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香穂子を堂々と愛したい。 たとえそれが報われなくても、自由に香穂子を愛することが出来るだけでも幸せだと思った。 吉羅は弁護士事務所から出て、地下駐車場へと向かう。 ふと婚約者の姿を視界に認めた。 彼女は、吉羅には決して見せることはない柔らかな笑みを湛えながら、大学を出たばかりのような若い男 と手を繋いで歩いているのが見えた。 いつものような年相応とも思える大人の女のスタイルではなく、相手の男性に合わせたような柔らかで“女の子”と言えるようなスタイル。 それが彼女の本来の雰囲気ではないかと吉羅は思う。 吉羅と一緒にいる時よりも、はるかに好ましいと感じた。 ふと思う。 ひょっとすると彼女もまた、この結婚を好ましく思ってはいないのではないだろうか。 今時、会社の結付きを、家の結付きを重視するような結婚なんてナンセンスだ。 吉羅は、婚約者にも迷惑をかけているのではないかと、思わずにはいられなかった。 誰のためにもなりはしない。 こんな結婚は。 利益があるとするならば、彼女の父親ぐらいだ。 吉羅は、婚約者が人生を謳歌するような笑顔を浮かべているのを見つめながら、この結婚が意味がないことを悟った。 ふたりで逢った時に、お互いに話し合う事が必要なのかもしれない。 話し合った上で、この結婚を良い方向で解消するようにしなければならないと、吉羅は思った。 銀座近くに差し掛かった時、何処にでもあるカフェで香穂子の姿を捕らえる。 本屋でも見掛けた同世代の男と一緒だ。 音楽財団を運営している手前、吉羅は直ぐに誰かを認識出来た。 最近、指揮部門で頭角を顕してきている男だ。 今回の財団の教育プログラムの有力候補のひとりだ。 吉羅は珍しく唇を噛み締めると、躰の奥底から嫉妬が湧き出るのを感じた。 大型のクラシック音楽専門の楽器店からの帰り、香穂子は同期生である土浦と一緒にカフェに立ち寄った。 甘いケーキと紅茶を注文した後、つい笑顔になる。 「ここの紅茶もケーキも大好きなんだよねー」 「確かに美味いよな」 注文の品物が来て、香穂子は満面の笑みを浮かべた。 土浦も笑みを返してくれたが、不意に思い詰めたような表情になる。 「…なあ、お前…さ…、付き合っているヤツ…いるのかよ…?」 「付き合っているひと…?」 不意に吉羅の顔を思い浮かべてしまい、香穂子は痛くなる。 吉羅とは付き合ってはいない。 一方的に好きなだけだ。 何度か交わした甘いキスも、恐らくは吉羅の気まぐれだ。 付き合うなんてことは出来ない。 相手には婚約者がいるのだから。 なのに吉羅の他に付き合いたいと思えない自分が、嫌で嫌でしょうがなかった。 「…付き合っているひとがいると良かったんだけれどね…」 香穂子は苦笑いを浮かべると、ふと視線を下げた。 吉羅のことばかりを考えてしまう自分が、嫌で嫌でしょうがなかった。 「…財団の理事長かよ? あんな男を好きになるのは止めてしまえよ…! アイツは結婚しちまうんだぜ!? お前を苦しめるだけじゃないか! 俺なら、お前を苦しめるようなことはしない! だから…俺にしておけよ…」 土浦は吉羅について嫌悪感露にすると、香穂子を熱いまなざしで見つめてくる。 土浦のことは好きだ。だが異性としてではない。 異性として心から愛しているのは、吉羅暁彦だけだ。 彼以上に愛せる男はいないと香穂子は感じずにはいられない。 申し出はとても有り難いとは思うが、それ以上は何も思えなかった。 「…有り難う、土浦君…だけど…私…」 香穂子は土浦をまともに見る事が出来ない。 こんなにも重苦しい感情を抱くことになるとはー思ってもみなかった。 後ろめたい。 香穂子の恋は決して赦される類のものではないから。 香穂子は諦めるように溜め息を吐くと、泣きそうになりながら土浦を見た。 「日野君、君もこんなところにいたのかね」 大好きで堪らない声が聞こえて、香穂子は思わず顔を上げた。 そこには吉羅が立っている。 なんてタイミングでここに現われるのかと思ってしまう。 吉羅の姿を視界に認めるなり、土浦のまなざしが厳しくなった。 「…あんた、日野のことをどう思っているんだよ…!?」 土浦は厳しい声で呟くと、吉羅を睨み付ける。 「…ちょっと、土浦くん…!」 香穂子は焦りながら、土浦を制した。 吉羅は、香穂子のことをただのヴァイオリニストとしてしか思ってはいない。 それは分かりきったことだ。 だからこそ厳しいのだ。 土浦の言う事を、吉羅は軽く受け流すと思っていた。 だが、吉羅は、それを受け取るように、土浦を冷徹な敵視するようなまなざしで見つめる。 「…大切なひとだと思っているよ」 吉羅はキッパリと言い切ると、土浦を敵対するように見る。 嬉しい言葉なのに、何処か切なくなってしまう。 香穂子はふたりの様子をオロオロとして見るしかなかった。 「あんたは日野の傷つけるだけだ。結婚が決っているのに、どうして日野にちょっかいを出すんだよ…! あんたにはそんな資格はない筈だ…!」 土浦の苦々しい声に、香穂子は落ち着けない。 どうなってしまうのだろうかと思った矢先に、不意に吉羅に手を取られる。 手首を思い切り握り締められて、香穂子は息を呑んだ。 「行こう」 吉羅はそれだけを言うと、香穂子を強引に立ち上がらせる。 テーブルの上に、香穂子のケーキセットの料金を置くと、そのまま吉羅はカフェの入口に向かう。 「吉羅さん…っ!」 吉羅が何を考えているのかがさっぱり分からなくて、香穂子は不安になる。 土浦は、吉羅の余りにもの強引なやり方に、直ぐには対応出来ないとばかりに唖然としていた。 自分でもどうしてこんなにも強引になったのかが、分からなかった。 頭に血が上った。 香穂子を誰にも渡したくはなかったから。 ただそれだけだ。 強引なことをしたとも思っているし、今の自分には、土浦と争う資格すらないことも知っている。 だが、人間は感情の生き物だ。 いくら抑圧しても、強い欲求には勝てやしない。 今までは欲求に屈することのない人間だと思っていた。 だがそれは明らかに間違いであったことに気付かされた。 唯一無二のものは、やはりどうしても手に入れたいと思ってしまう。 特に香穂子だけは、リスクを負っても手に入れたかった。 吉羅は無言のままで香穂子の手をギュッと握り締める。 本当に離したくない。 吉羅は我が儘であることは解ってはいたが、香穂子を求めずにはいられなかった。 手を握り締めると、香穂子は握り返してきてくれた。 それが嬉しくて、吉羅はようやく口を開く。 「…日野君…、怒っているかね?」 吉羅がポツリと呟くと、香穂子は静かに口を開く。 「…いいえ…。怒ってなんていません…。怒っていたら…、私…吉羅さんの手をこうして握り返したりはしません…」 「…日野君…」 吉羅はもう一度香穂子の手を握り締めると、歩くのを止めて、正々堂々と向き合う。 「…日野君…、今から私と一緒に来てくれないかね…。君に話したいことがある…」 「解りました…」 「車を地下駐車場に停めてある。行こう」 「はい」 このまま香穂子を連れ去って自分だけのものにしたい。 その衝動に、吉羅は強く駆られた。 止められやしない、もう誰も。 たとえ何が起ころうとも、吉羅は香穂子だけは離したくないと誓った。 |