*真夏のMy Fair Lady*

10


 今夜の香穂子はとても綺麗だ。
 いつもは何処か幼さを宿しているというのに、今日は大人の女性そのものだ。
 マナーにおいては、若干まだまだなところはあるが、仕草は女だった。
 食事をしている間も、吉羅は目が離せなくなる。
 ついじっくりと見つめてしまう。
 本当にきらきらと輝く真珠のように吉羅には見えた。
 デザートが運ばれてきて、口に運んだ瞬間の香穂子の表情は、このまま抱き締めたくなるぐらいに甘いものだった。
 こんなにも蕩けそうな表情をされると、デザートにすら嫉妬をしてしまう。
 本当に可愛くて綺麗だった。
 デザートを食べ終わり、車で別荘へと戻る。
 闇に沈む海の夜景を見つめる香穂子の横顔は、本当に妖艶で美しい。完璧な美とは、このようなことを言うのではないかと、吉羅は思わずにはいられなかった。
 なんて美しいのだろうか。
 このまま連れ去りたい衝動に駆られてしまった。
 車を別荘の駐車スペースに停める。
 このまま香穂子を閉じ込めたくなる。
 そんなことは許されないと解っているくせに、ついそう願わずにはいられない。
 愛しさに歯止めがかからなくなる。
 吉羅は胸が苦しくてしょうがなくて、香穂子を咄嗟に抱き締めた。
「…あ…」
 先ほどのデザートよりも甘い声が聞こえる。
 デザートよりも甘くてしょうがないキスを、吉羅はつい香穂子にしていた。
 香穂子の唇は想像するよりも甘くて、柔らかかった。
 こんなにも柔らかなキスを他に知らない。
 驚かせてはいけない。
 ゆっくりと進めていかなければならないのは解ってはいるのに、そうすることが出来ない。
 これは男として、香穂子を早く手に入れてしまいたいと思う気持ちが、そうさせていた。
 だが何とか、深みのあるキスを堪えて、甘くてロマンティックなキスを贈った。
 唇を離した後、香穂子は潤んだ瞳でただ吉羅を見ている。
 これは傷付いたこととも、うっとりしたこととも両方に取れてしまう表情だった。
 いつもならば表情を読む上手さというには自信があるというのに、香穂子が相手だと、どうしても後ろ向きに考えてしまう。
 恋する故の弱さなのだろうかと思う。
 吉羅が抱擁を解いた後も、香穂子は暫くぼんやりとしていた。
 シートベルトを外すと、もう一度吉羅を見た。
 吉羅は、何も言わずに、香穂子にドアを開けてやる。
 エスコートをすると、香穂子はうっとりとしているのか、そうでないのか解らないような表情のままで、頭を一度下げてきた。
「今夜は有り難うございました。ご馳走さまでした」
「ああ」
「…また…誘って下さい…」
 香穂子ははにかんだ声で言うと、そのまま別荘へと帰っていった。
 車の中で吉羅はひとりになり溜め息を吐く。
「…参ったな…ったく」
 吉羅は髪をかき上げながら、考える。
 これほどまでに誰かに夢中になったことなんて、今までは一度だってなかった。
 だからこそ戸惑いもかなり大きかった。

 香穂子は部屋に戻るなり、思わずベッドにダイビングをしてしまった。
 全くはしたないのは解っている。
 だが、ベッドの上で手足をバタバタとさせたいと思うぐらいに、嬉しいのもまた事実だった。
 吉羅にキスをされた。
 それだけで香穂子には大きなことだ。
 あのキスが本当の意味で愛が籠ったものであるならば、世界で一番幸せ者だと思う。
 それほどまでに吉羅が好きだ。
 ファーストキスは、甘くてとてもロマンティックだった。
 きっと一生忘れない。
 香穂子はフッと笑うと、そのまま唇に指先で触れてみる。
 なんて幸せなのだろうか。
 つい笑顔になりながら、香穂子はうっとりとした気分に浸っていた。

