*Limited Lovers*


 翌朝、ふたりで茶粥を朝ご飯に食べる。
 幸せな朝だ。
 大好きな男性と、美味しい朝食を食べることが出来るのだから当然だ。
 香穂子が朝食を楽しい気分で食べていると、吉羅が複雑な表情で見つめてきた。
「君は美味しそうに食事をするね」
「美味しいです。…これからも吉羅さんとこうして食事が出来ると良いです」
 香穂子が屈託なく言うと、吉羅は更に冷たい表情になった。
 食事をするのを止めると、吉羅は手を組んで顎に宛る。
「…それなら他をあたると良い。私は…」
 吉羅がそこまで言ったところで、香穂子はにっこりと静かに笑うと、言葉を取るように続けた。
「…誰とも真剣に付き合う気はない。あなたが深く傷付く前に、別れてしまったほうが良い…」
 香穂子がにっこりと笑うと、吉羅は明らかに驚いているようだった。
 まさか、自分の常套句を言われるとは思わなかったのだろう。
 香穂子は穏やかに微笑むと、吉羅を見た。
「…私…病気です。長くあなたと一緒にいることは出来ません。…だから…、あなたを傷付けてしまいます。だから私たちはここで終わりにしたほうが良いです。お互いに綺麗な想い出のために」
 香穂子はそこまで言うと、吉羅にそっとメモを差し出す。
 吉羅から貰った携帯電話の番号とメールアドレスが書かれたメモだ。
 吉羅が驚くよりも前に、香穂子は立ち上がると、見つめる。
「…吉羅さん、夢のような時間をどうもありがとうございました…。さよなら」
 香穂子はそれだけを言うと、吉羅に背中を向けた。
 振り返らない。
 そう決めたのだ。
 吉羅と一緒にいれば、現実にはならない夢を見てしまうから。
 香穂子は背筋を伸ばすと、そのまま吉羅の家を出た。
 エレベーターに乗り込んでひとりになった時に、涙が込み上げてくる。
 香穂子はそれをなんとか堪えた。
 高級外資系ホテルから出ると、香穂子は駅へと向かう。
 今日は休みで良かった。
 夕方までゆっくりして、友人たちが祝ってくれるバースデーパーティに出席しよう。
 本当に最高のバースデーイヴだった。
 スペシャルなプレゼントを貰ったのだ。
 そう思わなければならないのに、どうしてこんなにも切ないのか。
 香穂子は辛い想いに唇を噛んだ。

 まさかこのような結末が起こるとは思ってもみなかった。
 吉羅は心臓が痛くなるほどに動揺している自分に気付く。
 まさか。
 太陽のように輝いて美しい日野香穂子が病気だなんて、思ってもみなかったのだ。
 だが、金澤の話を思い出すと妙に納得がいく。
 金澤は、香穂子が病気であることを知っていたから、あのように執拗なまでに吉羅を止めたのだ。
 そして海外に行くことを、あんなに寂しげに否定していたのも、合点がいく話だと吉羅は思った。
 行けたくても、行けないのだ。
 だから日本にいるのだ。
 それを思うと、吉羅は更に胸が苦しくなるのを感じた。
 魅かれながらも、何処か臆病になっていて、香穂子を放そうとした自分に後悔する。
 吉羅とこのような結末は解っていたからこそ、落ち着いていたのだろう。
 吉羅は珍しく溜め息を吐く。
 清々しくも何処か吹っ切れたような笑みが、吉羅の心を支配する。

 放してはならなかったのかもしれない。
 吉羅は直ぐにチェックアウトの手続きを取った。

 香穂子は家に戻り、直ぐにシャワーを浴びてサッパリとした。
 これから暫く眠れば良い。
 吉羅に着けられた痕が所狭しと肌に刻まれ、切ないのに何処か幸せすら感じていた。
 これでひとつ願いが叶った。
 香穂子はノートに書いた年齢と同じ20の願い事を見つめて、吉羅の項目にシールを貼る。
 願い事は叶ったのだ。
 どうしてもしたいことを、書き出したノート。
 その中でも吉羅暁彦の項目は、最も重要なもののひとつだと考えていた。
 思えば一番叶えたい願い事だったかもしれない。
 香穂子はシールを貼りながら、涙を我慢することが出来なかった。

