*One More Chance*

16


 吉羅が綺麗なひとと一緒に仲睦まじくしていた。
 この事実は痛い。
 実際に、二年もの間、別居をしていたのだから、吉羅に愛する女性がいても当然なのだ。
 香穂子は溜め息を吐く。
 そろそろけじめをつけなければならない。
 このままだとどちつかずで、息子が可哀相なだけだ。
 それに、吉羅も。
 離婚をしたくない理由も、恐らくは暁史の存在があるのだろう。
 吉羅は本当に暁史にはよくしてくれているのだから。
 それは香穂子も有り難いと思っている。
 香穂子はトボトボと歩きながら、泣きそうになる気持ちを何とか抑えていた。
「ママー」
 暁史が心配そうにこちらを見ている。
「あきちゃん大丈夫だよ」
「うん…」
 母親の切ない気持ちを、誰よりも察してくれているのだろう。
 それはとても嬉しい。
 香穂子は息子が誰よりも、大切で生きる糧であると強く感じていた。
 家に戻る途中で、香穂子は行政の無料法律相談のポスターを見る。
 行ってみようか。
 行ってみて、暁史の親権についてきちんと相談をしなければならないと思った。

 家に帰った後は、何事もなかったかのように振る舞うよう努力をする。
 また雇って貰えるか、会社に打診をしなければならない。
 それが駄目ならば、仕事を探さなければならない。
 様々なことが、ぐるぐると目まぐるしいと、香穂子は思った。
 親権だけは、吉羅に渡せない。
 ずっとふたりで肩を寄せあって生きてきたのだから。
 総ては、別居をした時から既に始まっていたのだ。
 別居をしなければ良かったなんて、後悔をしてもしょうがない。
 誰のせいでもない。
 結局、選んだのは香穂子自身なのだから。
 食事を作り、香穂子はいつものように夕食を作る。
 いつも通りの日常だと、吉羅には思って貰わないといけない。
 ごく自然になるように、香穂子は精一杯、努力を重ねた。

 吉羅が家に帰ってくると、真っ先に暁史が父親を迎えに出る。
 短い間なのに、吉羅は暁史の心をしっかりと捕らえていた。
 親子である絆なのだろう。
 父子には母子とは違う絆があるのを、香穂子は思い知らされる。
 その絆の強さは、母親である香穂子ですら、入り込むことは許されないものだ。
 吉羅は息子を真っ先に軽々と抱き上げると、香穂子を見つめる。
 まなざしはとても優しくて、疚しいことなど何処にもないような気がした。
「おかえりなさい、暁彦さん」
「ただいま。これは君へのお土産だ」
 吉羅が差し出してくれたのは、昼間のショコラブティックの高級チョコレートの詰め合わせだった。
 数もかなり入っており、値段が張ることは直ぐに解った。
「チョコレート、美味しそうですね。有り難うございます。嬉しいです」
 一緒にいた綺麗な女性と選んだものであるのならば、胸がキリキリと痛むと感じた。
 香穂子は、今すぐ泣きそうな気分になった。
「ママ、ちょれは何?」
「チョコレートだよ」
「あきちゃんも!」
「これはママ用だ。お前にはかなり苦いからね。お前には甘いチョコレートをちゃんと買ってあるから」
 吉羅は息子にも、同じショコラブティックの箱を差し出す。
 ビターチョコレートとスウィートなチョコレート。
 吉羅が、まるで自分たちへの気持ちを表しているように、香穂子には思えた。
「今日、取引をしているひとと会食があってね、その後にここでチョコレートを買ったんだよ」
「…そうなんですか…」
 香穂子の脳裏に、昼間に見た、吉羅と女性のシルエットが蘇る。
 とても取引先のスタッフ同士の関係には見えなかった。
 本当にそうであるならば、吉羅を信じたいのに。
 だが、あの甘い雰囲気を見れば、そうではないと勘ぐってしまう。
 なんて弱い心なのだろうか。
 いちいち揺れてしまうなんて。
 香穂子はただ唇を噛み締めるしかなかった。
「じゃあご飯にしましょうか。あきちゃんもね」
「あいっ!」
 家族三人で、いつものように賑やかな食卓を囲んだ。

 暁史を寝かしつけて、吉羅との時間が始まる。
 甘くて何処か切ない時間だ。
「…香穂子、今日は余り元気がないようだが、どうしたのかね?」
 吉羅に背後から抱き締められて、香穂子はドキリとする。
 いつものように過ごせたと自分では思っていたのに、結局はそうではなかったことを思い知らされる。
 吉羅はいつも香穂子の心の動きには敏感だった。
「…大丈夫ですよ。何でもありませんから…」
 香穂子が笑顔で言ったにもかかわらず、吉羅は心配そうに抱き締めてくる。
「…香穂子…」
「何かあったら私に言いなさい。君はいつも黙ってばかりいるからね。我慢しなくても構わないんだ。最近…親戚たちが不穏な動きをしている。彼らが君に間接的に危害を加えないように、出来る限りの努力をする。だから、君は何も心配しなくても良いんだ…」
「…はい。有り難うございます…」
「あのひとたちは金にしか興味はないんだから…」
 吉羅はクールに言うと、香穂子を更に抱き寄せた。
「自分達には手に入らないものでも…あわよくば…と思っているひとたちばかりだからね…」
「はい。解っています…。それは…」
 本当に吉羅の言う通りのひとたちばかりだ。
 名門な家柄も困ることが多いのだと、改めて思う。
 そのようなしがらみなら、香穂子は必要ないとすら思った。
 抱き合いながら、吉羅は香穂子を愛してくれる。
 濃密に情熱的にしっかりと。
 それが香穂子にとっては何よりも嬉しいことだった。
 だが切なさは消えない。
 吉羅を信じたい。
 だが、脳裏に浮かぶのは女性との姿だ。
 香穂子は、この先も出来ることなら三人で一緒にいたいとは思う。
 だが、それがかなり高いハードルであることも感じていた。

 翌朝、吉羅を見送った後、香穂子は近くのショッピングモールの特設コーナーに出掛けた。
 ここでは市民の法律相談を月一回行なっているのだ。
 香穂子は親権について訊くことにした。
 名前は、旧姓で通すことにする。一瞬、先日、吉羅と一緒にいた女性を見掛けたような気がした。
「あ…」
「番号札3番の方」
「はい」
 香穂子は呼ばれて、慌てて相談スペースへと向かった。
 そこには、まさに吉羅と一緒にいたあの美しい女性がいた。
 緊張する余りに、どうして良いかは解らない。
「…どうぞ、お座り下さいね。お名前は匿名に致します。用件を」
 相手は香穂子のことを全く知らないらしい。
 こんなことを相談して良いのかと、迷うばかりだ。
「…あの、一般的なご意見を聞きたいのです。…この子は一歳と少しなんですが…、別居している夫と…、もし親権争いをした場合は…どうなりますか? 相手はかなり財力があります…」
 香穂子は声を僅かに震わせながら言う。
「結果だけ言えば、親権はあなたに相当有利です。子供が小学生に満たない場合、母親が親権を望めば、認められるケースが殆どです。特にあなたは別居しながら子育てをされています。仕事があればほぼ間違いありませんよ」
「…そうですか…」
 香穂子はホッとするのと同時に、何だか切なくて苦しくなった。
 吉羅はこのことを知っていたからこそ、香穂子にそばにいるように言ったのだろうか。
 それならば、やはり息子が欲しいということになるのではないか。
 吉羅のような男ならばそれぐらいは解っていれだろうと、香穂子は思わずにはいられなかった。



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