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翌朝、香穂子はいつものように起きて、朝食の支度をする。 吉羅に言われた通りにいつも以上に早起きをした。 朝食を作っていると、吉羅がいつもよりも少しだけラフなスタイルで現れた。 「おはよう、香穂子」 「おはようございます、吉羅さん…」 さわやかな朝のキスをした後、吉羅は苦笑いを浮かべる。 「…君はいつまで経っても“吉羅さん”だね? 以前にも言ったが、名字ではなく名前で呼んで欲しいのだがね。私は」 「…なかなか恥ずかしくて…」 香穂子はいつも吉羅を名前で呼ぼうと頑張るのだが、恥ずかしさが先行してそうは出来なくなる。 本当に恥ずかしくてどうして良いか分らなくなるぐらいだ。それこそ走って逃げてしまいたいぐらいに恥ずかしかった。 これでも、吉羅がいない時にはちゃんと練習しているのだ。 練習ではすんなりと言うことが出来ても、いざ本人の前ではなかなか名前で呼ぶことは出来なかった。 「…これでも…、頑張って言おうとしているんですけれど…」 「…後で困るかもしれないからちゃんと慣れておいてくれたまえ」 「困る?」 香穂子はどうして困るのかが分らなくて、小首を傾げた。 「…さあ、朝食を取ろうか。今日は朝から忙しくなるからね」 「はい」 どれぐらい忙しくなるのだろうか。 だが、それは楽しい忙しさに間違ないと香穂子は思う。 香穂子は笑顔で頷くと、食事を楽しむことにした。 吉羅は笑顔で食事を楽しんでいる香穂子を見ながら、幸せな気分になる。 まさか今日、自分が結婚するなんて思ってもみないことだろう。 香穂子のことを考えて、吉羅はギリギリ今日に結婚式を繰り上げたのだ。 リミットが近付いていることは、吉羅にも充分に解っていた。 香穂子の両親の承諾を得て、二人の戸籍も取り寄せて、入籍する手配も整えている。 婚姻届は、香穂子がサインをすれば完成だ。 吉羅は、今日が人生最良の日になることを、強く予感をしていた。 「香穂子、支度が出来たら行こうか」 「はい」 吉羅は香穂子の手をしっかりと繋いで、駐車場へと連れて行ってくれる。 こうしてしっかりと手を繋いで貰うだけで、幸せな気分になった。 車に乗り込むと、こころが弾んで笑顔がごく自然に零れ落ちる。それぐらいに香穂子はウキウキとワクワクが満ち溢れていた。 「何処に行くんですか?」 「秘密だ。だが、とっても良いところには違いないよ」 「嬉しいです。良いところだとは思っていますから。何だかマジカルミステリーツアーに行くみたいで嬉しいです」 「期待してくれたまえ」 「はいっ!」 きっと香穂子が想像出来ないぐらいに素晴らしく楽しい出来事が待ち構えているのだろう。 本当に楽しみでしょうがなかった。 車は横浜に入り、香穂子がいつも憬れていたトータルで美しくしてくれるビューティサロンの前で停まった。 「さあ着いたよ。ここはまだ途中だけれどね。お嬢さん、どうぞ」 「はい」 吉羅に夢見心地でエスコートをされて、ビューティサロンに入る。 ずっと憬れていたところで何が待っているのだろうか。 香穂子は嬉しくも楽しい興奮が収まりそうになかった。 「さて、ここからは男子禁制だ。行っておいで」 「あ…」 「こんにちは」 美しい女性がやってくる。 雑誌でも取り上げられている有名なヘアメイクアーティストだ。 「軽くエステをしてからメイクをしましょうね」 「え、あ、はいっ」 香穂子は、今日はシンデレラデーなのだろうかと思ってしまうぐらいに、うっとりとしてしまった。 先ずはスチームを使って簡単エステをして肌を整えて、軽く首筋やデコルテのシェービングを受ける。 