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「香穂子…!!!」 香穂子を何とか抱き留めたものの、目は全く開けない。 名前を何度呼んでも、香穂子は反応しなかった。 吉羅は直ぐに救急車を手配する。 香穂子の顔色が今までで極端に悪い。 ひょっとして来るべき時が来たのかもしれない。 吉羅はそう考えたところで、背筋が凍り付くように震えるのを感じた。 そんなことはないはずだ。 有り得ない。 喧嘩をしたままで、香穂子が逝ってしまうなんて、そんなことは許されない。 吉羅は救急車が来るまでの間、祈るような気持ちになっていた。 どうかこれが最期でありませんように。 これからもずっと香穂子の笑顔が見られるように。 吉羅は祈ることしか出来なかった。 救急車は直ぐにやってきて、香穂子を運ぶ。 香穂子のかかりつけの病院を言うと、直ぐに救急車は出発した。 酸素マスクをされながら、香穂子はもう掴むことが出来ないかもしれないほどの命の波動になっている。 どうか。 香穂子が目覚めるように。 どうか。 ちゃんと笑顔が蘇ってくるようにと祈らずにはいられなかった。 直ぐに集中治療室に香穂子は運ばれて、主治医の都築が様子を診る。 都築の表情はかなり深刻で、厳しいものだった。 ようやく香穂子の処置が済み、都築はホッとしたように肩から力を抜いた。 「吉羅さん、とりあえずは…間も無く目が覚めるでしょう…」 「有り難うございます」 吉羅は安堵の余りにホッと力を抜いたが、都築はそうではなかった。 「…吉羅さん、香穂子さんですが…、いつ…お亡くなりになってもおかしくない状況です…」 都築は今にも泣き出しそうな表情で、吉羅を見ている。 声が震えているところをみると、本当のことなのだろう。 吉羅は吐いてしまいそうなぐらいに胸が切なくて、唇を噛んだ。 「…香穂子…!」 「もう一度発作を起こしたら…、香穂子さんの死は近くなります…。今度の発作のタイミングで手術をしなければ、恐らくは…」 「…死ぬ…と」 都築が言いにくいだろうことを、吉羅は言う。 「…はい…」 都築は一呼吸置いて頷いた。 香穂子から命が流れ出そうとしている。吉羅には、それが痛くてしょうがない。 香穂子から流れ出そうとしている命を、どうしたら止めることが出来るのだろうか。 その確実な方法が知りたい。 だが、恐らくは難しいだろう。 吉羅は溜め息を吐くと、祈るしか出来ない自分に歯痒さを感じていた。 香穂子のそばにいて、その小さな手を握り締める。 冷たくて生命力を全く感じることが出来ない。 吉羅は、香穂子の手を一生懸命に擦ると、何とか温めようとする。 どうか、このまま冷たくはならないで欲しい。 どうか、喧嘩をしたままで逝かないで欲しい。 吉羅は必死になって祈った。 愛があれば奇蹟が起こせる。 そんなことはずっと信じてはいなかった。 正直言って、小ばかにしていた。 奇跡を起こせるような純粋な愛情はこの世には存在しないと信じていたから。 だが、今はそれを起こしたくなる。 奇蹟を起こすには、それなりの準備をすれば、きっと起こすことが出来る。 今はそう信じている。 究極のリアリストと言われた自分を、究極のロマンティストに変えたのは、香穂子なのだ。 だからこそ、失いたくない大切な存在だ。 吉羅は、香穂子の手を握り締めながら、話し掛ける。 「香穂子、香穂子」 何度も何度も名前を呼ぶ。 気遣ってか、都築はいつの間にか治療室から出ていってくれていた。 「…香穂子…、頼むから目を覚ませてくれないか…? 君が愛しいよ…。香穂子…。本当に君だけを愛している…」 吉羅は愛が滲み出た掠れ気味の声で囁く。 