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吉羅がいるから、支えているからこそ、こうしてヴァイオリンを奏でることが出来るのだ。 「…参ったな…」 月森は更に苦々しい笑みを浮かべている。 本当に困り果ててしまっているようだった。 「参ったって…?」 香穂子は月森が何を意味してそのように言っているのかが分からなくて、何度も小首を傾げた。 「…何でもないよ」 月森もほんの少しではあるが、悔しそうで柔らかい笑みを浮かべた。 「君が明日ベストの演奏をすることを楽しみにしているよ」 「はい。有り難うございます」 月森は頷いた後で、もう一度、香穂子を真っ直ぐ見つめた。 「…吉羅さんがいれば、君はベスト以上の演奏をするんだろうね…」 「そ、そんなこと…」 いきなり図星を言われて、香穂子は恥ずかしくなってしまい、思わず耳まで真っ赤になって、慌てふためいてしまった。 その様子を見て、月森はくすりと笑う。 「…君らしいね…」 「あ、あの…」 月森の滅多には見られない優しい笑みを浮かべて見つめられると、香穂子はドキリとする。恥ずかしくてしょうがなかった。 香穂子が俯いていると、尊大なオーラを背後で感じる。 直ぐに誰かは分かる。 吉羅暁彦だ。 香穂子がそっと振り返ると、そこには冷酷なまでに不機嫌な吉羅暁彦が立っていた。 「…暁彦さん」 どうしてこんなにも不機嫌なのかが、香穂子には理由が分からなくて、思わず不安になった。 最近の吉羅はいつもそうなのだ。 驚くばかりに不機嫌時があるかと思えば、蕩けるほどに幸せな時もある。 本当に不思議でしょうがない。 香穂子は喉がからからになって、緊張するのを感じながら、吉羅に微笑み掛けた。 「迎えに来て下さったんですね。有り難うございます」 香穂子が笑顔で言うと、吉羅は僅かに皮肉げな笑みを浮かべた。 「…リハーサルは…上手くいったのかね? その調子だと上手くいったようだがね…」 吉羅は、いつも以上に皮肉がたっぷりと入った口調で言ってくる。 香穂子は、何だか居心地が悪くなる。 「おれは一曲しか聴いていませんが…、明日は上手くいくんじゃないですか」 月森はさらりと言うと、香穂子に向き直った。 「それじゃあ日野さん、おれはオーナーと打ち合わせがあるから」 「はい。月森さん、また。頑張って下さいね」 「ああ」 月森はあくまでクールな雰囲気を崩さない。 「私たちも行こうか。仕度をしたまえ」 「はい」 香穂子は素早く後片付けをする。 吉羅のオーラがいつも以上に厳しくて、香穂子には冷や汗ものだった。 香穂子は手早く片付け終わると、吉羅を見つめる。 「お待たせ致しました」 「では、行こうか」 吉羅は香穂子の手を思い切り強く抱き締めて、レストランを出る。 駐車場からはオーナー室が見えて、月森がちらりとこちらを見るのが解った。 吉羅もそのことに気付いたようで、不機嫌そうに直ぐに車に乗り込む。 香穂子が助手席に座り、シートベルトをした時だった。 「…あっ…! …んっ…!」 吉羅は素早く香穂子を抱き寄せてきたかと思うと、唇を荒々しく重ねてきた。 普段は冷静沈着で、人様に見えるような場所で唇を重ねることなどはないというのに、まるで嫉妬の炎を 燃やしているかのように、激しくキスをしてくる。 香穂子は呼吸を上手く出来なくて、吉羅の背中に強くしがみついた。 唇を離された後、滲んだ味は血の味だった。 「…暁彦さん…」 香穂子がその名前を呼んでも、吉羅は返事をすることなく、車を発進させた。 本当に嫉妬してくれているのかもしれない。 それならば本当に嬉しい。 いつもいつも、嫉妬するのは香穂子ばかりだった。 