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夫は、他の女性と浮気したことを否定はしなかった。 香穂子はその一点が一番引っ掛かってしまう。 吉羅には、既に愛する愛人がいるかもしれない。 そうすれば香穂子はもう女性としては愛されないということになる。 それはそばにいても余りにも辛いことだ。 吉羅をまだ深く愛しているのだから。 吉羅にまだ恋をしているのだから。 暁史の母親としてしか見ては貰えないのは、余りにも辛い。 胸が詰まるほどに切ない。 それならば、吉羅に協議離婚を申し出て、親権を争ったほうが良いのかもしれない。 なのに…、もう一度躰を重ねてしまってからは、そうキッパリと割り切ることが出来ない自分がいた。 香穂子が暁史の世話をしながら、朝食の準備をしていると、吉羅の携帯電話が鳴り響いた。 「もしもし吉羅だが、ああ君か…。今夜? ああ構わないよ。迎えに行こうか…」 相手は明らかに女性だ。 嫉妬の炎が心を焼き尽くすのを感じながら、香穂子は暁史に集中した。 聞きたくない。 泣きたい。 だが、ここは冷静に対処しなければならないと、香穂子は思わずにはいられなかった。 ずっと別居をしていたのだから、吉羅に新しい誰かがいたとしても“しょうがない”と思わなければならないのだから。 吉羅に食事を運び、香穂子は何でもないかのように振る舞う。 そうするしか出来なかった。 「香穂子、今夜は遅くなるから、先に眠っていても構わないから」 「はい。解りました」 香穂子が頷くと、吉羅は抱き寄せてきた。 不意に抱き寄せられ、香穂子は驚いてしまう。 それは、香穂子が嫉妬しているのを知って、宥めているとしか思えなかった。 「…暁彦さん…。子供が見ていますから…」 吉羅をやんわりと宥めるように言うと、更に強く抱きすくめられた。 「…そんなことは関係ない…」 吉羅は、香穂子から離れると、じっとその瞳を見つめてきた。 「香穂子、今夜は取引先との重要な話があるからね。どうしても外せない」 香穂子には言い訳にしか聞こえなくて、何も返事をしなかった。 吉羅が出ていった後、香穂子はようやく涙を零した。 だがここで泣き過ぎるのは自分のプライドが許さないと思った。 吉羅は夫としては以前よりもかなり不誠実なのかもしれない。 出ていかなければならないと思いながらも、どうしても一歩を踏み出すことが出来ない。 愛している。 ただその枷に捕らえられて苦しんでいるのだ。 本当にそれだけだ。 吉羅と愛し合っていると感じていた時よりも、枷に捕らわれている。 吉羅を見送った後、香穂子はギュッと息子を抱き締めた。 「ママ…」 息子は香穂子の切なさを理解したのか、泣きそうな顔をして見上げてきた。 「…また、ママとふたりで暮らそうか?」 「とーしゃんもいっちょに?」 息子は既に吉羅がかけがえのない存在として認識しているようだ。 香穂子は愕然とした。 「とーしゃんもママもあきちゃんもいっちょ」 息子がギュッと抱き締めてくる。 香穂子は、暁史のことを考えると、胸が痛かった。 当然の如く、吉羅はなかなか帰っては来ない。 同じベッドで眠るのは癪に障るので、今夜は息子と一緒に眠ることにした。 息子と一緒にベッドに横たわる。 ふたりで甘い新婚生活を送っていた頃は、吉羅が遅くなっても起きて待っていた。 1日の最後のひとときは、愛する男性と一緒に過ごしたかったからだ。 だが、今は息子と一緒にわざと先に眠る。 先に眠っても、気持ちが晴れない。 こうして息子を抱き締めていてさえも気持ちは晴れないのだ。 香穂子は溜め息が零れ落ちた。 