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やはり愛されてはいないのかもしれない。 吉羅の言葉に、香穂子は自分が都合が良い女の典型なのだと思わずにはいられなかった。 「…そうですね…。ここでは言う必要はありませんね…。失礼します…」 香穂子は深々とお辞儀をすると、吉羅から離れようとする。 だが、その手を掴まれてしまう。 「あ、あのっ!?」 「…待ちなさい」 「誰かが見ていたら…」 「見ていても構わない。私たちは正式に婚約をしているのだからね」 吉羅は厳しい口調で言うと、香穂子を厳しい目で見つめる。 怒っている。 それもかなり激しく。 あのようなことを言ってしまったからだろうか。 だが、香穂子も不安でしょうがないのだ。 そこは理解して貰いたかった。 「…君は婚約をしているんだ。他の男とは親密になる資格はないはずだ」 「…え…」 吉羅のまなざしを見ていると、静かな怒りに燃えているように思える。 まるで嫉妬をしているようにも思えた。 そう思うと、香穂子は嬉しくなってしまい、つい笑顔が零れ落ちる。 「…暁彦さん、ひょっとして…、嫉妬されているとかは…ない…ですよね…?」 香穂子がやんわりと指摘すると、吉羅の瞳が一瞬揺らいだ。 「…加地君は、本当にただの友人です…だから、私たちの間には本当に何もありません」 香穂子はキッパリと言い切った。 疚しいことはないのだから、言い切ることが出来る。 吉羅はと言えば、フッと笑ったかと思うと、香穂子を真直ぐ見た。 「…私が嫉妬をするはずがないだろう…」 吉羅はいつも以上に冷たい表情になる。 「君が他の男と何かあれば、婚約者として後々困ることがあるからね。そのために言ったまでだ」 吉羅はビジネスライクに言い切る。 「…なら…、私よりも従順な女性を選んで下さい。私は友人との付き合いまであなたにコントロールされたくはありません」 香穂子は凜とした声で言うと、吉羅に背を向ける。 「何処に行く」 吉羅は直ぐに腕を掴むと、香穂子の唇を奪ってきた。 「…んっ…」 誰が見ているか解らない場所で、こんなにも激しいキスをしてくるなんて思ってもみなかった。 唇を離された後、香穂子の唇はぷっくりと腫れ上がる。 「…吉羅さん…」 「君は私のものだから。誰にも渡す気はないから、そのつもりで」 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子に背を向ける。 まるで激しく嫉妬しているようにしか見えない。 香穂子は驚いてしまうのと同時に、甘い喜びが滲む。 もし吉羅が本当に嫉妬してくれているなら、こんなにも嬉しいことはないのにと思った。 父親の言いつけで、香穂子は吉羅家にロールケーキを届にいった。 いつものように使用人詰所に向かう。 「こんにちは、ロールケーキを届けに来ました」 「香穂子ちゃん! 次の当主夫人がこんなところから入るなんてダメだよ!」 家政婦長に焦るように言われて、香穂子はきょとんとする。 「だっていつも通りだよ。それに、私が次の当主夫人にならないかもしれないし…」 小さい頃から知っているからか、香穂子はつい本音を言ってしまう。 「…香穂子ちゃん…」 「吉羅さんと私は、やっぱり釣り合いが取れていないんじゃないかなって…、思います…。だって全部において釣り合いが取れていないもの…。おばさんが知っての通り、本当に大好きで大好きでしょうがないひとだけれど…、真実が見えないもの…」 香穂子は笑おうとしたが、上手く笑えなかった。 「…吉羅家は、結婚しなければ…、継げないんだよね…。だから私と結婚するんだよね…。一番、手っ取り早い相手だから…」 香穂子は俯くと、唇を軽く噛み締める。 