*真夏のMy Fair Lady*

12


 本番のためにただ頑張れば良い。
 自分が出来ることをすれば。
 香穂子は、その想いを抱いて、ひたすら前を向いて頑張った。
 吉羅は、最高レベルのヴァイオリン講師を雇ってくれ、大学以上にきめの細かい指導を受けることが出来た。
「日野さん、短い期間によく頑張ったわね。これなら、お客様の前に出ても大丈夫よ」
 講師の御墨付きをもらい、香穂子はホッとした。
 これで自信を持って頑張ることが出来る。
「リハーサルは今夜ね、それには吉羅さんと一緒に聴かせて貰うから」
「はい。お願いします」
 ある意味リハーサルが一番緊張するかもしれない。
 明日が本番だから、今日は午後から髪を整えたり、エステをしたりすることになっているのだ。
 ここまでして貰うのは本当に有り難いと、香穂子は思った。
 出演料なんかいらない。
 ここまで有意義なことをしてくれたのだから。
「じゃあ、今夜のリハーサルを楽しみにしているわね」
「はい。宜しくお願いします」
 香穂子はヴァイオリン講師に深々と頭を下げた後、部屋から出た。
 次はエステと髪だ。
 髪は纏めやすいように梳いてくれるのだ。
 美容サロンの前で、香穂子はあの美人ヴァイオリニストと出会った。
「…あら日野さん」
「こんにちは」
 苦手なひとは殆どいないが、どうしてもこの女性だけは、苦手だった。
 香穂子は挨拶をして、素早くサロンに入ろうとする。だが、女に呼び止められてしまった。
「日野さん」
「はい」
「あなたがこうしていられるのも今のうちだから。暁彦さんはとてもシビアで冷たいわ。誰も本気で愛せないのよ。興味は持つけれどね。興味がなくなれば、後はそれまでよ。暁彦さんはあなたを捨てるわ。捨てるといっても、最初から拾って貰ってもいないけれどね。興味のある新進ヴァイオリニストをこのサロンに呼んで、一夏をこのリゾートホテルに呼んで演奏させて、おしまい。本当にそれだけよ。あのひとに本気になって、辛い想いをしたヴァイオリニストは沢山いるから、覚えておくことね」
 女の言葉がナイフとなって香穂子の胸を激しく抉ってくる。
 香穂子はそれを何とか耐えた。
 このまま女の言葉には踊らされてはならない。
「…では、急ぎますから…」
「ええ、じゃあ」
 女は薄笑いすら浮かべている。
 吉羅と女のどちらを信じることが出来るといえば、やはり吉羅だ。
 香穂子は自分の直感だけを今は信じることにした。

 髪をケアして貰っている間や、エステをして貰っている間は、女の言葉が気にならないといえば嘘だった。
 ちらちらと脳裏に現れるが、そんなことには惑わされないように香穂子は努めた。
 吉羅を信じよう。
 そして自分を信じよう。
 今はこれしかなかった。

 エステとヘアケアで、全身を綺麗にして貰った。
 香穂子は幾分か気分が良くなり、切り替えを上手くすることが出来た。
 これは大きなプラスになる。
 ソリストとしてこれからやっていくのであれば、楽しませるようなヴァイオリンを弾かなければならない。
 その為には、些細なことでは動揺しない力をつけなければならない。
 香穂子は、女の言葉を、心から上手く追い出すことが出来た。

