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吉羅は食事をすることも忘れてしまい、香穂子の演奏に聞き入っている。 聴く度に香穂子はヴァイオリンが上手くなっていく。 それは吉羅が驚くほどのスピードでだ。 改めて思う。 香穂子はひょっとして天才なのではないかと。 こんなにも優れたヴァイオリニストは他にはいない。 自分が心から欲して選んだ相手だからだけではない。 欲目が入っていたとしても、香穂子は本当に素晴らしいと、吉羅は思わずにはいられなかった。 こんなにも素晴らしい女性は他にはいない。 吉羅はこころからそう思う。 だから、例えかりそめであったとしても、香穂子を妻にしたかったのだ。 それだけのことだ。 まだ、本人には伝えてはいない。 伝えるべきだと思ってはいるが、なかなかそういうわけにはいかないのが実情だ。 素直にならなければならない。 だが、上手くいかない。 吉羅の複雑な心情が滲んでいた。 コンサートは大盛況で終了した。 それが香穂子には大いなる自信に繋がったのは、言うまでもない。 レストランコンサートが終わり、ホッとしたところで、吉羅が香穂子に近付いてきてくれた。 いつものような気難しさがなく、優しい笑みが滲んでいる。 吉羅が笑顔を向けてくれるだけで、香穂子は元気になれる。 「今日はよく頑張ったね」 「有り難うございます。暁彦さんが来て下さったから、更に良いものになったと思っています。本当に有り難うございます」 香穂子が笑顔を向けると、吉羅が頷いてくれる。 表情だけで豊かな会話が出来るのが、香穂子には嬉しかった。 「…有り難うございます…。本当に来て下さって嬉しかった」 「遅れて申し訳なかったね」 「来て下さっただけで嬉しかった」 ふたりが幸せな気持ちで話していると、月森が僅かに酸っぱい表情を浮かべて、こちらにやってきた。 「日野さん、今夜の演奏はとても良かった。特に吉羅さんが到着した以降の演奏がね…」 香穂子の気持ちのひだを見事に指摘されてしまい、恥ずかしさと驚きでいっぱいになってしまう。 「…君の原動力は…、やはりご主人なんだね…。悔しいけれど…」 「…え…?」 一瞬、月森が言った言葉のニュアンスが理解出来なくて、香穂子はきょとんとしていた。 吉羅は、素早く香穂子を引き寄せて、まるで月森に見せつけるかのように密着してくる。 吉羅がこうして密着してくれるのが、香穂子にはとても嬉しいことだった。 「今日は来て下さいまして有り難うございました。本当に嬉しかったです」 「こちらこそ、素晴らしい演奏を聴かせて貰えて嬉しかった。君はまだまだ伸びるひとだから…。おれの良きライバルになるのは時間の問題かな…?」 そんなことは滅相もなくて、香穂子は首を横に振る。 「まだまだです。月森さんにいつまでもそう言って貰えるように、頑張ります」 「ああ。期待している」 月森は僅かに切なさが滲んだ笑みを浮かべると、香穂子を見上げた。 「吉羅さん、悔しいですが…、今はあなたには敵いません…。だけど、覚悟をしておいて下さい」 月森はまるで吉羅に挑戦状を叩き付けるように言う。 だがその口調は、あくまでも柔らかなものだ。 その言葉に、吉羅はフッと大人の男ならではの笑みを浮かべる。 「…しっかりと承っておこう…」 「ええ…」 ふたりにしか分からないような視線を絡ませた後、一瞬、火花がスパークする。 それは決して派手なものではなく、何処か力強い優しい色をしていた。 「では、日野さん、また」 「また…」 月森は香穂子に優しい笑みを浮かべて挨拶をしてくれた後、静かに立ち去っていった。 月森が立ち去った後、吉羅は更に香穂子に密着をしてくる。 「…暁彦さん…」 「月森君はずっと君を旧姓で呼び続けていたね…」 「…ヴァイオリニストとしては、旧姓にしていますから…」 どうせ別れる結婚だからと、香穂子は公式の場所でも旧姓を通していた。 本当は“吉羅”と名乗りたかったのだが、後からのショックが大きいと思い、あえてそうはしなかったのだ。 「…あえて、彼は君を旧姓で呼び続けたのだろうね…」 「あえて…」 香穂子はその意味をあえては知ろうとはしなかった。 「さあ帰ろうか。今日はよく頑張ったからね。軽く寿司でも摘んで、お祝いをしよう」 「有り難うございます。とても嬉しいです」 香穂子はドキドキしながら、自ら吉羅に寄り添う。 ふわふわとした幸せな気持ちになっていた。 吉羅と一緒にこのままいられたら良い。 この結婚が永続的なものになれば良いのにと、祈らずにはいられなかった。 レストランコンサートの後、香穂子に舞い込む仕事が少しではあるが増えてきている。 それはとても有り難いことで、香穂子は忙しくも充実した時間を過ごすことが出来ている。 吉羅は相変わらず忙しいが、香穂子をバックアップしてくれていた。 本当に充実した時間を過ごすことが出来て、本当に嬉しかった。 まさに、これから前向きに頑張っていこうと考えていたところで、香穂子は体調を崩してしまった。 仕事はキャンセルせずには済んだものの、やはり体調が悪いのはかなり辛い。 吉羅に病院まで付き添って貰い、その理由がようやく判明した。 「ご懐妊ですね」 驚くというよりは、香穂子はまるでそれが必然のような気がして、素直に受け入れることが出来た。 吉羅はと言えば、ずっと望んでいたことだったせいか、喜んでくれた。 その証拠に、まだ豆粒ほどの大きさしかない子供の画像を丁寧に財布に入れていた。 正式な診断を受けて、役所に行って母子手帳を手にする。 それを受け取った瞬間、香穂子の喜びは、奥底から湧き上がってきた。 「本当に嬉しそうだね」 「もちろんですよ。初めての赤ちゃんですから」 「そうだね。私もとても嬉しいと思うよ。これからはきちんと気遣っていかなければならないね。無理は禁物だ、仕事もある程度はセーブをしなければならないよ」 「はい」 吉羅は本当に喜んで、心配をしてくれている。 香穂子にはそれが嬉しかった。 「有り難うございます、だけど余り過保護にならないぐらいに頑張ろうと思っています」 「そうだね。だけど本当に無理はしてはいけないよ」 「有り難うございます。暁彦さんに心配して頂いて、本当に嬉しいです」 「香穂子…」 吉羅は本当に嬉しそうに微笑みながら、香穂子を抱き寄せた。 子供の誕生を心から喜んでくれる。 それはとても嬉しい。 「…しかし、ここに私の子供がいるなんて、少しも想像が出来ないね…」 吉羅は不思議そうに言いながら、香穂子のお腹を撫でてくれた。 「…本当に。まだお腹が大きくないので私も実感はないですけれど…」 「そうだね…。なかなか実感が湧かないね…。だが、本当に嬉しいよ」 「私もです」 子供を得たらそれが絆になって、より強く結ばれるのではないかと、香穂子は思う。 吉羅ともう少し強い絆で結ばれたら良いのにと思わずにはいられなかった。 子供が出来たことを、吉羅の実家に報告をする。 吉羅の両親に逢うなんて結婚式以来だ。 香穂子は清楚なワンピースを身に纏って、吉羅の実家へと向かった。 「さあ、中に入ろうか。そんなにも緊張しなくても構わないから」 「はい」 吉羅に付き添われるようにして、香穂子は立派な屋敷に入る。 「まあおかえりなさい暁彦、香穂子さん」 吉羅の母親が笑顔で出迎えてくれる。 緊張の瞬間だった。 |