すると少しではあるが、香穂子の瞼が痙攣するかのように動いた。 「…香穂子…!」 まるで百年の眠りから覚めた眠り姫のように、香穂子の瞳がゆっくりと開いた。 綺麗な瞳は、総てを見通しているようだった。 これほどまでに澄んだ瞳を見たのは二度目だ。 姉が死直前に見せて以来だ。 そこまで思ったところで、吉羅はドキリとする。 姉と同じ。 吉羅は不安になる余りに、胸が軋むのを感じる。 息苦しくて痛い。 締め付けられるような痛みだ。 吉羅は、直ぐにその思い出を打ち消すように微笑んだ。 「…気分はいかがかね?」 優しく声を掛けると、香穂子は清らかな笑みを浮かべた。 「…大丈夫です…。有り難うございます…」 香穂子が微笑んでくれたので、吉羅は幾分かホッとする。 「…ごめんなさい…」 「…え…?」 「さっきはあんなにめ感情的になってしまって…。申し訳ないと思っています…」 香穂子は穏やかに落ち着いた笑みを浮かべている。 まるで世の中を達観しているような表情だ。 慈愛溢れる女神のように見える。 総てを受け入れて、達観するようなまなざしは、吉羅の胸を突いた。 もう何もかも達観し、穏やかで静かなオーラが漂っている。 だからこそ、香穂子はとても綺麗に見えた。 「…私も済まなかった…。感情的になってしまって…。香穂子、先ほどのことだが…」 吉羅が言いかけたところで、香穂子は首を横に振った。 「…何も言わないで下さい…。あなたを信じていますから。最後の日まであなたを信じています…。あなたにはいっぱいいっぱい迷惑をかけたから…、それだけでも申し訳ないと思っています…。あなたを疑うような行 動に出て…、ごめんなさい…。あなたを疑うなんてことは…、してはいけないのに…」 香穂子は、充分に話せる力などないくせに、一生懸命話をして、吉羅に謝っている。 穏やかでもう感情的ではなく、本当にどのような状況でも、受け入れることが出来ていた。 香穂子のほうがずっと年下だというのに、なんと落ち着いて、なんと達観していることだろう。 香穂子の心の中には、もう邪念なんてないのではないかと思った。 「私こそ済まなかった…。…君には近々、プレゼントのように話すことが出来ると思う。それまで、待っていてくれないか?」 「はい。待ちます」 香穂子はほんの少し笑顔になると、吉羅を見た。 「疲れたので…、少しだけ眠りますね…。…私…。暁彦さんは…、うちに帰って下さいね…。ゆっくりと休んで下さい…」 「…香穂子…」 吉羅は香穂子の頬を撫でる。 すると安心したように微笑むと、香穂子はゆっくりと目を閉じた。 吉羅はホッとして、都築に報告するために呼ぶ。 内線で呼び出すと、都築は直ぐに来てくれた。 「…香穂子さんが目覚めたんですね」 「はい。ですが、また眠ってしまいました…」 「はい」 都築は直ぐに香穂子を診察し、バイタルサインを確認する。 「…峠は越えたようです。吉羅さん、今夜は病院で泊まって貰いますが、明日には退院出来るかと思いますから」 「解りました。私もここにいて構いませんか?」 「吉羅さん、香穂子さんは暫くは大丈夫だと思いますから、今夜はお帰り下さい。明日の朝に迎えに来てあげて下さい。完全看護なので大丈夫ですから」 「はい…」 吉羅は後ろ髪を引かれるような想いをする。 だが都築は認めてはくれなかった。 「吉羅さん、これからはもっとあなたには体力が必要な場面が出て来るでしょう。眠ることが出来なくなるかもしれません。…ですから、吉羅さん、ゆっくりと今は休まれて下さい。チャンスは今しかありませんから…」 「解りました」 今休むこと。 これが大切なのだと、吉羅は自分自身に言い聞かせた。 |