*真夏のMy Fair Lady*

13


 途中で切られたということは、それだけお粗末な演奏だったということだ。
 だが、自分でベストを尽くした結果だからしょうがない。
 一生懸命やってダメだったのだから、それはどうしようもないことだ。
 吉羅と講師の表情は硬いままだ。
 やはりそれだけ比べ物にならないということだ。
 プロの彼女はといえば、当然と言ったばかりの顔をしている。
「吉羅さん、先生、ごめんなさい。ご期待に添えなくて」
 香穂子はもう素直に謝るしかないと思い、謝った。
 ここまで一生懸命教えて貰ったりお膳立てをして貰ったのに、きちんと答えを出すことが出来なかった。
 それはかなり申し訳ないと思った。
「日野君、君は勘違いをしているようだね」
「…え…?」
 香穂子は驚いて吉羅を見た。
「日野さん、あなたの方が、かなり素晴らしい演奏でした。もう、聴かなくても判断が出来ると思うほどに。だから止めて貰いました。確かに技術的には彼女が上かもしれませんが、それよりも、あなたの音色の温かさや美しさや豊かさが素晴らしかった。技術をカバーしてしまえるほどにね。これは勝負ありですよ。日野さんがこちらのホテルの演奏をするのに相応しいです」
「先生…」
 講師の言葉が嬉しくて、香穂子は泣きそうになる。
「私も同じ意見だ。そして…、君もそのことに気付いているんではないかね?」
 吉羅が美しきヴァイオリニストを見つめると、悔しそうに唇を噛んだ。
「…確かに…そうかもしれません…。悔しいですが、日野さんは私のないものを持っているようです」
 素直に認めてくれたのが、香穂子にはびっくりした。
「じゃあ私はこれで…」
 彼女は切なくも苦しそうに見つめる。 
 その背中からは先ほどの自信は一つも残ってはいなかった。
「では日野さん、最初リハーサルを行います。しっかりね」
「はい」
 最終リハーサル。
 お客様により良いものを聞かせるために、香穂子は気合いを入れる。
 吉羅と今まで指導をしてくれた講師への恩に報いるためにも、素晴らしいものを聴かせなければならない。
 香穂子は背筋を伸ばして、ヴァイオリンをゆっくりと奏で始めた。

