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吉羅は離さないとばかりに抱擁をきつくする。 香穂子は、その抱擁の強さに喘いでしまう。 「あきちゃんが起きます…」 香穂子が甘く掠れた声で言うと、吉羅は渋々ではあるが離してくれた。 「…解った…」 香穂子は吉羅を見つめながら頷いた。 「朝ご飯を作りにいきます。あきちゃんの朝の身仕度もしなければならないですから」 「解ったよ」 香穂子が手早く身支度をし終えると、吉羅は背後から抱き締めてきた。 いきなりの抱擁に驚いてしまう。 「暁彦さん?」 「香穂子、きちんと私のベッドに戻ってくれ。君は私の妻なのだからね…」 吉羅の言葉に支配欲を感じる。 自分は好き勝手なことをしているというのに、香穂子を束縛したがる。 それは香穂子にとっては切なさ以外の何も感じなかった。 ただ吉羅は香穂子を息子の母親として束縛したがっているだけだ、 ただそれだけなのだ。 香穂子は、ただ黙って吉羅から離れると、キッチンへと向かった。 茶粥と栄養がありバランスの良い食事を用意した後で、香穂子は息子を起こしにいった。 タイミング的には良かった。 服に着替えさせて、おむつを代えてやる。 トイレトレーニング中なのだ、まだおむつが必要なのだ。 香穂子はそのまま顔を洗わせるために、洗面所へと連れていった。 顔を綺麗に拭いてやる。 歯磨きはご飯を食べてからだ。 食卓に息子をつかせたタイミングで、吉羅がやってきた。 休日だからか些かラフなスタイルではあるが、それでも隙なく素晴らしい。 吉羅が席に着いて、食事を始めた。 「香穂子、休みだから、暁史を連れてドライブにでも行かないか?」 息子と温かなひと時を過ごしたいという、吉羅の気持ちが滲んでいる。 「お出かけするのは久し振りですから、喜ぶと思いますよ」 「それは良かった。皆で行こうか」 「はい」 暁史と一緒に過ごす時間は休戦だ。 香穂子は素直に応じることにした。 吉羅の車を出して、海へと向かう。 海が大好きだ。 香穂子は本当にそう思う。 いつも吉羅と海を見ていたからだろうか。 「暁彦さん…、あきちゃんも喜んでいます。有り難うございます」 声をあげて笑っている息子が可愛くて、吉羅はしっかりと抱き上げた。 「暁史」 吉羅は息子の名前を呼んでキスをする。 本当に心から息子を可愛いと思ってくれていることが嬉しかった。 息子を連れて秋の海岸を散歩する。 ただそれだけのことなのに、とても楽しい。 水族館が近くにあり、そこにも入る。 大きな魚を間近に見ては驚く暁史は、本当に可愛かった。 吉羅はその様子を幸せそうに見つめている。 本当に息子を心から愛していることを感じさせた。 吉羅の幸せな瞬間を、ひょっとして奪っていたのかもしれない。 そう考えると、香穂子は胸が痛んだ。 吉羅にも息子と幸せな時間を過ごす権利はあるし、また見守る権利はあるのだ。 香穂子がそれを奪っていたことになるのだ。 吉羅にとってはかなり辛い事を、強いていたのかもしれない。 吉羅の息子への愛情は本物だ。 香穂子が頷くほどにだ。 ならばその権利を奪ってはならないとは思う。 だが、この感情が気紛れなものであったとしたら? 香穂子はそれだけを考えると、胸が痛くてたまらなかった。 吉羅は息子を肩車して、大きな水槽を覗いている。 「とーしゃん! おしゃかなっ!」 「大きいだろう? ジンベイザメだよ」 吉羅は魚の種類を暁史に説明し、息子はそれを熱心に聞いている。 理想的なふたりだ。 誰もが微笑ましいと、暁史と吉羅の親子を見ていた。 散々遊んだからか、帰りの車の中で、暁史はすやすやと眠っていた。 「…あきちゃん、余程楽しかったようです。