*真夏のMy Fair Lady*

11


 吉羅にじっと見つめられて、躰の奥底から、切なくも甘い幸せが滲んで来る。
 ただ見つめられるだけで幸せだ。
 こんなに純粋に誰かを好きになったことがあるのだろうかと、香穂子は自分自身に訊いてみる。
 恐らくはない。
 一度として、吉羅に抱くような想いを、誰かに抱いたことなどはなかった。
 香穂子は、吉羅を見つめる。
「有り難うございます。もっとヴァイオリンが上手くなるように頑張りますね」
 月並みなことしか言えない自分が悔しい。
 吉羅が喜んでくれるのならば、もっと頑張れるような気がした。
「良い調子でいっているようだから、頑張りたまえ。君のヴァイオリンを聴くのを楽しみにしているからね」
 そう思ってくれるのが何よりも嬉しい。
 香穂子は素直に笑みを浮かべた。
「有り難うございます。頑張ります!」
 香穂子が笑顔で言うと、吉羅がクールな表情に、瞳を揺らす。
 次の瞬間、しっかりと抱き締められた。

 香穂子が真っ直ぐ前を向いて頑張る姿が意地らしくて可愛くて、吉羅は愛しい余りに抱き締めてしまっていた。
 吉羅が抱き締めた瞬間は、緊張した様子だったが、徐々に心を溶かしていくのが解った。
 香穂子はそっと吉羅に寄り添うように抱き付いてくる。
 それが嬉しくて、吉羅は更にしっかりと抱き締めた。
 華奢なのに本当に柔らかい。
 このままずっと抱き締めていたかった。
 だがこのまま抱き締めたままというわけにはいかず、吉羅は香穂子を放すしかなかった。
「しっかりと頑張るんだ」
 頑張れとしか言えない自分がもどかしい。
 もっと気のきいた台詞を吐くことが出来れば良いのに、それが出来ない。
 吉羅は、つくづく自分が恋の初心者であることを、思い知らされた。
「ヴァイオリン、頑張ります。本番には良いものをお聴かせ出来るように」
「期待しているよ」
 吉羅はそのままテラスを出て行く。
 恋心が溢れてしょうがないと、自分でも自覚し始めていた。

 吉羅に愛されているのだろうか。
 それとも気紛れなのだろうか。
 そんなことは解らない。
 香穂子はただ、抱き締められた余韻を遺すように自分自身を抱き締めた。
 幸せがふつふつと湧いてくる。
 こうして吉羅といられるだけで幸せだ。
 ヴァイオリンと吉羅。
 このふたつがあればそれだけで完璧な人生だ。
 どちらか一方でも欠けてしまったら、切ない人生になるかもしれない。
 そうならないように依存してはならないと思いながらも、そうせずにはいられない自分がいる。
 香穂子は、この大切で貴重な僅かな日々を、後悔なく過ごそうと誓った。

 毎日のようにヴァイオリンの技術と、魅せる技術を研く。
 香穂子は短時間の間に、自分で出来る限りのことをしようと決めた。
 吉羅への想い。
 ヴァイオリンへの想い。
 どちらも大切なものだ。
 どちらか一つしか選べないと言われたら、自分自身が二つに裂けるだろう。
 それぐらいに大切なものだ。
 どちらも失わないように、香穂子はただ前向きに頑張るしかない。
 短い時間しかないから、それを有効利用しなければならないと思った。

