*One More Chance*

7


 吉羅は、香穂子が子供が出来難い躰であるということを怒ったのではなく、むしろ隠していたことが我慢出来なかったのだ。
「愛し合っている夫婦の間には隠し事などはいらないと、私は思っているからね…」
「暁彦さん…」
 確かに吉羅の言うことには一理ある。
 香穂子は素直に伝えておけば良いと臍を噛んだ。
 だがあの時は、吉羅に怒られたり嫌われたりするのが怖くて言い出せなかったのだ。
「香穂子…、私たちは…再び元の夫婦に戻れば良い。暁史を一人っ子にはしたくないからね。君もそのつもりでいてくれ」
 夫婦であるから。
 少なくとも香穂子は今も吉羅を愛している。
 だからこそ、複雑な気分になるのだ。
 吉羅の子供をまた産みたいかと言われたら、恐らくは産みたいと答えてしまうだろう。
 吉羅の子供を産んでからは、苦労も多かったが、それ以上に喜びも大きかった。
「…私は形だけの夫婦になる気はさらさらない」
 吉羅はキッパリと言い切る。
 香穂子には嬉しいのか困るのかが、全く分からなかった。
 躰で愛し合ったとしても、何も疚しいことなんかない。
 夫婦なのだから当然だとも言える。
 だが、香穂子はそこまでなかなか踏み切れない自分がいることは解っていた。
 吉羅と離婚前提で暮らしてきたからか、心に鉄壁が出来てしまった。
「今日から君は元通りに私の妻だ。それを忘れないで欲しい」
「…はい…」
 香穂子は吉羅に引き込まれるように、つい返事をしてしまう。
「君は今日からここで暮らすんだ。仕事も辞めて貰うからそのつもりで。息子には、いつでも母親にそばにいて欲しいからね。それが私の願いだ」
「…はい…、解りました…」
 確かにそのほうが良いとは香穂子も思う。
 いつも暁史のそばにいたいと、香穂子は思っていたからだ。
「確かに、あきちゃんのそばにいたいと思いますし、あきちゃんにはまだ母親が必要だと思います」
「今日からうちを守ってくれるね?」
 吉羅の口調はとても優しいものであったが、香穂子には切なく響いた。
 吉羅はあくまでビジネスライクだ。
 かつて吉羅と激しく愛し合っていた頃の、蜂蜜のようにとろけそうな優しさは、何処にも見られなかった。
「今夜は、君は暁史と眠りなさい。疲れているだろうからね。だが、明日からは一緒に眠って貰うから」
 吉羅の言葉に、香穂子は躰が熱くなるのを感じた。

 翌日の夕方、再び一緒に暮らすようになったお祝いだと、吉羅がレストランへと連れて行ってくれた。
 香穂子はそれが密かに嬉しかった。
 こうしてきちんと対応してくれるのが嬉しかった。
「暁史は何が好きなのかね?」
「ハンバーグと何故か大根の煮物が好きなんです。どうしてかは、解らないんですけれど」
 香穂子が苦笑いを浮かべると、吉羅もまたフッと笑った。
「大根の煮物ね…。明日にでも作ってくれないかね?」
「そうですね。作りますね」
「ああ。暁史が気に入っているものは、食べてみたいからね。父親としてね」
「解りました。あきちゃんの好みに味つけておきますね」
「有り難う」
 吉羅は、ハンバーグが大好きな暁史の為に、高級ハンバーグが食べられる専門店へと連れて行ってくれた。
「バーグッ!」
「ハンバーグね。食べようか、いっぱい」
 暁史は嬉しそうに、スプーンを手に持ってご機嫌にもリズムを取っていた。
 その様子を吉羅は目を細めて見ている。
 香穂子はそれが嬉しかった。
「あきちゃん、ハンバーグを食べようね。だけどお野菜も食べないといけないからね」
 香穂子は、暁史がハンバーグを食べ易いように、つぶしたりして食べさせる。野菜も火が通った柔らかいものだけを食べさせた。
「香穂子、君は良い母親なんだね…。改めて思ったよ…」
「有り難うございます」
 そんなにも良い母親だとはなかなか思えないが、今はこうして一生懸命大切に息子を育てていた。
 吉羅に、きちんとした母親だと認められるのが、香穂子には嬉しいことだった。
 こうしていると、夢見ていた幸せが手に入ったような気分になる。
 ずっと吉羅と再び一緒になることを、香穂子は望んでいた。