 一眠りをして、パーティの準備を始める。
 みなとみらいのおしゃれな飲食店を友人たちが予約してくれたのだ。
 本当に有り難くて嬉しいことだ。
 こうして祝って貰えるだけで、なんて幸せなのだろうかと、香穂子は思った。
 化粧をしたところで、携帯電話が鳴り響いた。

 吉羅は自宅に戻った後も、もやもやとした気持ちを抱いていた。
 今日は香穂子のことを考える余りに、全く何も手に付かなかった。
 香穂子ともう少し一緒にいたい。
 出来るならば時間を共有したい。
 これで終わりにしたくはなくて、吉羅はいつしか携帯電話を手に取っていた。
 香穂子の連絡先は解っている。
 吉羅は、香穂子に逢いたいが余りに、電話をする。
 出て貰えないかもしれない。
 着信を拒否されてしまうかもしれない。
 だが、それでも電話をせずにはいられなかった。
 吉羅は胸が痛くなるのを感じながら、何度もコールする。
 待つ身分がこんなにも辛いとは思ってもみなかった。
「…はい、香穂子です…」
 ようやく出てくれ、香穂子の声を聴いた途端に、吉羅はホッと安堵してしまう。
「香穂子…、私だ」
「…吉羅さん…。どうかされましたか?」
 若干硬い感じの声がしたが、吉羅は構わずに続ける。
「…また、君に逢いたい…」
 吉羅は、こんなに切ない声を出したのは久し振りではないかと思う。
 自分でも驚いてしまっていた。
「…病気だから…私に哀れみを持たれたんですか?」
 硬い香穂子の声に、吉羅は胸が苦しくなる。
「…そんなことはない」
 吉羅は一瞬、心苦しく思ったが、それを静かに否定した。
「…吉羅さん、私は正直言って分かりません…。このまま逢い続けたほうが良いのか…、それとも逢わなければ良いのか…。本当に解らないんです…」
「…私は君に逢いたい」
 香穂子は想いが切迫するのを感じる。
「…吉羅さん、私は…、逢わないほうが良いと思うのです…。本当に…」香穂子も苦悩しているのが分かる。吉羅と同じように、香穂子もまた苦しいのだ。
「香穂子…」
「…少し、考えさせて下さい…。だけど、このままだと、私があなたを傷付けてしまうことになります。逢わないほうがお互いのためだと思います」
 香穂子の言葉はキッパリとしていた。
 吉羅はそれでも諦めてはならないと思う。
「解った…。また、こうして連絡を取っても構わないかね?」
 香穂子は一瞬、言葉を詰まらせる。
「…はい…。携帯でなら…」
「短い時間でも逢うことは出来ないのかね?」
「…考えさせて下さい…。吉羅さん、誕生日パーティに遅れます。ごめんなさい、電話を切ります」
「何処でパーティはするのかね?」
 吉羅の問いに、電話前の香穂子が戸惑っている。
「みなとみらいです」
「解った」
 吉羅はそれだけを言うと、静かに携帯電話を切った。

 まさか吉羅暁彦が携帯電話をかけてくるとは思わなかった。
 期待してはいけないと思いつつ、香穂子は胸をときめかせてしまう。
 吉羅が本当に恋心を抱いてくれていたら。
 これほど嬉しいことはない。
 だが、そうなれば吉羅を傷付けてしまう公算が大きくなるのだ。
 香穂子は深呼吸をする。
 吉羅と一緒にいられるのは嬉しい。
 傷付けてしまうことへの恐れで、香穂子は後込みをせずにはいられない。
 吉羅なら傷つかない。
 自分がいなくなった後でも。
 だが、果たしてそうなるのかという不安もある。
 そして何よりも自分自身が無念の気持ちを抱いてしまうのではないかと、危惧した。



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