 夕食後は、いよいよリハーサルだ。
 本番と同じ衣装を身に着けて頑張るのだ。
 最終的にチェックをするのは、吉羅とヴァイオリン講師だ。
「ではリハーサルを始めようか。本番と同じようにしっかりとヴァイオリンを弾いてくれたまえ」
「はい」
 吉羅に言われて、香穂子が小さなステージに立った時だった。
「待って下さい。このリハーサルに私も参加させて下さい」
 ダイニングホールに堂々とした姿で入ってきたのは、あの女性ヴァイオリニストだった。
 吉羅もヴァイオリン講師も、直ぐに神経質そうな表情を浮かべる。
「私も弾かせて下さい。そして日野さんよりも上手く演奏が出来たのならば、その時は、私を日野さんの代わりに、サロンのヴァイオリニストとして起用して下さいませんか?」
 いきなり何を言い出すかと思い、香穂子は肝が冷えた。
 こんなことを申し出るなんて、思ってもみなかった。
 不安が一気に香穂子の全身を襲う。
 香穂子は心配になってしまい、思わず吉羅の顔を見た。
 吉羅もヴァイオリ講師も顔を見合わせる。
 女はプロということで自信があるのか、香穂子を小馬鹿にするように見ていた。
 吉羅とヴァイオリン講師は特に何も話してはいなかったが、お互いに目配せをしていたところをみると、意見は一致しているようだった。
 香穂子は不安で堪らなくなりながら、泣きそうな気分で吉羅と講師を見た。
 するとふたりは意外なことを口にした。
「解った。君の申し出を受け入れよう」
「日野さんの成長の為にも良いアイディアだわ」
 吉羅も講師も意見は一致していたようで、すんなりと頷いたのだ。
 これには、香穂子は驚いた。
 逆に女は嬉しいとばかりに微笑んだいる。
 これには些か追い詰められた気分になる。
 香穂子は思わず握り拳を作った。
 プロとアマチュア。
 明らかな壁がある。
 香穂子は不安や切ない気分を抱きながらも、もうやるしかないと開き直る。
 どうせ実力に差があるというのならば、ここは腹を括るしかないのだ。
 香穂子は深呼吸をすると、表情を凛としたものに変える。
 馬鹿にされたくはない。
 香穂子はヴァイオリニストに深々と頭を下げた。
「お願いします」
 香穂子が講師と吉羅を見ると、ふたりとも軽く頷いてくれた。
「では先ず君からいこうか。君はプロだから、日野君の手本になるように弾いてくれたまえ」
「はい」
 吉羅の言葉に、女は笑顔で答えると、ヴァイオリンを構えた。
 かなり高級なヴァイオリンだ。
 恐らくはかなり美しい音色を、技術的にも安定した音色を奏でるのだろう。
 だが、畏縮してはならない。
 香穂子は、自分のベストを尽くせば良いとそれだけを肝に銘じた。
 先ずはプロから。
 立ち姿を見るだけでも美しい。
 香穂子はその姿を見て、音を聴くのは、何よりもの勉強になると思った。
 美しい音色を奏で始める。

 香穂子は流石に上手いと思う。
 上手いといっても巧いほうだ。
 所謂、技術的に巧いということだ。
 確かに教科書通りの、本当に聴きやすい音ではあるが、何処か無機質に思えた。
 感情がない。
 綺麗は綺麗なのだが、本当に音に起伏がないのだ。
 これには香穂子は驚いた。
 だが技巧はかなりのものだ。
 香穂子はなかなか真似が出来ないと自分でも思った。
 吉羅やヴァイオリニストでもある先生はどう感じているのだろうか。
 香穂子はちらりとふたりを見たが、表情は全く変わってはいなかった。
 リサイタルを開くようなレベルのヴァイオリニストで、その美しさからかなり人気があると聞いているのに、ヴァイオリンの音色に全く人間らしさはなかった。
 ヴァイオリンの演奏とは、音楽とは、技術だけでは量ることが出来ないところが素晴らしくもあり、難しくもあるのだ。そして、そこがまた楽しいところでもある。
 ヴァイオリニストの演奏が終わり、得意そうに笑みを浮かべた。
 本当に綺麗だ。
「では次は日野君だ」
「はい」
 技術では全く足下にも及ばない。
 だが、自分らしい演奏をすれば良い。
 それだけだ。
 香穂子はヴァイオリンに集中し、自由に奏で始めた。
 だが曲の途中で冷たい声が入る。
「そこまで!」
 吉羅の声に、香穂子は完全に負けたと思った。



Back Top Next