*真夏のMy Fair Lady*

9


 ドレスに着替えた後、香穂子は何度も鏡の前でターンをする。
 何だかドレスに着られているような気分になる。
 香穂子は、自分が似合うと信じて、胸を張ることにした。
 気合いを入れて、吉羅と待ち合わせをしているホールへと向かう。
 高めのハイヒールだったので、かなり慎重に歩く。
 そのせいかいつもよりも脚捌きに意識をすることが出来た。
 香穂子がホールで待っていると、吉羅がスマートなスタイルで階段から下りてきた。
 スーツ姿ではあるが、いつものビジネスライクなものと違って、今日は洗練されたなまめかしさが漂っていた。
 本当に素晴らしいほどに綺麗だ。
 香穂子はついうっとりと見つめてしまう。
 大人の洗練というのは、このようなことを言うのだろうと思った。
「お待たせしたね」
「そんなには待っていません」
 ドキドキしながらふわふわとした気分で言うと、吉羅はまるでチェックをするかのように、香穂子の全身を見つめた。
「では行こうか」
「はい」
 吉羅の後ろから歩いて行こうとすると、いきなりその手を掴まれてしまった。
「…あ…っ!」
「一歩後ろを歩くのは昔のスタイルだよ。今はこうして同じ速度で並んで歩くんだ」
 吉羅に手をしっかりと繋がれてしまい、香穂子は心臓が跳ね上がるのではないかと思った。
 吉羅は車を停めてある駐車場まで、香穂子を連れていってくれる。
「味も眺めもうちのホテルが最高だとは思ってはいるが、みんなの目もあるからね。うちと同じぐらいに素晴らしい場所があるから、そちらに行こう」
「はい。有り難うございます」
 吉羅はエスコートし慣れているからか、車のドアを開けるのも、総てがとても洗練されている。
 車に乗り込むのも手を貸してくれた。
「有り難うございます」
 吉羅はフッと笑った後、運転席に座り、車を出す。
「日野君、これはあくまでもレッスンの一環であることを忘れないように」
 戒めるようにピシリと言われてしまい、香穂子は心を引き締める。
 そうなのだ。
 これは、レッスンなのだ。
 香穂子が洗練された女性になる為のレッスンに過ぎない。
 香穂子は浮かれた気分を何処かに追い出そうと思う。
 だが、追い出すことは、到底、出来る筈がなかった。
 車はサンセットが麗しい海岸線をしばらく走る。
 これはご機嫌なドライブだ。
 本当に美しい地平線を眺めながら、香穂子はうっとりとした。
「もうすぐ到着するよ」
「はい」
 小さな洋館が見えてきて、そこの横にある駐車場に車が停められる。
 吉羅は先に自分が出ると、香穂子のためにドアを開けてくれた。
「有り難うございます」
 とっておきのお姫様にでもなった気分だ。
 吉羅に手を借りて、車から降り立った。
 吉羅と手を繋いで、レストランに入っていく。
 内心ドキドキしたのは言うまでもなかった。
 レストランのオーシャンビュー側の席に案内をされ、椅子を引かれて優雅に座る。
 こんなことは余りしないから、つい香穂子は緊張してしまった。
「吉羅さん、有り難うございます。とても素敵なレストランです」
 少しだけ緊張気味の笑顔を浮かべると、吉羅はじっと香穂子を見つめてくる。
「日野君、もう少し余裕を持った表情を浮かべなさい。余裕がなくてもあるように見せるのは、マナーのひとつだからね」
「はい」
 吉羅の駄目出しが入り、香穂子は益々緊張してしまった。
「姿勢は美しく。但し、かちこちになってはいけない。余裕を持ったエレガントな優しさを兼ね備えた美しい姿勢で腰をかけなさい。何も受付嬢のように半掛けをしてかちこちになる必要はない。あくまで柔らかくだ」
「はあ…」
 吉羅の言うことは何となく理解することは出来るのだが、なかなか難しいところがある。
 香穂子はなるべく言われたようになるよう努力をした。
