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吉羅は家に戻り、ひとりきりで眠る。 ずっと香穂子と一緒に眠っていたから、ひとりの寝具がなんて広いものなのだということを、思い知らされた。 今までは広い寝具でひとりで眠ることが開放感を感じ、贅沢なのだと思っていたのに。 今やひとりの寝具は物足りない。 それを言うなら、寂しくてしょうがなかった。 香穂子の存在がいかに大きなものかを、吉羅は感じていた。 明日になればまた一緒に眠れる。 吉羅はそれを信じて眠ることにした。 今は休息を取らなければならない。 良質な眠りは、この先は訪れることはなくなるだろうから。 朝、かなり早く目が覚めた。 香穂子は、こうして目覚めることが出来ることを心から感謝する。 こうして目覚められるからこそ、吉羅を愛することが出来るのだから。 こうして目覚められるのも、後少しなのは解ってはいる。 吉羅と笑顔で話すことが出来るのも後少しだ。 それが解っているからこそ、総てを達観して受け入れようと思った。 手術もひとつの方法だ。 万に一つの確率ではないのだから。 手術をすることで、もっと長く吉羅と一緒にいられるかもしれない。 手術をすることは、奇蹟を起こすための第一歩なのかもしれない。 香穂子は、吉羅の想いを総て受け入れようと、手術も受けることにした。 手術を受ければ、奇蹟が起こるかもしれないのだから。 ロマンティストに見えても、病気になってからは、香穂子もまた吉羅に負けないリアリストな部分があった。 自分の病気を受け入れるためには、時には冷静に判断しなければならなかったからだ。 だが、吉羅のそばにいるために、奇蹟を信じても良いのではないかと思った。 手術をしよう。 次の発作が起きてしまえば、命が尽きる可能性があるのだから。 そこまでギリギリまで一緒にいられるのなら、この奇蹟に賭けるのは有りだと思った。 吉羅は早く起きて支度をし、香穂子を迎えに行くことにした。 早く迎えに行って、一緒にいたいと思う。 香穂子とは、永遠に一緒にいて、成長が出来る究極のパートナーだと思っているから。 吉羅が病室に向かうと、香穂子はベッドに座って待っていた。 その姿がとても愛らしい。 吉羅はフッと微笑みながら、香穂子を見つめた。 「迎えに来た」 「有り難うございます。私、吉羅さんに話したいことがあります」 迷いのない香穂子のまなざしに、吉羅はほんの一瞬、不安になる。 何か別離に関することを言われるのではないだろうかと。 だが、その不安を何とか誤魔化して香穂子を見る。 「…何かね…?」 「私…」 香穂子は軽く深呼吸をする。 「手術を受けようと思います」 香穂子からの予想以上の前向きな答えに、吉羅は笑みになった。 「…奇蹟に賭けたくなりました…」 香穂子の水面のようにキラキラと輝いている笑顔に、吉羅は嬉しさの余りに感きわまって、力強く抱き締めた。 「ああ。必ず奇蹟は起こるから」 「はい…!」 香穂子はしっかりと吉羅を抱き締めてくる。 ふたりでしっかりと抱き合った後で、見つめあった。 「ふたりで奇蹟を起こそう。二人ならば奇蹟を起こすことが出来る筈だ…!」 「はい。そう信じています」 ふたりで心を重ね合わせれば、きっと奇蹟は起こる。 ふたりはそう信じていた。 吉羅に車で家まで送って貰う。 香穂子はそれがとても嬉しい。 いつの間にか、吉羅とふたりで過ごす場所が、香穂子にとっての“我が家”になっていた。 香穂子は幸せな気分で、吉羅と家に入る。 「吉羅さん、どうか仕事に行って下さいね。私は家で待っていますから」 「ああ、有り難う。