*真夏のMy Fair Lady*

8


 夕食の後、香穂子は、ヴァイオリンを演奏する会場を、吉羅に案内して貰うことにした。
「メインになるのは、こちらのダイニングホールだ。部屋でも食事が出来るから、宿泊客のおよそ半分が利用する。ここでヴァイオリンの演奏をして貰う」
「はい」
 ダイニングホールは、吹き抜けが素晴らしい、まるで昔の洋画に出て来るダンスホールのようだ。
 その素晴らしさに、香穂子はうっとりとしてしまう。
 細部までディテールにこだわった造りは、いつまで見ていても飽きないデザインだ。
 そしてホールのように造られているので、音響も良さそうだ。
 香穂子は何度も頷いてしまう。
「吉羅さん、ヴァイオリンの音色の響き具合を確かめさせて頂いても良いですか?」
「ああ。どうぞ」
「有り難うございます」
「あちらがヴァイオリンを弾くためのステージだ」
「はい」
 スタインウェイの立派なグランドピアノが置かれている隣で、香穂子はヴァイオリンを奏でる。
 このホールは本当にロマンティックに出来ているから、優しく甘いワルツがお似合いだ。
 “魅惑のワルツ”を奏でた。
 古いロマンティックコメディーの映画のテーマソングにもなったワルツで、この場所にぴったりだと思ったからだ。
 香穂子は、まるで吉羅とワルツを踊っているような気分で、ヴァイオリンを奏でた。
 とても華やかな気分で、ヴァイオリンを奏でることが出来る。
 本当によく響くので、ヴァイオリンが弾きやすい。
 香穂子はひと弾きで、この場所が気に入ってしまった。

 本当に見事なまで明るく澄んだロマンティックな音色だ。
 吉羅はついうっとりと聞き入ってしまう。
 自分のような所謂、“大の男”が、うっとりという表現はおかしいかもしれないが、本当にその通りの気持ちだった。
 香穂子はこれから益々素晴らしいヴァイオリニストになるだろう。
 それは確実だ。
 吉羅は、この音色を世界に広めたいと思うのと同時に、自分だけのものにしたいとも考えてしまう。
 香穂子を独占したいという想いが、胸に滲んでいた。

 香穂子がヴァイオリンを奏で終わると、吉羅は緩やかに拍手をした。
 表情は全く変わってはいないから、吉羅がどう思っているかどうかは、解らない。
「結構だ。だが、まだ技術的に不安定な部分もあるから、この一週間でその部分を修正したまえ」
 吉羅は冷静適格に指摘をしてくる。
 確かに言われる通りに、香穂子のヴァイオリンを弾く技術は安定してはいない。
 それはヴァイオリニストを、ましてやソリストを目指すものには致命的だ。
 香穂子は神妙な想いで、吉羅に頷いた。
 しっかりと苦手な部分は修正しなければならない。
 それが出来なければ、ヴァイオリニストとしてステージに立てないと思った。
「吉羅さん、本番までにきちんとしたものを作りますから。頑張ります」
 香穂子は自分で出来る最大限の努力をすると誓いながら頭を下げる。
 覚悟は決めている。
 後は真っ直ぐ前を見て頑張るだけだ。
「期待しているよ。今夜はこれでおしまいだ。明日からは些かハードスケジュールになるがしっかりと頑張ってくれたまえ」
「はい」
 香穂子が返事をすると、吉羅はフッと甘くて微笑む。
 その微笑みが本当に素敵で、香穂子もまた笑顔になった。
「では家に戻ろうか」
「はい」
 吉羅とふたりでダイニングホールを出て、別荘へと向かう。
 ロマンティックな瓦斯灯がほんのりと優しい灯を点している。
 空を見上げると星がまるで地上に降り注いで来そうだ。
 横浜ではこんなにもダイナミックで美しい夜空を見ることは出来ない。
 香穂子は思わず立ち止まった。
「どうしたのかね?」
「横浜だとこんなにも綺麗な夜空を見ることが出来ないなあって思ったんですよ。星がたっぷりですよ。本当に綺麗な夜空です…」
「横浜は空気が汚れているし、ビルや家の灯が沢山あるからね…。それらが夜空の星を消してしまっている」
「そうですね」
 横浜では見られない見事な空を、こうして吉羅と一緒に見られることが、香穂子には嬉しかった。
 思わず夜空の下で元気いっぱい伸びをする。
「沢山元気を貰えたみたいです。これで明日からまた頑張れます」
「そうだね。私も仕事をしっかりと出来そうだ」
 ふたりは同じ目線で、同じ夜空を見上げる。
 いつまでも見ていられるほどに美しかった。