その間、気品がある素晴らしいネイルが施されていった。 短時間でこんなにも整えられるなんて思ってもみなかった。 ネイルとシェイビングエステが終わると、今度はメイクが始まる。 入念にメイクをされて、香穂子はプリンセスにでもなった気分だった。 髪もシンプルでしかも美しく結い上げられる。 目立たない着けまつげまで経験し、香穂子は本当に幸せだった。 「…じゃあ…後はドレスですね」 こんな朝からパーティでもあるのかと思いながら、香穂子はサロンの奥にある衣装室へと向かった。 マネキンに着せられていたドレスを見て、香穂子は息を呑む。 そこにあるのは、香穂子が天羽に頼まれて選んだウェディングドレスだ。 心臓が感激する余りにドキドキする。こんなに感動したのは初めてかもしれない。 ウェディングドレスの影から、天羽がひょっこりと顔を出した。 「…菜美…」 「香穂子、あなたのウェディングドレスなんだ。吉羅さんから頼まれて、あなたに選んで貰ってオーダーしてものなんだよ。あなただけのウェディングドレスだよ…」 天羽は今にも泣きそうなぐらいに感動してくれている。 香穂子も同じ気分だ。 吉羅と天羽は、このサプライズの為に、綿密な打ち合わせを重ねてくれていたのだろう。 それを疑ってしまうなんて、なんて度量が狭い人間なのかと、香穂子は思った。 こんなにも愛してくれる温かなひとたちを少しでも疑ってしまうなんて。 「有り難う…」 涙が溢れてしまいそうになったところで、天羽に止められる。 「折角、綺麗にメイクをしたんだからね。泣かないの」 「…うん、うん」 香穂子は何とか涙を堪えて、笑顔で天羽を見た。 「有り難う」 「ほら、着替えて」 「うん」 香穂子はウェディングドレスの着付けをして貰う。 まさか夢が叶うなんて思ってもみないことだった。 しかもこんなに素敵な形で。 本当にジューンブライドになれるのだ。 ティアラと首飾りを着けて完成だ。 「完成だね。香穂子、ロビーで待っているひとに写メするからこっち向いて」 「うん」 香穂子は背筋を伸ばすと、笑顔で天羽の構える携帯電話に向いた。 「綺麗だよ」 香穂子は笑顔で「有り難う」と言わずにはいられなかった。 男の支度なんて本当にあっさりとしたものだ。 結婚の一連の行事は、女性のものなのだということを、吉羅はつくづく思う。 香穂子が美しく着飾っているのを、ただじっと待つのだ。 いつも以上に落ち着かないのは、香穂子が素晴らしく美しい仕上がりになるのが解っているからだろう。 不意に天羽からメールが入る。 写メールだ。 そこには息を呑むぐらいに美しい香穂子が笑顔で写っている。 吉羅は今すぐ抱き締めたいと思った。 誰が見ていても構わない。 吉羅はときめきを感じずにはいられなかった。 そっとサロンの扉が開く。 扉の奥からは、美しく着飾った香穂子の姿が見えた。 吉羅は吸い寄せられるようにソファから立ち上がる。 なんて美しいのかと、思わずにはいられない。 「吉羅さん…」 香穂子がはにかみながら吉羅に近付いてくる。 思わずその手を取った。 「綺麗だ…」 「有り難うございます」 香穂子を見つめているだけで、世界で一番幸せになった気分だ。 こんなにも幸せなことは、他にはないのではないかと、吉羅は思った。 「本当に綺麗だ」 吉羅が香穂子だけを見つめていると、天羽と金澤の咳払いが聞こえた。 「吉羅時間だ。行くぞ」 金澤の咳払いで、吉羅は気恥ずかしい気分になった。 「…はい。行きましょうか…」 吉羅は自分自身に苦笑いを浮かべると、香穂子の手をギュッと握り締める。 「行こうか」 「はい」 ふたりはしっかりと手を結ぶと、歩き出した。 |