大学にはまだ行かないほうが良いからね。だが、君をひとりにするのは心配だ」 香穂子の頬を撫でながら、吉羅はフッと切なそうに微笑んだ。 「大丈夫ですよ。私、吉羅さんがいない時には、発作を起こさない自信があるんですよ」 「…だがいない時に何かあったら心配だ」 「大丈夫です。家でのんびりしていますから、発作は起こらないですよ。大丈夫です」 「本当に余り無理をしてはいけないからね。そうだ香穂子、次の日曜日に出かけないかね? 少しばかり早起きをして貰うことになるが…。金澤さんと天羽君と計画を立てているんだよ。それが何かは楽しみにしておいてくれたまえ」 吉羅の言葉に、香穂子はハッとする。 ひょっとして、吉羅と天羽がよく逢っていたのは、この計画のためなのかもしれない。 「吉羅さん…、ひょっとして…、菜美と逢っていたのは、この計画の為ですか…?」 香穂子が言葉を選びながら慎重に言うと、吉羅は微笑むだけだった。 「それは日曜日のお楽しみだよ」 吉羅の言葉は、それを裏打ちしている。 香穂子は、どうして吉羅を信じられなかったのかと、泣きそうな気分になった。 もっと吉羅を信頼したかったと思ってしまう。 「…ごめんなさい…」 ポツリと謝ると、吉羅にしっかりと抱き締められた。 「気に病まなくて良いから」 「…はい。暁彦さん…」 香穂子は目を閉じると、吉羅に総てを預ける。 神様、本当にどうもありがとう。 吉羅と逢わせて貰ったことに、感謝をせずにはいられない。 こうして奇跡的に吉羅と出会えたのだから、香穂子は更なる奇蹟を信じたくなった。 必ず奇蹟は起こる。 「吉羅さん…、日曜日、本当に楽しみにしていますね。私…」 「ああ。楽しみにしてくれたまえ」 吉羅はきっと素晴らしい場所に連れて行ってくれるのだろう。 香穂子は今から嬉しくてしょうがなかった。 本当に大丈夫かと吉羅に念押しをされた上で、香穂子はひとりで留守番することを選択した。 吉羅がいない間は発作なんて起こさないという自信が、香穂子にはあった。 吉羅を待っている間は、ヴァイオリンを練習したり、夕食の支度をしたりする。 淡々としてはいるがほわほわとした幸せが滲む。 こんなにも幸せな日々は、他にはないのではないかと香穂子は思った。 吉羅もまた、香穂子に気遣って定時にきちんと帰って来てくれる。 それが嬉しかった。 淡々と時間は過ぎる。 だがその日常こそに、最高の幸せが隠されていることを、香穂子はようやく知った。 吉羅とただふたりでいる日々がこんなに幸せだなんて思ってもみないことだった。 「吉羅さん、大好きです…。こうしてあなたと過ごしていられることが、私には幸せです」 夕食を終えてふたりきりになると、香穂子は笑顔で感謝せずにはいられなかった。 タイムリミットが近付いているのは解っている。 それは覆すことが出来ない事実なのかもしれない。 だが、香穂子も吉羅もそれを覆そうとしていた。 土曜日になり、香穂子は吉羅と背中を合わせながら、のんびりとした時間を過ごす。 「明日がとても楽しみです。お弁当だとかは準備しなくても大丈夫ですか?」 「お弁当は準備しなくても大丈夫だ。天羽君と金澤さをがそのあたりはぬかりなく手配してくれているからね」 「そうですか。ひょっとして様々な点で、“至れり尽くせり”なんですか?」 「まあ、そうだね。後は明日のお楽しみだね」 「はい。とても楽しみです」 小旅行のようなものを計画をしてくれているかもしれない。 気心の知れたメンバーでの外出は、香穂子に幸せな期待を抱かせてくれた。 「明日が楽しみです」 「そうだね、明日が楽しみだね」 香穂子は、明日の外出が、生涯で一番素敵なものになるだろうと予感していた。 |