 吉羅は本当に優しい愛に溢れた香穂子を見つめながら、幸せが湧き上がってくるのを感じた。
 香穂子は本当に素晴らしい母親だと、吉羅は思わずにはいられない。
 ここまで素直に息子を育ててくれたことを、吉羅は感謝する以外にはなかった。
 香穂子が自分の妻であることが、こんなに幸せだなんて、思ってもみないことだった。
 そばにいること。
 妻であることが当たり前だと思っていたのかもしれない。
 香穂子が妻でいてくれることは、本当は奇蹟なのかもしれないと、思わずにはいられなかった。

 食事を済ませて、三人で家に戻った。
 暁史は相当興奮していて、よく笑っている。
 一緒にお風呂に入って、息子を綺麗にした後、香穂子は手早く自分を綺麗にする。
 昔は長風呂であったのに、今は手早く入るのが慣れてしまった。
「あきちゃん、待っていてね」
「あい」
 息子に事故が起こらないように目を配りながら入浴をした。
 お風呂から上がり、自分の支度と息子の寝る支度をしてから寝室に戻る。
 毎日が戦争だった。
 吉羅が入浴している間に、香穂子は、息子に湯上りの麦茶を飲ませて、ベッドに寝かせた。
 香穂子は、息子にいつものようにお気に入りの絵本を読んでやる。
 今日は“だるまと雷”の子供が仲良くなる話だ。
 息子は何度もこの話を聴いているのに、いつもいつもねだった。
 余程気に入っているのだろう。
 香穂子が絵本を読んでいると、官能的な雰囲気を感じた。
 振り返ると、そこには吉羅が立っている。
 優しいまなざしで、香穂子と息子を眺めていた。
「…吉羅さん…」
「君は本当に良い母親なんだね…」
 吉羅はしみじみと呟くと、ベッドで眠る息子を覗き込んだ。
「本当に安心して眠っているね…。君のことを信頼しきっている」
「ふたりでずっと頑張ってきましたから」
 香穂子の言葉に、吉羅は僅かに唇を歪める。
「…確かに…君の言う通り…なのかもしれないね…」
 吉羅はそこまで言った後で、香穂子に向き直る。
「だが、これからはずっと一緒だ。当面は三人でそれ以降は増えた家族の分も力を合わせて頑張っていけば良いから」
 上手く返事をすることが出来ない。
 硬くなった心を解きほぐすには、なかなか難しいのだということを、香穂子は身を持って知った。
 香穂子は絵本を閉じた後、息子の頬を撫でる。
「おやすみ、あきちゃん」
 香穂子は息子を見た後の優しい瞳とはうって変わって、厳しいまなざしを向けた。
「…吉羅さん、私もここで眠ります。今日は疲れてしまいました。おやすみなさい…」
 香穂子は小さな暁史のベッドに潜り込もうとした。
 だが、吉羅に腕を掴まれてしまう。
「…私たちは今日から以前と同じように“夫婦”に戻ったんだ。君が眠るべき場所は、私の寝室…、いや…、私たちの寝室だ…」
「あ、あの…、そ、それは…」
 自信が無い。
 緊張し過ぎる余りに、香穂子は胸が痛くなる。
 以前と同じように、吉羅を引きつけておく自信がないのだ。
 吉羅は子供を産んだ後の自分にがっかりするのではないか。
 そんなことばかりを考えてしまう。
 考えてもしょうがないのに。
「君は私の妻だ。妻として、果たして貰いたいことは山程ある」
 吉羅は厳しく言うと、香穂子を軽々と抱き上げてくる。
 甘い鼓動に胸が潰されてしまいそうになる。
 吉羅はそのまま子供部屋を出て寝室へと向かう。
 そこに待っている甘い行為を、香穂子を思い出さずにはいられなかった。



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