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吉羅が綺麗なひとと一緒に仲睦まじくしていた。 この事実は痛い。 実際に、二年もの間、別居をしていたのだから、吉羅に愛する女性がいても当然なのだ。 香穂子は溜め息を吐く。 そろそろけじめをつけなければならない。 このままだとどちつかずで、息子が可哀相なだけだ。 それに、吉羅も。 離婚をしたくない理由も、恐らくは暁史の存在があるのだろう。 吉羅は本当に暁史にはよくしてくれているのだから。 それは香穂子も有り難いと思っている。 香穂子はトボトボと歩きながら、泣きそうになる気持ちを何とか抑えていた。 「ママー」 暁史が心配そうにこちらを見ている。 「あきちゃん大丈夫だよ」 「うん…」 母親の切ない気持ちを、誰よりも察してくれているのだろう。 それはとても嬉しい。 香穂子は息子が誰よりも、大切で生きる糧であると強く感じていた。 家に戻る途中で、香穂子は行政の無料法律相談のポスターを見る。 行ってみようか。 行ってみて、暁史の親権についてきちんと相談をしなければならないと思った。 家に帰った後は、何事もなかったかのように振る舞うよう努力をする。 また雇って貰えるか、会社に打診をしなければならない。 それが駄目ならば、仕事を探さなければならない。 様々なことが、ぐるぐると目まぐるしいと、香穂子は思った。 親権だけは、吉羅に渡せない。 ずっとふたりで肩を寄せあって生きてきたのだから。 総ては、別居をした時から既に始まっていたのだ。 別居をしなければ良かったなんて、後悔をしてもしょうがない。 誰のせいでもない。 結局、選んだのは香穂子自身なのだから。 食事を作り、香穂子はいつものように夕食を作る。 いつも通りの日常だと、吉羅には思って貰わないといけない。 ごく自然になるように、香穂子は精一杯、努力を重ねた。 吉羅が家に帰ってくると、真っ先に暁史が父親を迎えに出る。 短い間なのに、吉羅は暁史の心をしっかりと捕らえていた。 親子である絆なのだろう。 父子には母子とは違う絆があるのを、香穂子は思い知らされる。 その絆の強さは、母親である香穂子ですら、入り込むことは許されないものだ。 吉羅は息子を真っ先に軽々と抱き上げると、香穂子を見つめる。 まなざしはとても優しくて、疚しいことなど何処にもないような気がした。 「おかえりなさい、暁彦さん」 「ただいま。これは君へのお土産だ」 吉羅が差し出してくれたのは、昼間のショコラブティックの高級チョコレートの詰め合わせだった。 数もかなり入っており、値段が張ることは直ぐに解った。 「チョコレート、美味しそうですね。有り難うございます。嬉しいです」 一緒にいた綺麗な女性と選んだものであるのならば、胸がキリキリと痛むと感じた。 香穂子は、今すぐ泣きそうな気分になった。 「ママ、ちょれは何?」 「チョコレートだよ」 「あきちゃんも!」 「これはママ用だ。お前にはかなり苦いからね。お前には甘いチョコレートをちゃんと買ってあるから」 吉羅は息子にも、同じショコラブティックの箱を差し出す。 ビターチョコレートとスウィートなチョコレート。 吉羅が、まるで自分たちへの気持ちを表しているように、香穂子には思えた。 「今日、取引をしているひとと会食があってね、その後にここでチョコレートを買ったんだよ」 「…そうなんですか…」 香穂子の脳裏に、昼間に見た、吉羅と女性のシルエットが蘇る。 とても取引先のスタッフ同士の関係には見えなかった。 本当にそうであるならば、吉羅を信じたいのに。 だが、あの甘い雰囲気を見れば、そうではないと勘ぐってしまう。 なんて弱い心なのだろうか。 いちいち揺れてしまうなんて。 香穂子はただ唇を噛み締めるしかなかった。 「じゃあご飯にしましょうか。あきちゃんもね」 「あいっ!」 家族三人で、いつものように賑やかな食卓を囲んだ。 暁史を寝かしつけて、吉羅との時間が始まる。 甘くて何処か切ない時間だ。 「…香穂子、今日は余り元気がないようだが、どうしたのかね?」 吉羅に背後から抱き締められて、香穂子はドキリとする。 いつものように過ごせたと自分では思っていたのに、結局はそうではなかったことを思い知らされる。 吉羅はいつも香穂子の心の動きには敏感だった。 「…大丈夫ですよ。何でもありませんから…」 香穂子が笑顔で言ったにもかかわらず、吉羅は心配そうに抱き締めてくる。 「…香穂子…」 「何かあったら私に言いなさい。君はいつも黙ってばかりいるからね。我慢しなくても構わないんだ。最近…親戚たちが不穏な動きをしている。彼らが君に間接的に危害を加えないように、出来る限りの努力をする。だから、君は何も心配しなくても良いんだ…」 「…はい。有り難うございます…」 「あのひとたちは金にしか興味はないんだから…」 吉羅はクールに言うと、香穂子を更に抱き寄せた。 「自分達には手に入らないものでも…あわよくば…と思っているひとたちばかりだからね…」 「はい。解っています…。それは…」 本当に吉羅の言う通りのひとたちばかりだ。 名門な家柄も困ることが多いのだと、改めて思う。 そのようなしがらみなら、香穂子は必要ないとすら思った。 抱き合いながら、吉羅は香穂子を愛してくれる。 濃密に情熱的にしっかりと。 それが香穂子にとっては何よりも嬉しいことだった。 だが切なさは消えない。 吉羅を信じたい。 だが、脳裏に浮かぶのは女性との姿だ。 香穂子は、この先も出来ることなら三人で一緒にいたいとは思う。 だが、それがかなり高いハードルであることも感じていた。 翌朝、吉羅を見送った後、香穂子は近くのショッピングモールの特設コーナーに出掛けた。 ここでは市民の法律相談を月一回行なっているのだ。 香穂子は親権について訊くことにした。 名前は、旧姓で通すことにする。一瞬、先日、吉羅と一緒にいた女性を見掛けたような気がした。 「あ…」 「番号札3番の方」 「はい」 香穂子は呼ばれて、慌てて相談スペースへと向かった。 そこには、まさに吉羅と一緒にいたあの美しい女性がいた。 緊張する余りに、どうして良いかは解らない。 「…どうぞ、お座り下さいね。お名前は匿名に致します。用件を」 相手は香穂子のことを全く知らないらしい。 こんなことを相談して良いのかと、迷うばかりだ。 「…あの、一般的なご意見を聞きたいのです。…この子は一歳と少しなんですが…、別居している夫と…、もし親権争いをした場合は…どうなりますか? 相手はかなり財力があります…」 香穂子は声を僅かに震わせながら言う。 「結果だけ言えば、親権はあなたに相当有利です。子供が小学生に満たない場合、母親が親権を望めば、認められるケースが殆どです。特にあなたは別居しながら子育てをされています。仕事があればほぼ間違いありませんよ」 「…そうですか…」 香穂子はホッとするのと同時に、何だか切なくて苦しくなった。 吉羅はこのことを知っていたからこそ、香穂子にそばにいるように言ったのだろうか。 それならば、やはり息子が欲しいということになるのではないか。 吉羅のような男ならばそれぐらいは解っていれだろうと、香穂子は思わずにはいられなかった。 |