 ハードな日々が始まる。
 香穂子は息も吐く暇がないほどのスケジュールに追い立てられる。
 充実はしているが、なかなか大変だ。
 だが、決して辛いとはかけらにも思わなかった。
 楽しくて苦しくて実のある日々だ。
 エステや立ち振る舞いは、女性としては身に着けておきたいものだったので、有り難いと思いながらレッスンを続けた。
 “マイ・フェア・レディ”のイライザもこんなにも苦しくて楽しい日々を送っていたのだろうかと、香穂子は思っていた。
「日野君、調子は如何かね?」
 香穂子がランチを取りに別荘へと戻ると、吉羅がダイニングルームにやってきた。
「まだまだですけれど、充実しています」
「それは良かった。確かに君にはもう少し頑張って貰わなければならないからね」
「はい。頑張ります」
 吉羅のことだから、香穂子の進捗状況を知っているだろう。
 だからこそ、香穂子がまだまだである状況が解るのだろう。
「どれとして君には無駄なものはないからね」
「はい」
 本当にそうだ。
 どれもヴァイオリニストとしても、女性としても無駄にならないものばかりだ。
「今夜は別荘から出て、君のエレガント度をチェックさせて貰う。今夜の講師は私だ。ドレスも用意したから、それを着て外出だ」
 ドレスアップをして、吉羅と一緒に出かける。
 それだけで胸がときめいてしょうがなくなる。
 吉羅の足を引っ張ってしまうのではないかと、そればかりを考えてしまう。
 香穂子はドキドキする余りに、持っていたパスタ用のフォークを落としそうになった。
「メイクはレッスン通りに君自身で行いたまえ。修正はしてはくれるが、それだけだからね。先ずは自力でやるんだ」
「はい」
 自分自身で大人の女性のようなクールなメイクが出来るのだろうか。
 不安がないわけではないが、香穂子は精一杯頑張ってみようと思った。
「日野君、ヴァイオリンレッスンの後に時間を設けてあるから、しっかりとやりたまえ。部屋にはドレスとバッグ、 アクセサリーにハイヒールの一式を届けさせておく」
「有り難うございます」
 香穂子はときめく余りにどうして良いのかが解らない。
 ただ、ごまかすようななんとも言えない笑みを浮かべることさか出来なかった。

 ヴァイオリンのレッスン中はかなり集中していたので、吉羅とふたりきりで出かけることを、すっかりと忘れてしまっていた。
 だがレッスンが終わるなり、意識をせずにはいられなくなった。
 吉羅と出かける。
 それだけでどんなに甘い気持ちでいられるかを、吉羅はきっと知らないだろうと思った。
 香穂子は部屋に戻るとベッドの上に、まるでお姫様が着るのではないかと思うほどのドレスが置かれてい ることに気付いた。
 お姫様といってもごてごてしたものではなく、シンプルかつセクシーに見える。
 このようなドレスを自分が着ると思うだけで、香穂子は半ば興奮してしまった。
 このドレスに袖を通すと素晴らしい魔法にかかるに違いない。
 香穂子は魔法を見つけたような気分になった。



Back Top Next