だが、吉羅が嫉妬してくれているということは、少しは愛されているということなのだろうか。 そうならばとても嬉しいのにと、香穂子は思った。 「明日は…開演に間に合うように行くつもりだ…」 「お願いします。暁彦さんが見守って下さるだけで、私のヴァイオリンのクオリティは、随分と違いますから」 香穂子は自分でも解っていたから、そばにいて見守っていて欲しいと思った。 「…解った。なるべく開演前に、楽屋に君を訪ねられるように善処しよう」 「有り難うございます」 吉羅がそばにいる。 ただそれだけのことなのに、かなりの威力があるということを、恐らくは吉羅は知らないだろう。 吉羅がいれば、実力以上の力を発揮することが出来るのだから。 「…月森さんにも指摘されました。暁彦さんがいる時といない時では演奏が違うって」 「月森君が…?」 吉羅は些か驚いているようだった。 「はい。そうです。図星なので、恥ずかしかったですが」 香穂子が屈託なく言うと、吉羅は瞳の周りを一瞬真っ赤にさせる。 「…そうか…」 吉羅は自分を納得させるように言うと、刺々しいオーラが消えてなくなる。 香穂子はそれに驚いてしまい、思わず笑みを零した。 吉羅は本当に嫉妬をしてくれていたのかもしれない。 それはとても嬉しかった。 車から降りて、自宅へと向かう。 「香穂子、明日はしっかりと頑張ってくれたまえ。楽しみにしている」 「有り難うございます。素晴らしい演奏になるように、頑張りますからね」 「ああ」 吉羅が頷いてくれるのを嬉しく思いながら、香穂子は前向きに頑張ろうと思った。 「…私は何が勘違いをしていたのかもしれないね…」 「え…?」 「…何でもない…」 吉羅はまるで少年のように照れ臭そうに笑っている。 香穂子にはそれがとても魅力的に映った。 いよいよレストランコンサートの当日。 吉羅は仕事ではあるが、駆け付けてくれるという。 それが嬉しくい。 それだけでも頑張れる。 香穂子は本当にこころから吉羅のことを求めて、愛しているのだということを改めて知る。 吉羅がいるからこそ頑張ることが出来るのだ。 深呼吸を何度もする。 今日が初めての大きな部隊。 香穂子にとっては新しいステップアップだ。 ここを乗り越えられたら、更に前向きに先へと進める。 香穂子は何度も呼吸を整えて、緊張をほぐそうと努力をした。 そばに吉羅がいてくれたら良いのに…。 大丈夫だ。 きっと大丈夫。 吉羅はきっと会場にいてくれるはずだ。 香穂子はそう自分でも言い聞かせて、ステージへと出て行った。 センターに来てハッとする。 ソールドアウトなのに席がひとつだけ空いている。 そこにいるはずの香穂子の大切な男性がいない。 恐らくは仕事なのだろう。 しょうがないのは解ってはいる。 だが、しょうがないと、割り切ることが出来ない自分がいる。 香穂子が演奏しないでいると、会場の目が不思議そうに見つめてきた。 駄目だ。 自分はプロのヴァイオリニストなのだ。 ここにいる観客の皆さんは、香穂子のヴァイオリンを聴きに来て下さった方々ばかりなのだ。 だからこそ頑張らなければならない。 香穂子は気持ちを切り替えると、ヴァイオリンに集中した。 最初は調子が出なかったが、徐々に上がってくる。 不意に、吉羅がそこにいるのではないかという雰囲気を感じる。 直ぐに、吉羅が来てくれたことが分かり、香穂子はヴァイオリンを伸び伸びと演奏することが出来た。 曲が終わり、香穂子がゆっくりと瞳を開ける。 すると吉羅が柔らかく微笑み、香穂子を見つめて頷いてくれた。 頑張れる。 更に素晴らしい演奏を聴かせたい。 香穂子はヴァイオリンに集中していた。 |