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市民相談を終えた後、香穂子はひどく溜め息を吐いた。 こんなにも苦しい感情は他にはないのではないかと思う。 吉羅が自分のことを欲してはくれていないような気がする。 吉羅が求めているのは、他の女性なのだ。 そして暁史だけだ。 そう考えると、苦しくてたまらなかった。 吉羅とは、やはり一緒になって幸せにはなれないのだろうか。 それを考えると、また苦しい。 香穂子はいつも通りに家に戻ると、前向きにがんばるふりをしなければならないと思った。 吉羅は、最近、香穂子がまた出て行くのではないかと、気になってしかたがなかった。 吉羅は、どうしても香穂子にはそばにいて欲しいと思っている。 だが、その想いは全くといって良いほどに届いてはいない。 自らの過ちとはいえ、何とか香穂子をつなぎ止めたかった。 息子が欲しいという理由なんかじゃない。 純粋に香穂子が欲しいだけだ。 本当にただそれだけの理由だった。 吉羅は、香穂子をどんなことをしてもつなぎ止めたいと思っていた。 「おかえりなさい」 家に戻ると、香穂子と暁史がいる。 こんなにも幸せなことはないと、自分でも解っている。 だからこそ、愛する香穂子をつなぎ止めるためにも、きちんと話し合いをしなければならないと感じていた。 いつものように食事を終えて、吉羅は息子とお風呂に入る。 「とーしゃん、こないだとーしゃんをママと見た」 「何処で?」 「おちゃんぽの時。ママ元気なくなった…」 暁史がお風呂に入りながら、今にも泣きそうな顔をしている。 吉羅は思わず息子を抱き寄せた。 「…それは本当かね?」 「ほんちょう。とーしゃんがチョコくえた時」 吉羅は、香穂子が何処で自分を見たか、直ぐに解った。 恐らくは弁護士と話していた時だろう。 吉羅グループの顧問弁護士事務所に、香穂子を守るための顧問弁護士依頼を要請した時だろう。 たまたまふたりで、チョコレートブティックに立ち寄り、愛するひとのためにそれぞれチョコレートを買い求めた時だ。 「有り難う、暁史…。お父さんがママを笑顔にするよ…」 「あい」 吉羅は、今夜は香穂子にきちんと話をしなければならないと思った。 暁史を寝かせた後、香穂子は吉羅に誘われて、夜のティータイムをすることになった。 といっても、本当に紅茶を飲むだけなのだが。 吉羅は、香穂子を真っ直ぐ誠実に見つめてくれる。 それが嬉しかった。 「…香穂子、君に話しておかなければならないね…」 吉羅は何を話すというのだろうか。 香穂子はドキドキしてしょうがない。 何かあるのだろうか。 「…君に、君だけをサポートしてくれる弁護士を用意した。親戚に何かを言われても対応が出来るように…」 吉羅はそう言うと、名刺をそっと差し出してきた。 名刺を見てハッとする。 そこには、今日、法律相談に乗ってくれた弁護士の名前があった。 「こちらの方はきみには尽力してくれるから安心して構わない。何かあれば相談をしなさい」 「有り難うございます、暁彦さん…」 浮気相手ではない。香穂子はそう信じたい。 「…私…、こうして暁彦さんが全面に協力して下さるのをとても嬉しく思っています」 香穂子は素直に感謝を表す。 以前に比べてかなり協力的なっていると思うからだ。 「…私は…君を二度と放したくはない。ただそれだけだ」 吉羅は静かに言うと、まるで迷子の子供のようなまなざしを宙に向けた。 「…君がいなくなって後悔した…。私は…、君を取り戻そうと、色々と画策しようとしたが、意地があってね…。今、思えば、全くくだらない感情だと思っているよ。あんなに苦々しい想いは他にはなかったからね…」 吉羅は不快そうに唇を歪めると。香穂子の手を取った。 「親戚には…、弁護士を通じて…、君に様々な妨害をしないように警告をしている…。これ以上何かをするならば、刑事告訴も検討すると」 吉羅の力強い言葉に、香穂子は驚く。 吉羅暁彦のことだ。 こうと決めてしまえば誰が何を言おうと実行するのだ。 香穂子との結婚もそうだったのだから。 「暁彦さん、有り難うございます。そこまでして頂いたことを感謝しています」 「君にはいらない気苦労をかけているからね。当然のことだ」 吉羅は静かに言うと、香穂子を抱き寄せてきた。 「暁彦さん…」 「もう…何処にも行かないでくれ…。君が私が嫌だというのなら…」 吉羅の声は切なさに揺れ動いている。 香穂子もまた泣きそうな気分になった。 「…そんなことはありません…。あなたを嫌いになるなんて…、出来なかった…」 「…香穂子…」 吉羅は更に強く抱き締めてくる。 香穂子はその抱擁に身を任せながら、ずっとこのままでいられたら良いのにと思った。 翌日、仕事中に、今度は叔父から電話が入る。 吉羅はやれやれと思う。 余りに度が過ぎれば本当に告訴をしなければならないだろう。 「なんですが?」 「君の奥さんのことだがね…、市民相談で、どうも親権について訊いていたようだよ…。直接、弁護士に訊いたわけではないが、私の知り合いがスタッフにいてね。質問状にそのようなことを書いていたようだよ」 吉羅はまただと思った。 このひとたちは、もうどうしようもないと。 その存在が、香穂子を苦しめていて、このような選択を取ろうとしたことを解ってはいない。 しかも吉羅がそれをきみんと理解をしているということも。 全く救いようがない。 吉羅は本当に恥ずかしくなった。 このような人々と血が繋がっているなんて、信じられない。 本当に利益至上主義だ。 「それだけですか?」 「え…?」 「それだけなら、電話を切ります」 吉羅は冷たく言い放つと、電話を切った。 香穂子をそこまで追い詰めていたのは自分にも原因があるとは、吉羅も思ってはいる。 だからこそ、今度はそんな想いをさせたくはなかった。 香穂子をもう二度と離したくない。 吉羅にはそれしかない。 息子も可愛いが、やはり香穂子が一番だ。 離れていたからこそ気付いた愛の深さなのだ。 香穂子と離れてみて、ようやくかけがえのない女性であったことに気が付いた。 吉羅にとっては運命の女性であることに、ようやく気付くことが出来たのだ。 そう思えば、吉羅は、この別居は無意味なものではなかったとは思う。 本当に大切なものを気付かせてくれたのだから。 吉羅は、もうどのような妨害にも屈しないと思う。 香穂子を冷たく責めた時は、愛しくて周りなどが全く見えてはいなかった。 だが今は違う。 香穂子を守るために、周りは見えていると思う。 周りの悪意から、香穂子を息子を、かけがえのない家族を守らなければならないと、吉羅は思っていた。 吉羅は家に帰る。 ここは何処よりもオアシスだと思う。 温かくてずっといたい場所だ。 ここを守るために、吉羅は外に向かって闘うのだ。 吉羅は息子を抱き上げた後、香穂子に微笑みかけた。 もう香穂子以外はいらない。 本当に心からそう思う。 香穂子がいれば、本当に何も必要がない。 満たされた気分になるのだ。 「香穂子、今夜はデザートを買ってきた。みんなで食べよう」 「有り難うございます。嬉しいです。暁彦さん、本当に有り難うございます。あきちゃんも喜びます」 香穂子が微笑んでくれる。 この笑顔を守るためなら何でもしようと思った。 |