 リハーサル中には、何度も厳しいだめ出しが入る。
 お客様にきちんとしたものを聴いて頂く為にも、ここは厳しくされる。
 香穂子は厳しいだめ出しにに応えながら、苦手な部分を修正していく。
 厳しいリハーサルではあるが、香穂子にとっては、かなりの勉強になった。
 2時間以上に及ぶリハーサルが終わる頃には、ヘトヘトになってしまっていた。
 だがとても心地が好い疲労だ。
「これだけしっかりとリハーサルをしていたら大丈夫よ。日野さん、明日からの本番もしっかりとしたものが出来上がるから」
「はい、有り難うございます。これも先生と吉羅さんのお陰です」
 深々と頭を下げて、香穂子は出来る限りの礼を言った。
「明日の演奏を楽しみにしているよ」
「私も楽しみにしているわ、日野さんの最初の演奏を聞き届けたら、明日には帰りますから」
「先生、色々と有り難うございました」
 香穂子が礼を言った後、講師はホールから出て言った。
 いよいよ、吉羅と二人きりになる。
「日野君、君は本当によく頑張ったね」
「有り難うございます。ここまで頑張れたのは、吉羅さんと先生のお陰です。明日からは精一杯、ヴァイオリンを演奏します」
「ああ。楽しみにしているよ」
「はい」
 吉羅の期待にも応えたい。
 そして折角聴いて下さる人達にも癒しの音を奏でられたらと、香穂子は思わずにはいられなかった。
「さあ、帰ろうか」
「はい」
 吉羅はごく自然に手を繋いでくれる。
 くすぐったくて嬉しい行為だ。
 香穂子は幸せな気分で、つい微笑んでしまう。
「日野君、私も先生も君が彼女以上に素晴らしい演奏をすることを解っていたから、だから彼女の申し出を受けたんだよ」
「…え…?」
 吉羅の一言に、香穂子は驚いてしまい、思わずその顔を見上げた。
「あ、あの…、それは…」
「君が上手く演奏するのは解っていたから、後は自信をつけさせようと思っていたから、彼女からの申し出はむしろ都合が良かったんだよ」
「ですが…あの方はプロですし…」
 香穂子が目を伏せて言うと、吉羅は苦笑いをした。
「彼女は綺麗で良家のお嬢様だからね。それだけでプロになった。確かに最高のヴァイオリン講師を雇って勉強をしてきたから、技術は申し分ない。だが、解釈面が全く駄目でね。これは以前から言われていたことだ。ヴァイオリンの音色は、解釈が命だ。それが全く駄目だということは、ヴァイオリニストとして致命的だと言わざるをえない。君の場合は技術的には彼女に劣るが、それに優る解釈面の素晴らしさがある。解釈はどんなに練習をしてもなかなか身に着けられるものではないからね。これも一つの才能だ。だから、うちのホテルでは彼女を一度としてヴァイオリニストとして雇わなかった。あのような無機質な演奏を聴かせてしまったら、それこそリラックスしに来ているゲストに申し訳がないからね」
 吉羅の言葉が、香穂子の心の中に、小さな自信をつけてくれる。それが本当に嬉しい。
 この小さな自信が沢山集まれば、いつか大きな自信となって花開くことになるだろう。
 それを期待しながら、香穂子は前向きに頑張ろうと思った。
 吉羅はヴァイオリンに関してはかなり冷静で的確に判断している。
 そんな吉羅に依頼をされたのだから、ここはしっかりと良いもので返したいと思った。
「私…、このようなチャンスを頂いて、本当に感謝しています。嬉しいです。だから、このチャンスに恥じないように頑張りますね」
 吉羅への感謝を込めて香穂子は笑顔を向ける。
 次の瞬間、思い切り抱きすくめられた。

 月夜で微笑む香穂子は、なんと美しいのだろうかと、吉羅はしみじみと思った。
 神々しくもある美しさだ。
 吉羅は、香穂子の華奢で柔らかな躰を抱き締めた。
 こんなにも純粋で前向きな女性はいないのではないか。
 少なくとも吉羅は香穂子以外には知らない。
 だからこそ、香穂子をその腕の中に閉じ込めたくなる。
 ずっとそばにいて、香穂子がヴァイオリニストとしても、女性としても成長していく様子を見たかった。
 誰よりも近くで成長を見て、誰よりも近くで守っていたい。
 本当に誰よりも近くで。
 暫く、抱き締めたまま香穂子を堪能したかった。
 吉羅は香穂子の滑らかな頬を両手で包み込む。
 唇に触れた瞬間、幸せが全身を駆け巡った。

 月に照らされた吉羅は、なんてロマンティックなぐらいに素敵なのだろうか。
 香穂子はついうっとりと見惚れてしまう。
 こんなにもうっとり出来る相手はいないと、香穂子は思わずにはいられなかった。
 吉羅が顔を近付けてくる。
 白雪姫やオーロラ姫が王子様から受けたキスよりも、ずっとずっとロマンティックだ。
 香穂子はぎこちなく吉羅の背中に腕を回す。
 すると、更に強く抱き寄せられた。
 こうしてキスをするだけで、なんて幸せなのだろうかと、ついうっとりとしてしまった。
 キスを受けた後、吉羅は香穂子を暫く優しく抱き締めてくれる。
 本当に幸せだ。
「…香穂子」
 初めて名前を甘い声で言われて、そのまま抱き締めた腕に力を込めてくれる。
 幸せ。
 吉羅は香穂子の瞳をじっと見つめてくる。
「…香穂子…、私の部屋に来ないか…?」
 吉羅の言葉に、香穂子はただ頷いた。



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