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香穂子を行かせたくはない。 香穂子を自分の世界から消したくはない。 だがそうすれば、確実に香穂子のキャリアを潰してしまうことになるのだ。 それ自体は苦しくてしょうがないことだった。 吉羅は、恋する普通の男である自分の部分と、香穂子を将来有望なヴァイオリニスト大切に想う部分の せめぎあいに苦しんだ。 吉羅は香穂子を牽制するように見つめる。 「…それで君は、留学をしたらどうしようと思っているのだね…?」 「一流のヴァイオリン講師に着いて、自分の技をしっかりと磨いて行こうと思っています。日本じゃやっぱり限界がありますから…」 香穂子は何処か寂しそうなまなざしを向けてくる。 こうして瞳だけを見ていると、まるで留学に乗り気ではないように見えた。 「…確かにクラシックを日本で勉強するのは限界がある…。そういう環境ではないからね…」 「はい。ですから、海外で頑張らないといけないなあって思っているんですよ」 香穂子は夢を語っているのに笑顔がとても寂しい。 何か気になることがあるのではないかと思ってしまう。 「…まあ、財団の試験に合格してからの事なんですけれどね。かなりの競争率であることは解っていますから」 香穂子は複雑な笑みを浮かべると、食事を始めた。 吉羅はその様子をじっと見つめる。 どうしてそんなにも切ない顔をしているのだろうか。 このまま抱き締めてやりたいと思わずにはいられない。 堂々と「そばから離れるな」と、言える立場であれば良かったのに、今はそうは言えない。 吉羅もまた、複雑な想いに囚われていた。 留学なんて本当はしたくはない。 吉羅のそばにいて音楽を勉強したい。 だがそれは赦されないこと。 そして何よりも辛いことなのだと、香穂子は思う。 吉羅が結婚をして幸せに微笑む様子を見なければならないから。 香穂子は、今はまだそれを見つめることは出来なかった。 だからこそ留学選考を受けようと思っていた。 逃げる。 確かにそうかもしれない。 だが、今はそれが最善の方法に思えてならなかった。 香穂子は、吉羅に対して複雑な気持ちを表すような笑みを浮かべながら食事を続ける。 どうして良いのか、本当に分からなかった。 ただ、自分がどうしたいのかは、一番解っているつもりだ。 吉羅のそばでヴァイオリンを弾いていたい。 ただ、それだけだった。 食事を終えても離れられなくて、ふたりはぶらぶらと歩く。 夜風を浴びて、ふたりで夜空を見て、並んで歩くだけで楽しかった。 幸せが心を満たす。 「今夜のお月様は半分こですね」 「そうだね。だが美しい」 「そうですね…。今夜は一段と美しく見えます」 香穂子がにんまりと笑うと、吉羅もまたフッと落ち着いた笑みを浮かべてくれる。それが嬉しくてしょうがなかった。 吉羅の微笑みを見ているだけでドキドキして、何だか雲の上を歩いている気分になる。 幸せでふわふわとした感覚だった。 そのせいかステップすら出てしまう。 とっておきのステップだ。 「吉羅さんとこうして歩けるだけで楽しいです」 香穂子はふわりとステップを刻んだ瞬間、段差に足を取られてしまう。 「あっ…!」 このまま躓いてしまうかと思ったが、吉羅に上手く抱き抱えられた。 「…大丈夫かね…!?」 「だ、大丈夫…です…」 吉羅と視線が絡み合う。 こんなに艶のある瞳で見つめられたら、香穂子は蕩けてしまいそうになる。 吉羅の瞳に魅入られてしまい、香穂子は動けなくなってしまった。 「…吉羅さん…」 名前を呼ぶと、吉羅の唇が近付いて来る。 抵抗なんて出来なかった。 いや、最初から抵抗する気なんてなかった。 唇がしっとりと触れられる。 月の光に見守られて、二回目のキスを受ける。 最初も、二度目も、月の光に照らされたキス。 月と自分達しか知らない秘めたキス。 秘められた日影の恋には相応しいのかもしれない。 口付けの後、吉羅に柔らかく抱き締められた。 そこには苦悩しかないことは、香穂子には充分過ぎるほどに解っている。 だがこうして抱き締められていたかった。 吉羅の男らしいトワレの香りに、官能が刺激されているようだった。 吉羅は静かに香穂子から抱擁を解く。 その瞳は苦しげで、見つめられるだけで切ない。 泣きそうになった。 「…吉羅さん…」 「君にこうする資格はないのは解っている…。だが、この気持ちを止められないんだ…」 「…吉羅さん…」 吉羅もまた苦しんでいる。 香穂子はその事実を知る事で、嬉しくも更には苦しくもなる。 こんなにも幸せで痛い感情は他にないのかもしれなかった。 吉羅は香穂子の手をそっと握り締めると、そのままゆっくりと歩き始める。 「…君とはまた逢いたいと思っている…」 「私も逢いたいです…。だけど…」 こんな禁忌な関係に足を踏み入れてしまうのは危険なのではないかと、香穂子は本能で思う。 なのに止めることができないなんて。 こんなに苦しい恋は他にないと感じた。 だが、この恋を大切に守っていきたいとも思う。 それが矛盾するところだ。 「…君にまた連絡をさせて欲しい」 「…はい、待っています」 「私はこのままでは終わりたくないんだよ…」 「私もです」 解っている。お互いに我が儘過ぎる恋であることも。だが人間は感情で生きている部分が多いから、結局は逆らうことなんて出来ない。 「待っていてくれないか。君を傷つけないで済む方法を考えたいんだ」 「はい」 抱き締められて香穂子は思う。 今は吉羅を信じるしかなかった。 翌日、吉羅は弁護士と面会をし、婚約解消に向かって前に進む事にした。 「…吉羅さんからの解消となると、多額の慰謝料払わなければならなくなりますね…。非があなた側にあるのならば尚更…」 「非は私のほうにあると言っても良い。婚約者側には落ち度はない…。今のところは…」 婚約破棄の仲介を頼んでいる以上は弁護士には真実を話さなければならない。 吉羅は包み隠さずに話す。 「…彼女と婚約をした時は…、もう私には心から愛する相手は現われないと思った。彼女と家族を作るのは悪くないと思ったんだよ…」 吉羅は婚約した当時のことを思い出し、唇を歪める。 本当にあの時は、誰も現われないと思っていたのだ。 だが出会ってしまった。 日野香穂子に。 心から恋をしてしまう相手に、出会ってしまったのだ。 「…解りました…。あなたの気持ちは正直なところなのでしょう…。あちらの状況も調べてはおきます。その上で、婚約破棄についてどのような手続きを踏むかを考えます」 「有り難うございます」 こんなにも酷い婚約者はいないのではないかと、吉羅は自分自身で思わずにはいられなかった。 「…あなたの場合は、会社の結び付きの為に結婚を決められた。ある意味これは、ビジネス婚ですから、通常の婚約破棄とは少しばかり違ってくるかもしれませ。ですがベストを尽くしましょう。婚約者とあなたは友人の枠には入っていても、それだけの関係ですから、そこも強みになるかと思います」 「お願いします」 吉羅が丁寧に頭を下げると、弁護士は頷く。 「お互いに傷付き合うこともなく、スマートに解消が出来るように頑張ります」 「有り難うございます」 ビジネスだけの結婚を壊すのは、厳しいのかもしれない。 だが、香穂子と自由に恋をするために、必ず乗り越えてみせると、心の中で強く思った。 |