うとうとしていると、吉羅が帰ってくる音がした。 ベッドサイドにある携帯電話を見ると、まだ十二時前だった。 以前は遅くなると深夜を回るのは当然だったのに、今は違う。 驚いてしまった。 吉羅は息子が眠る部屋を素通りし、寝室へと向かったようだった。 しかし、直ぐに息子の部屋にやってきた。 ドアをそっと開けて、ベッドサイドにやってくる。 香穂子はドキドキしたままで、寝たふりをした。 吉羅は、暁史の寝顔を見に来たのだろう。 そう思っていたが、香穂子はいきなり抱き上げられてしまった。 「え…!?」 驚いて息を呑むと、素早く目を開いた。 「香穂子、起こしてしまったかね?」 吉羅はあくまで冷静沈着に言う。 「…あ、あの…」 「暁史はひとり寝を慣らせなければならないし、それに君の寝室はここじゃない。私と同じだ」 吉羅はキッパリと言うと、香穂子をそのまま寝室へと連れて行った。 「暁彦さん…私…あきちゃんと…」 「駄目だ」 吉羅はまるで駄々っ子のように言うと、香穂子をベッドに寝かせる。 「暁彦さん…」 「私がシャワーを浴びるまで待っているんだ。眠ってしまっても構わないから」 吉羅はそれだけを言うと、バスルームへと行ってしまった。 香穂子は暁史の部屋に戻ろうとしたが、なかなか踏ん切りが付かない。 ここにいたら、吉羅が抱き締めて眠ってくれるのは確実だ。それは確実に幸せだ。 だが後からの切なさが増してくる。 解っている。 どうしようもないほどに吉羅を愛しているのだ。 だからこそこうして離れられないのだ。 暫くして、吉羅が部屋に戻ってきた。 直ぐに香穂子の隣に滑り込んでくる。 寝たふりをしていても、やはり幸せな気分になるような抱擁をくれる。 抱き締められているだけで、ドキドキするのと同時に、安心してしまう。 寝たふりをしていると、いつの間にか本当に眠くなってしまった。 香穂子はそのまま眠ってしまった。 香穂子が隣で眠っている。 それだけで幸せでしょうがない。 ずっと一緒に眠れなくて、それだけで吉羅はやるせない想いを抱いていた。 本当は今夜も香穂子を愛した後に眠りたい。 今夜は先に眠ってしまったからしょうがなかった。 吉羅は、香穂子の柔らかな温もりを感じる事が、幸せのバロメーターなのだと感じた。 もう離したくない。 香穂子が離れないようにするために、吉羅はありとあらゆる手を尽くそうとしていた。 そのため、今夜は帰るのが遅くなってしまったのだ。 香穂子と息子を、二度と離す気はなかった。 「…ん…」 朝、目が覚めると、やはり吉羅が抱き締めてくれるのが嬉しい。 無防備に眠っている吉羅は、なんと綺麗だなのだろうかと香穂子は思った。 ベッドサイドにある時計を見ると、暁史が起きてくるまでにはまだ時間がある。 香穂子はそれまでの間、吉羅をじっと見つめていようと思った。 「…起きたのかね…?」 「…はい…」 香穂子が返事をすると、吉羅はギュッと抱き締めてきた。 そのまま深い唇を重ねてくる。 こんなに深いキスをされたら、吉羅が欲しくてたまらなくなってしまう。 香穂子は溺れないように踏ん張ろうとしたが、吉羅が一枚も二枚も上手だ。 「…香穂子…」 そのまま吉羅は香穂子を愛撫すると、愛の世界へと連れ去る。 甘い甘い時間だった。 こうして吉羅に抱かれると、香穂子は離れたくなくなってしまう。 吉羅と愛し合えば愛し合うほどに、自ら罠にはまっているとしか考えられない。 吉羅とは離れがたくなり、香穂子は余計に苦しんでしまうような気がした。 ベッドから出ようとすると、吉羅に抱き留められた。 「何処にいくんだ?」 吉羅は理由を言わなければ離さないといった具合だ。 香穂子は胸が痛みが滲んでくるのを感じた。 |