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最後に見たいと風景は何か。 香穂子がどのような意図で、あのようなことを言ったのか。 吉羅はその真理を量ることは出来なかった。 吉羅は食事を楽しみながらも、香穂子の意図を知ろうと観察をしてみる。 だが、なかなかそれが見えては来なかった。 香穂子がもし切羽詰まる病状であるならば、吉羅とこうしていることなんて、出来なかっただろうから。 「本当にここのご飯は美味しいです!」 香穂子はとても明るくて、愁いなどは何処にも見受けられない。 ただ、思い付きで言っただけなのだろう。 そう信じたい。 吉羅はそう思いながら、香穂子を見守るように見つめた。 夜景を喜び、食事を喜び、こんなにも素直に喜びを表してくれる女はいまだかつていなかった。 誰もがスマートにセレブリティに見て欲しかったからか、いつも澄した態度だった。 女はそのようなものなのだと、吉羅は思っていたが、香穂子と出会ったことで、そうではないのだということに、初めて気付いた。 新鮮で、なんて心地が良いのだろうかと思う。 香穂子をもっと喜ばせたい。 香穂子をもっと笑顔にしたい。 吉羅の中で、その様な感情が発生し始めていた。 「香穂子、今夜は時間はあるかね? 私と過ごすことは出来るかね…?」 吉羅は朝まで香穂子を独占したい気分で、その手を握り締めた。 すると、香穂子は恥ずかしそうに頷いてくれる。 それが嬉しかった。 香穂子の反応で一喜一憂するなんて、まるで高校生の青い恋をしているかのようだ。 吉羅はそんな自分に苦笑いをするしかなかった。 六本木の自宅まで香穂子を連れていく。 女を自宅に入れるのは、香穂子が初めてなのだ。 香穂子は、吉羅の家に入ると、何処か緊張しているようだった。 だがそれがまた愛らしい。 「緊張しているのかな?」 「少しだけ…。男の人の部屋に入るのは、お兄ちゃん以外で初めてだから…」 「私もこの家に女性を入れるのは初めてだよ」 吉羅の言葉に、香穂子は驚いて顔を上げる。その表情がとっておきに可愛かった。 「…香穂子…、君を朝まで独占したい…。構わないね…」 「…はい…」 伏目がちの香穂子の表情にとても色香があり、吉羅はたまらないほどに欲望が突き上げてくるのを感じる。 香穂子を抱き上げると、そのままベッドへと運んだ。 吉羅と一緒にいられる。 ただそれだけで、香穂子は嬉しかった。 吉羅に愛されて、幸せがふつふつと湧き上がってくる。 こんなにも嬉しいことは、他にはない。 もっともっと吉羅の魂に近付きたい。 香穂子は吉羅にしっかりとしがみついた。 吉羅と一緒にいられる間は、こうして誰よりも近くにいたかった。 香穂子は、吉羅をしっかりど抱き締めながら、眠りへと落ちていった。 香穂子を愛した後、吉羅はその華奢な躰を抱き締める。 あどけない表情で眠りに落ちている香穂子が、とても愛らしかった。 最期に見たいものは何か。 どうして香穂子はあのようなことを訊いたのだろうか。 最期に見たいもの。 吉羅はじっと考える。 本当に見たいものを解っているのかもしれない。 だが、それを上手く言うことが出来ない。 香穂子の寝顔を見ながら、少なくとも今はこの寝顔に癒されて、そして活力を得ている。 最期ではないが、明らかに今、見たいものは、香穂子の笑顔だと思った。 吉羅は香穂子のまろやかな頬を撫でる。 こんなにも柔らかくて素晴らしい感触は他にないのではないかと、吉羅は思った。 真夜中に目が覚め、香穂子は傍らに眠る吉羅を見つめる。ぐっすりと眠っているところを見ると、何だかフッと笑みが零れてしまう。 