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吉羅に愛されてはいないのかもしれない。 吉羅は恐らくは可愛いとは思ってはいてくれているだろう。それも妹のように。 恐らくはそれだけなのだ。 それ以外には何もない。 解っている。そんなことは。 ならば吉羅は何故抱いたのだろうか。 ただの暇つぶしにしか思ってはいないのだろうか。 そう思うと、泣きそうになってしまった。 香穂子が急に塞ぎ込んでしまっても、吉羅は何も変わらない。 クールなままだ。 だが、ずっと手は放してはくれなかった。 吉羅はどうして婚約したのだろうか。 嘘なのだろうか。 それともカモフラージュなのかもしれない。 「香穂子、先ほどからどうしたのかね?」 「何でもありません…」 「そうか…」 吉羅は何も訊いてはこない。 それぐらいにしか興味はないのだろう。 香穂子はそう思うと胸が痛くてしょうがなかった。 香穂子の家族のためにたい焼きを買う。 お土産も買ったし、これで帰れば良い。 「…吉羅さん、そろそろ帰りますね。ひとりで帰れますから、送って頂かなくても大丈夫です」 「送る」 吉羅はキッパリと言うと、香穂子の手を握り締める。 どうしてこんなにも吉羅は放そうとしないのだろうか。 香穂子には、吉羅の気持ちが解らなかった。 結局は送って貰うことになり、横浜へと向かう。 愛されているのかいないのか。 未だに香穂子には解らない。 吉羅に総てを捧げたが、その気持ちは解らないままだ。 「…少し気分転換にドライブでもするかね?」 「はい」 早く横浜に帰りたいのに、吉羅のそばにいたいなんて、矛盾した感情をつい抱いてしまう。 「鎌倉あたりまで行くかね? 海が見られるからね」 「そうですね。有り難うございます」 香穂子はにっこりと笑うと、吉羅の横顔を見た。 本当に気持ちがどうなのかが解らないひとだ。 愛してくれていたら、どんなにか嬉しいことだろう。 心地よい鎌倉までのドライブを楽しんだ後、車は海岸近くの駐車場に停められた。 何だか開放的な気分だ。 香穂子は思い切り伸びをすると、清々しい海の雰囲気を堪能することにした。 波打ち際を走り回り、まるで無邪気な子どものように振る舞う。 そうすれば、小さな頃に戻れるような気がしたから。 あの時は、吉羅に愛されているだとか、そんなことは余り気にしなかったように思える。 ただ自分に真直ぐ吉羅が好きだった。 好きだけで楽しかった。 だが、吉羅と結ばれてからは、他の悩みが出て来てしまう。 果たして吉羅に愛されているのだろうか。 そんな痛い悩みが。 贅沢な悩みであることは、充分に承知している。 だが、愛して欲しいと思わずにはいられなかった。 香穂子はふと燥ぐのを止めて、海の向こうを見つめてしまう。 ふと、吉羅に抱き締められる。 「…吉羅さん…」 「どうしたのかね?」 「…大丈夫ですよ。ただ、海がとても綺麗だと思っていただけですから」 香穂子はポツリと言うと、フッと微笑んだ。 吉羅に心から愛されているのか、いないのか。 その結論はなかなか出なかった。 「…君がどう思っているかは知らないが、私は君を放す気はないからそのつもりで」 吉羅はキッパリと言うと、更に香穂子を抱き寄せる。 ただの独占欲かもしれない。 だが、香穂子にとっては一縷の光だった。 結局、海の近くのレストランで食事をして、吉羅に家まで送って貰ったのは、夜遅くだった。 相手が吉羅暁彦だからか、両親は心配をしていなかった。 吉羅暁彦を信頼しているのだから当然だ。 この度の婚約騒動も、吉羅が相手だったからこそ、両親も安心しているようだった。 