すやすやと眠っていますよ…。あんなにもよく笑うあきちゃんは初めてかもしれません。いつも、なかなか一緒に出かけたりしてあげることが出来ませんでしたから…。今日は有り難うございます…」 「それは良かった。これからもずっと想い出を沢山作って行こう…」 香穂子は素直に答えることが出来ない。 吉羅とはどれぐらい一緒にいられるかが解らないのだから。 やはり、手痛い経験をしてしまったせいで、香穂子は一歩を踏み出す事が出来ないのだ。 香穂子は胸が痛むのを感じる。 「…心配しなくても良いんだ…。私たちはもう離れることはないのだからね」 吉羅にいくら言われても、やはり素直ではいられない。 素直になれるチャンスは今しかないのは解ってはいるが、なかなか素直になれない自分がいた。 「暁彦さん…。今日は有り難うございました。本当に…」 「私も楽しませて貰ったからね。きみには感謝しているよ…」 吉羅は優しい声で言う。 その優しさに縋りたい。 だが、縋ることは出来ない。 縋ってしまえば、吉羅にまた依存することになってしまう。 それは余りにも苦しくて切ない。 縋ってしまえば、今度こそ立ち直れないほどの痛手を受けてしまうのではないかと、香穂子は思った。 うちに帰るタイミングで暁史が目を覚ます。 車を駐車場に入れた後で、吉羅は暁史を抱っこする。 まだ寝ぼけているようで、吉羅に甘えるように顔を擦り付けてくる。 本当になんて可愛いのだろうかと、吉羅は思う。 甘えてくる息子を、何があっても離せないと思った。 「…暁史…」 家に入ると、香穂子が直ぐに風呂の準備をしにいく。 「あきちゃん、お風呂の準備が出来たら、入ろうか」 「とーしゃんと入る…」 暁史はすっかり安心しきって吉羅に抱かれている。 態度も言葉も、吉羅にはとても嬉しかった。 「香穂子、暁史は私がお風呂に入れよう」 「有り難うございます。ではお願いします」 香穂子は、息子の髪を優しく撫でる。 「じゃあお父さんと一緒に入ってきてね」 「…うん…」 寝ぼけているのか、暁史は甘えるように言った。 香穂子が吉羅を“お父さん”と呼ぶのは初めてかもしれない。 香穂子に認められる。 それが吉羅には何よりも嬉しいことだった。 寝ぼけている暁史を、子供用の椅子にちょこんと座らせる。 姿を見ているだけで可愛い。 「たのちかった…」 まるで夢見るかのように息子は呟く。 吉羅はその姿を見ているだけで癒された。 風呂の準備が出来ると、香穂子が呼びにきてくれる。 「暁彦さん、お風呂の準備が出来ました。あきちゃんの好きな“ラバー・ダッキー”も浮かべていますけれど。 後はシャワーキャップを準備したのでそれを被せて髪を洗ってあげて下さい。耳の裏まで綺麗にお願いしますね」 さすがに母親だけあり、香穂子は色々と細かい。 吉羅はそれを神妙に頷いた。 「暁史、お風呂に入るぞ」 「はいーっ」 吉羅に抱えられて、暁史はきゃっきゃと楽しそうに笑いながら浴室に向かう。 吉羅は父親としての喜びをしっかりと噛み締めていた。 子供をお風呂に入れるのは、かなり大変だ。 しかも暁史は男の子で、本当に楽しそうに笑っている。 お風呂に入るのも、遊びのひとつだ。 「暁史、楽しいかな?」 「たのちい!」 楽しくてしょうがないのか、可愛らしく声を上げている。 躰を綺麗に洗ってやらなければならないが、それもまた楽しかった。 吉羅はいつもよりも長く入浴をした後で、暁慈と一緒にお風呂から出た。 吉羅は手早く自分の髪と躰を拭いて、息子の髪を拭く。 その間も暁史は笑っている。 タイミング良く、香穂子がノックをしてくれた。 「あきちゃんは出ましたか?」 「ああ」 「こちらに出して下さい」 香穂子の言われた通りに外に出す。 吉羅は共同作業をとても幸せに感じた。 |