 キスをした後の朝は、何だか特別なことが起きるのではないかと、香穂子は思った。
 本当に生まれ変わった気分だ。
 新しい一歩を踏み出した気分でダイニングに向かった。
 するといつものように吉羅が少し遅れてダイニングにやってきた。
 今日も完璧だ。
 ついいつもよりも更に輝いた笑みを浮かべてみた。
 だが、吉羅は本当にいつもと何も変わりはなく、キスなんてしなかったことのような態度に、香穂子は寂しくなった。
 吉羅にとってのキスは、大したものではないのかもしれない。
 香穂子とは違って、場数を踏んでいるからこそ、そう思うのではないかと思う。
 急に寂しくなってしまい、香穂子はしょんぼりとした気分で、食事を続けた。
「日野君、今日もしっかりと励みたまえ。本番は近いのだからね。より厳しいレッスンになるが心してかかるように」
「はい」
 吉羅は昨日とは全く違う雰囲気で、厳しい口調で言う。
 香穂子はそれを受け入れる。
 恋心と、ヴァイオリン力の向上は、また別の話だからだ。
「吉羅さん、きちんとしたヴァイオリンを皆さんにお聴かせ出来るように頑張りますね」
「ああ。期待している」
 吉羅は手早く食事をし終えると、ダイニングテーブルから立ち上がる。
「私は仕事をすることにしよう。君もレッスンを頑張りたまえ」
「はい…」
 香穂子が頷くと、吉羅は行ってしまった。
 また、溜め息が出る。
 吉羅にキスの意味を訊きたいに、上手く訊けない。
 もう少し恋に対しては積極的であれば良かったのにと、香穂子は自分を戒めた。

 吉羅は、我ながらおとなげがないと思いながら、仕事に向かう。
 香穂子にどのように接して良いのかが分からなくて、ついぎこちない冷たさで対応してしまった。
 それは全く本意ではないというのに。
 吉羅はもう少しいつもよりは甘い雰囲気で過ごしても良かったのではないかと思った。
 吉羅は、自分自身の不甲斐なさと、真剣な恋には不器用過ぎる自分に気付く。
 吉羅は溜め息を吐くと、仕事を始めることにした。
 恋はなかなか進まない。
 そのもどかしさを密かに感じていた。

 レッスンはかなり充実していて、香穂子は自分を高めるために、より前向きにレッスンに取り組むことが出来た。
 恋は上手くいっていないかもしれないが、ヴァイオリンに関する事項は、確実に成長していると思う。
 特にヴァイオリンの技術面はかなり良くなっていると感じた。
 ヴァイオリンの練習は、マンツーマンだと上達するのが早いと、実感せずにはいられなかった。

 少しばかり時間が空いたので、香穂子はテラスでヴァイオリンの練習をすることにした。
 開放的なテラスは、心も自由な気分にしてくれる。
 それが気持ち良い。
 香穂子は、自分が好きな曲を好き勝手に奏でることにした。
 ヴァイオリンを自由に奏でていると、本当に幸せだ。
 香穂子が夢中になってヴァイオリンを奏でていると、いつの間にか吉羅がテラスにやってきていた。
 見事な拍手に、香穂子は思わず振り向いた。
「悪くない。君にとっては今までで一番良い演奏だろうね」
「有り難うございます」
 吉羅がヴァイオリンを褒めてくれたのは、本当に素直に嬉しかった。

 香穂子のヴァイオリンは本当に綺麗な音色で、心の中が満たされた気分になった。
 吉羅は、香穂子の音色をいつもすぐ近くで聴いていられたら良いのにと思わずにはいられない。
 吉羅にとっては、今や香穂子は、世界で一番のヴァイオリニストだった。
 ずっとそばにいてくれたら、こんなにも素晴らしいことはないのに。
 だが、それを素直には伝えることは出来ない。
 吉羅はもどかしい自分に、苛立ちすら感じてしまう。
 恋には全く不器用だ。
 それを真剣な恋で思い知らされた。



Back Top Next