「近いうちに結納についてご相談します。きちんとさせて頂きますから」 吉羅は香穂子の両親にきちんと話をする。 香穂子の両親はとても喜んでくれていたが、香穂子自身は複雑な気分だった。 大学に行くと、理事長と香穂子の婚約ニュースは広がっていた。 「本当に綺麗になったよね、香穂子は」 天羽が香穂子を見るなり、羨ましそうにしている。 それは嬉しいが、何だかこころが晴れない。 吉羅のこころが見えないからだ。 「本当に綺麗になったよね。ここのところ少し見ないだけで本当に綺麗なんだもんね」 「有り難う」 香穂子は友人にただ笑顔で答えるしかなかった。 「日野さん」 キャンパスで声を掛けられて、香穂子は振り返る。 加地が複雑な表情でこちらを見ていた。 「理事長と幼馴染みだと聞いていたけれど…、まさか結婚するとは思わなかったよ…」 加地は複雑な笑みを浮かべながら香穂子を見ている。 ずっと好きでいてくれたのは嬉しかった。 だが、吉羅への想いが強くて、香穂子は答えてあげることは、出来なかった。 「うん。まだ婚約だけれどね…。今すぐに結婚するというわけではないんだ」 「…そうなんだ…。だけど、とにかくおめでとう…」 「有り難う」 香穂子は笑顔で答えるものの、満面の笑みではなかった。 「しかし意外だったよ。吉羅さんは…、ずっと帝国銀行の頭取の娘さんと結婚すると思っていたから。あちらは随分と熱心だったようだけれど、吉羅さんはそうでもないようだったけれど…、同じ世界の人間だからそうなるのかと思っていた」 同じ世界の人間。 香穂子の胸がチクリと痛む。 同じ世界の人間でない自分を、どうして吉羅は選んだのだろうか。 その疑念がまた渦巻く。 恐らくは訊いたとしても、教えてはくれないだろうが。 「…吉羅さんもこれで晴れて吉羅家を相続出来るね。吉羅家は結婚しなければ相続出来ないしきたりだからね」 加地の何気ない一言に、香穂子は目を見開く。 結婚しなければ相続出来ないなんて、知らなかった。 吉羅家にはそのようなしきたりがあるなんて、教えてすらくれなかった。 香穂子は痛くなるぐらいに鼓動が早まるのを感じる。 息苦しくてしかたがない。 こんなに苦しいことは他にないように思えた。 香穂子が動揺をしているのに気付いたのか、加地は申し訳ないように眉を下げる。 「…ごめん、日野さん…」 「…大丈夫だよ。有り難う…。そんなにも気にはしていないから」 「日野さん…」 加地は本当に済まなさそうな顔をしている。 香穂子は加地に笑って貰うようにあえて微笑んだ。 「加地君に聞いて良かったと思っているよ。だからそんな顔をしないで」 「日野さん…」 加地はホッとしたように笑顔になる。 流石にその笑顔に、香穂子はホッとした。 「じゃあ、また」 「うん。またね」 香穂子は加地に向かって手を振る。 香穂子が溜め息を吐いたところで、強いオーラの気配がした。 振り返ると、そこには吉羅暁彦がいる。 何処か厳しくて冷たいまなざしを香穂子に向けていた。 「香穂子、君は何をしているのかね?」 まるで香穂子を責めるような口調だ。 「…吉羅さん…。吉羅家が…結婚した者でなければ継げないと聞きました。…そして帝国銀行の頭取のお嬢さんとの縁談もあったと…。それを振り切るためと、吉羅家を継ぐために、私と結婚しようとしているのですか…? 私が一番身近な存在だから。私があなたに恋をしているから…。そうではないですか…?」 「…そうじゃない…」 吉羅は低い声で呟くと、ただ香穂子を見る。 「…だったら…」 「言う必要はないと思うがね。ここでは…」 吉羅の言葉に、香穂子は胸をナイフで抉られたような気分になった。 |