…香穂子…」 吉羅は香穂子が愛しくてたまらなくて、その頬を撫でる。 「いってらっしゃい」 香穂子の笑顔に、吉羅は胸を鷲掴みにされて、捻り潰されるような痛みを感じた。 吉羅は、直ぐに携帯電話が可能なところで、ゴッドハンドを持つと言われる心臓外科医に電話をする。 一度で繋がるとは思ってはいない。 だが、幸運にも電話がかかった。 「はい」 「私、吉羅暁彦と申します」 「ああ! 細胞種の切除の! 都築君から聞いていますよ」 外科医の言葉に、吉羅はホッとする。都築に感謝をせずにはいられなくなる。 「はい。先生に手術のお願いをしたいのですが…」 「資料を診せて頂きたいんですが…、私は今、熊本にいるんですよ。これから手術でね。夕刻には今度は大阪に行って、明後日また手術です。オフィスに資料を送って頂いても良いんですが…、何分帰るのが先でね」 「では先生のところに伺います。大丈夫な時間を教えて下さい。場所と時間をお願いします」 「…そうですね…。大阪空港に午後7時に到着します。空港待合室で構いませんか?」 吉羅は頷くしかないと思う。 きちんと外科医に約束を取り付けておかなければ、香穂子の命を救うことは出来ないのだから。 一緒に日本の素晴らしい四季を過ごしたい。このままでは過ごすことが出来なくなってしまう。 それは嫌だ。 たまらなく嫌だ。 吉羅は、医師を捕まえることに決めた。 「解りました。では宜しくお願い致します」 「はい、では後ほど」 吉羅は電話を切ると、先ずは大きな深呼吸をする。 まだ一歩を踏み出したに過ぎないが、とにかく前進することが出来た。 それだけでも進歩だ。 吉羅が病室に顔を出すと、香穂子が目線で笑みをくれた。 「…お仕事…、まだ行っていなかったんですか…?」 「…今から行く。香穂子、今夜は急用があって、顔を出すことが出来ない。すまない」 「大丈夫です…。明日には帰ることが出来ますから…」 香穂子は笑みを浮かべたが、何処か寂しそうにしていた。 本当はしっかりと抱き締めて、香穂子をあやしてやりたい。 だが、今はそれは出来ない。 先に進むためにも致し方がない。 「…香穂子、いってくる」 「はい、いってらっしゃい」 吉羅は香穂子に見送られながら、仕事に行くことにした。 香穂子の笑顔に背中を向けながら、吉羅は決意をする。 この笑顔を失わないためにも、香穂子を全力で救いたい。 姉が病に倒れた時には、本当に何も出来なかった。 だからこそ、今度こそは手をこまねいて見ているだけは嫌だった。 ちゃんと自分の意志で、自分の手で、出来る限りのことをして救いたかった。 今度こそ、後悔なんてしたくはなかった。 吉羅は秘書に頼んで夕刻の大阪へのフライトチケットを取って貰った。 帰りも念の為最終の羽田行の便を取って貰った。 都築の資料を持って大阪へと向かう。 いつも使っているフライト便なのに、今日は妙に緊張してしまった。 香穂子の命がまさにかかっているからだろう。 吉羅は祈るような気持ちで飛行機に乗り込んだ。 神様なんているとは思ってはいない。 だが、奇跡を起こすために力を貸して欲しいと、祈らずにはいられない。 こんなに強く深く祈るのは、姉を失った時以来だった。 祈りの根底にあるもの。 それは紛れも無く“愛”だと吉羅は思った。 吉羅は今日は来ない。 吉羅は世界でも優秀なビジネスマンだ。 仕事をしなければならないことは解っている。 なのにそばにいて欲しいだなんて、かなりわがままな感情だということを、充分に解ってはいる。 だが残り少ない時間を思うと、素直に一緒にいたいと思った。 わがままな自分を苦しく思いながら、吉羅が逢いにきてくれれば良いのにと思わずにはいられなかった。 吉羅は伊丹にある大阪空港に来ていた。 荷物は大切に持っている香穂子のカルテの写し、レントゲン、そして主治医都築の紹介状が入った封筒だけだ。 今の吉羅には、それが一番大切なものだった。 医師と約束をした空港のラウンジに向かい、時計を気にする。 手術を受けてくれるだろうかと、吉羅は思わずにはいられなかった。 こんなに不安になるのは初めてかもしれない。 それだけ吉羅は、香穂子への想いが強かった。 7時を過ぎた頃、初老の男が姿を現した。 「吉羅暁彦さんですか?」 「はい」 「医師の冬森と申します。早速ですが、資料を診せて頂けませんか…?」 「はい」 医師は早速、吉羅からカルテを受け取り、じっくりと見る。 レントゲンを見た瞬間、顔を曇らせた。 「これは厄介なところに腫瘍を作っていますね…。化学療法も放射治療も出来ないですね…」 医師は溜め息を吐くと、暫く、考えていた。 だが、迷いを振り切ったように真っ直ぐ吉羅を見る。 「解りました。やりましょう。彼女が三回目の発作を起こした時に連絡を下さい。直ぐに向かいます」 「有り難うございます…!」 吉羅は胸が締め付けられる程の感謝が溢れてくるのを感じた。 |