 香穂子がエステを受けた後、ロビーで美しい女性を見掛けた。
 何処かで見たことがある顔だ。
 よくよく思い出してみて気付いた。
 最近、音楽雑誌で騒がれている美貌のヴァイオリニストだ。
 ヴァカンスでリゾートホテルにやってきたのだろうか。
 プロに聴かれるのは、かなりのプレッシャーだと香穂子は思った。
 残念ながら、今の自分には、プロを満足させられるだけのヴァイオリンの技術はない。
 聴かれると恥かしくて切ない。
 もっともっと頑張っても、香穂子には到底埋めることが出来ない溝だと思った。
「暁彦さん!」
 ヴァイオリニストは大きな声で名前を呼ぶと、吉羅に手を振った。
 吉羅はいつもと同じようなクールな表情で、ゆっくりと近付いていった。
 どのような会話をしているか知りたい。香穂子がそう思っていると、吉羅に手招きをされた。
 香穂子は、どうして自分が呼ばれたのか解らないままで、ひょこひょこと吉羅に近付く。
 すると女の表情が僅かに変わった。
「久し振りだね」
「ええ。こちらにいらっしゃるとお聞きして、ヴァカンスを取るついでに来ました」
 吉羅に笑顔で言うと、香穂子を見た後で、綺麗な顔だちが僅かに変えた。
「こちらの方は?」
「今年の夏の演奏者の日野香穂子君だ。星奏の大学生だ」
「まあ…。今年はアマチュアの方を選ばれたんですね」
 女が嫌味にすら聞こえる声のトーンで言うものだから、香穂子は随分とあからさまな女性だと思った。
 折角、こんなにも美人なのにもったいないと思う。
「もし穴があいたとしても大丈夫ですわ。今年は私がいますから、いつでも演奏は変わることが出来ますから」
 何だか嫌味を通り越している。
 笑顔で言っているのに、随分と失礼なことが簡単に口にすることが出来るのに感心した。
「それには及ばない。彼女はプロ並に優秀でね。きちんとした演奏をしてくれると思っている。お気遣いは良い」
 吉羅が淡々としながらも、ピシャリと言ってくれているのが、香穂子には嬉しかった。
 それだけ信頼してくれているということだろうか。
 ヴァイオリニスト冥利に尽きると、香穂子は思った。
「そもそも、この演奏会は若手ヴァイオリニストにチャンスを与えるのが目的だから、わざわざ君のようなプロに出演して貰うことはないよ」
 吉羅はやんわりと言っているが、その表情はかなり厳しかった。
「良い休日を楽しんでくれたまえ。日野君、行くぞ」
 吉羅に手を取られて、香穂子は驚いてしまう。
 女はあっけに取られてしまい、呆然としていた。
「よ、良かったんですか!?」
「ああ。君には申し訳ないことをしたね。彼女は一応はプロではあるが、私は君のほうが優秀だと思っている。だから、君も聞き流してくれたら良い」
「はい」
 吉羅の思いがけない言葉に、香穂子は驚くしかなかった。
 今まで、こんな風に言って貰ったことはなかったから、それだけでも嬉しい。
「私はヴァイオリンを聴く耳は肥えているつもりだからね。善し悪しは直ぐに判る」
 吉羅なら素晴らしい演奏がどのようなものであるかは、誰よりも解っている筈だ。
 だからこそこうしてフォローをしてくれるのが、嬉しいから。
 吉羅は香穂子の手をしっかりと握り締めてくれた。
 吉羅がいれば、何とか頑張ることが出来ると、香穂子は思う。
「君は私の耳を信じていれば良いんだ」
「はい、有り難うございます」
 吉羅の耳を信じて、ここは頑張るしかないと思った。
 吉羅と別荘まで歩き続ける。
 まるでガードするように一緒にいてくれるのが、嬉しかった。
 別荘に戻ると、香穂子は流石にホッとした。
「ヴァイオリンをしっかりと頑張りたまえ。君ならば彼女よりも素晴らしい演奏が出来ると解っているからね。私も楽しみにしている」
「有り難うございます」
 吉羅はあれほどまでに美しい女性すらも相手にしなかった。
 本当に綺麗だったが。
 吉羅はフッと笑うと、香穂子の頬に手を優しく置く。
「君なら今までにない素晴らしいヴァイオリンの音色を聴かせてくれるのは解っているからね」
「有り難うございます。頑張ります」
「ああ。君ならやり遂げられる」
 吉羅がここまで信頼をしてくれている。
 それだけで頑張れる。
 香穂子は、更に吉羅への想いが深まっていくのを感じていた。



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