事実を言っているだけなのに、痛かった。 「香穂子ちゃん、恋は盲目だとはよく言ったものだけれど、あなたはある意味盲目ね。だって何も見えていないもの」 家政婦長はにっこり笑うと、香穂子の頬にそっと触れる。 「坊ちゃんが、あなたに夢中なのは、誰が見ても明白よ。本当にあなたしか見ていないのよ。あなたが高校を卒業する頃には、坊ちゃんは既にあなたに夢中だったからね。あなたが誰かのものになる前に、素早く手を打ちたかったのよ」 「…まさか…」 家政婦長の話を聞いているだけで、香穂子の鼓動はときめいてしょうがない。 こんなにも甘くドキドキすることは他にない。 「…それって…本当?」 「…本当よ。あなた以外はみんな気付いていたんだよ。坊ちゃんの自制心はいつ壊れるかばかりを考えていたからね」 まさかそんなことがあるとは思わなかった。 香穂子は驚いた表情のまま、家政婦長を見つめる。 「詳しくは奥様からお訊きなさい。奥様がお待ちよ。リビングにいらっしゃい」 「うん。有り難う、おばさん」 香穂子は深々と頭を下げると、ケーキを持ってゆっくりとリビングへと向かった。 「こんにちは…」 香穂子が笑顔でケーキを持っていくと、吉羅の母親は、気品が溢れる笑みを零してくれた。 「まあ! 香穂子ちゃん! お久し振りね!」 「お久し振りです!」 吉羅の母親は香穂子に椅子を勧めてくれ、そっと腰を下ろした。 「あの、ケーキをお届けに上がりました」 「はい、有り難う」 吉羅の母親は、ケーキを受け取ると、しっかりと頷いた。 「有り難う。そして、暁彦に嫁いでくれる決断をしてくれて、本当に有り難う。香穂子ちゃんが、義理の娘になるのはとても嬉しいわ。強引な息子だけれど、あなたに恋しているのは違いないから」 吉羅の母親まで言ってくれている。 信じても良いのだろうか。 胸の奥が俄かに幸せな色に染め上げられていった。 「…私…吉羅さんにはずっと嫌われてばかりいると思っていました」 「何を言っているの! 暁彦はかなり前からあなたに夢中だったんだから!」 香穂子はただ目を見開いて、吉羅の母親を見た。 「あなたのお父様も薄々、気付いていたみたいだけれどね。暁彦があなたを妻にすると思っていることをね…。だけど、こんなにも早いとは思ってはいなかったようだけれどね。このままだと、あなたが他の誰かのものになることを、解っていたからかもしれないけれどね」 吉羅の母親はフッと微笑む。 「あなたをそれほど欲しかったのでしょうね。暁彦は…」 「おばさま…」 「幸い、あなたが暁彦に夢中で助かったというところかしら」 吉羅の母親の言葉に、香穂子は今にも泣き出したくなる。 それぐらいに感動してしまう。 「有り難うございます」 「あの子は本当にあなたに夢中なのよ。母親として、あなたには有り難うと言いたいわ。あの子の幸せは、あなただけが作れるものよ」 吉羅の母親は本当に嬉しそうだ。 「ああいう性格だから、あなたには苦労をかけてしまうかもしれないし、嫉妬深いわ。あなたを独占する余りに、いろんなことをしてしまうでしょうけれど、それは総て愛いしているからなのよ。それは覚えておいてあげてね」 吉羅の母親は真直ぐ香穂子を見つめている。 本当にそうならばこんなにも嬉しいことはないというのに。 「…そうだったら…、嬉しいんですけれど…」 香穂子は、そっと俯いた。 「あなたのことをずっと見守っていたのよ。もう、あなたを待つのが限界だったんでしょうね」 くすりと吉羅の母親は笑う。 「私たちはあなたが暁彦の妻になってくれるのをとても嬉しく思いますよ」 吉羅の母親がそこまで言ったところで、気配を感じる。 「そこまでです。お母さん」 顔を上げると、そこには吉羅がいた。 |