 食事が運ばれてきた。
 食事のマナーもまた苦手だ。
 ナイフとフォークを使って食べるコース料理なんて、そう滅多に食べることはないのだから、余計にどうして良いのかが分からなかった。
 それには手っ取り早く吉羅の真似をしたほうが早いと、香穂子は思った。
 吉羅が食べ始めると、香穂子も続く。
 何も言われないところを見ると、このスタイルで大丈夫なのだろうと思う。
 だが、吉羅から再び駄目出しが出てしまった。
「招待された時は、招待された側から食べるのが普通だ。気をつけたまえ」
「はい」
 やはり吉羅は誰よりも厳しいマナー講師だと、香穂子は思わずにはいられなかった。
 食事は新鮮な魚介やビーフを使っていて、本当に美味しかった。
 だがマナーを気にする余りにいつもよりもかなりもたついてしまう。
「日野君、もう少し落ち着いたら良いんだ」
「はいっ」
 吉羅は何もかもお見通しだ。
 香穂子は深呼吸をして微笑むことしか出来なかった。
「リラックスすれば良い。マナーなんて、誰もが初めはぎこちない。生まれつきにマナーが洗練されている人間なんてあないのだからね」
「はい」
「君がマナーを短時間で身に着けられるように、私もなるべく手を貸そう」
「有り難うございます」
「その為にもこのような機会を沢山取らなければならないね」
 吉羅は夢のようなデートに、また誘ってくれるというのだろうか。
 こんなにも嬉しいことは他にない。
「少しずつマナーを覚えて行きますね」
「そうして貰うと嬉しいがね」
 吉羅はフッと笑うと、食事を続ける。
 見事なまでに美しいマナーだ。
 香穂子は思わず見惚れてしまう。
 吉羅は本当に洗練されていると感じた。
 香穂子に見つめられているのに気付き、吉羅は不意に目線を合わせる。
「どうしたのかね?」
「吉羅さんのマナーは素晴らしいと思って見ていたんですよ」
「それは有り難う。君も近いうちにこれぐらいは出来るようになる。そうなって貰いたいものだと私は思うがね」
「そうなれるように頑張ります」
「結構だ」
 吉羅と釣り合いが取れるようになるには、やはりマナーをきちんと身に着けた洗練された女性にならなければならない。
 香穂子は益々マナー部分を頑張らなければならないと思った。
 吉羅との食事はかなり緊張したが、それでも嬉しかった。
 マナーをきちんと身に着けられたら、最高に楽しめる食事になるだろうと思った。
 せめて最終日には、もう少しましな状態でいたいと、香穂子は思う。
 やがてデザートがやってきた。
 夏らしくアイスクリームと桃がメインの甘くて美味しいデザートだ。
 桃を食べるのに、マナーを気にしてしまって少しばかり苦労してしまったが、だがそれ以上に美味しいものだった。
「本当に美味しいデザートです。甘くて文字通りに蕩けそうですね」
 香穂子は甘いデザートに幸せな気分になっていた。
「ここのデザートはかなり凝っていて美味しいんだよ」
「本当に、美味しいです。この甘味も最高だし、本当に幸せです」
 香穂子は素直に笑顔になると、つい子供のような表情をしてしまう。
 すると吉羅に笑われてしまった。
「…君は良い笑顔をするね」
「あ、あの、有り難うございますっ」
 恥ずかしくて真っ赤になりながら、香穂子は吉羅を見た。

 食事が終わり、車に乗り込む。
 夢のような時間はおしまいだ。
 香穂子は夜景を眺めながら、切ない気分になっていた。
「…楽しい時間は本当にあっという間に過ぎますね…」
 吉羅は答えずに、ただ運転に集中していた。

 吉羅の別荘に到着し、香穂子は車から降りようとする。
 その瞬間、唇を重ねられた。



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