香穂子はベッドから抜け出すと、そっと窓辺へと向かった。 吉羅のパジャマの上だけを着て、じっと空を見上げる。 いつまでもこうしていられるのだろうか。 明日までかもしれない。 香穂子は月を見上げながら考える。 どうか吉羅と少しでも長く一緒にいられますように。と。 そう思うだけで、香穂子は涙が零れてしまいそうになった。 病気になって、色々なものを諦めてきた。 唯一、諦めきられなかったのが、「恋をすること」だ。 夢見るように素敵な相手と恋をしたい。 香穂子はそれだけを想っていた。 そのタイミングで、香穂子の世界に現れたのが、吉羅暁彦だ。 吉羅が別れ話をしているのを見るにつけ、なんて不実な男なのだろうと思った。 だがその魅力的で大人な雰囲気に、いつの間にか恋をしていたのだ。 そして、自分が消えてしまっても、吉羅ならばそんなにも傷つけなくて済む。 理想的な相手だった。 ずっと見つめているうちに、恋心はどうしようもないほどに高まっていた。 だからなのか、吉羅を諦めることが出来なくなっていた。 そしてその想いはかなり強くなっている。 香穂子は、吉羅のことを諦めなければならない日が来るかと思うだけで、泣きたくなる。 吉羅と躰で愛し合ってから、吉羅のことを更に愛してしまった。 止められないほどに愛しい。 香穂子は、残り少ない時間を想い、瞳の奥に涙が滲むのを感じた。 真夜中、不意に目覚めて、吉羅はベッドの横を見渡した。 香穂子がいない。 帰ってしまったのだろうか。 いや、もう電車がない時間帯だ。 そんなことはないはずだ。 ひょっとしてキッチンにでも行っているのかもしれない。 吉羅はベッドから出ると、ゆっくりとキッチンへと向かった。 リビングに顔を出した途端、吉羅はハッとする。 リビングの窓辺で、香穂子が静かに佇んでいるのが見えた。 その姿が本当に美しくて、吉羅は思わず見入ってしまう。 月明りだけに照らされた香穂子は、息を呑むほどに美しい。 これほどまでに綺麗な女はいないのではないかと思う。 本当に美しい。 愁いを帯びた表情に、吉羅も息を呑む。 なんて哀しい横顔なのだろうかと思った。 月の光に照らされた姿は、本当に月の精のようだ。 まるで月に呼ばれたかのようだった。 「…香穂子、そのようなところにいては風邪を引いてしまう…」 「吉羅さん…」 吉羅が声を掛けると、香穂子はゆっくりと振り返った。 「…どうしたんだね?」 振り返った姿がとても儚くて、心許無い。 吉羅は本当に消えてしまうのではないかとすら思ってしまう。 まるでかぐや姫のように、月から使者が迎えに来るのではないかという錯覚を覚えた。 行かせたくはない。 離したくはない。 少なくとも今は。 抱き締めたい。 吉羅が熱い想いを滲ませながら、背後から抱き締めると、香穂子は甘い溜め息を吐いた。 「…月に呼ばれたんです…」 「君はオオカミ女かね?」 吉羅が冗談めかして言うと、香穂子はくすりと笑った。 「そうですよ。オオカミ女なんです」 香穂子はわざと真似をしてみせる。 それが可愛い。 「…君がいないと寒いからね。ベッドに戻ろうか」 「じゃあ吉羅さんを温めなければなりませんね」 「そうだ」 吉羅は香穂子を抱き締める腕を更に強めた。 「…月から迎えにきてしまうかもしれないね…」 「そんなことはありませんよ」 香穂子はくすりとわらったが、吉羅は強く抱き締めた手を離すことが出来なかった。 「…ベッドに戻ろうか…」 「…はい…」 吉羅の言葉に香穂子は素直に返事をする。 吉羅はそのまま華奢な躰を抱き上げると、香穂子をベッドへと連れていく。 離したくない。 その想いだけで、香穂子には嬉しいようだった。 |