*Srendipity*

12


 地下駐車場に向かい、香穂子を車に乗せる。
 吉羅はただそばにいてくれるのが嬉しかった。
 このまま連れ去りたい。
 何も話さなくても、香穂子がただそばにさえいてくれたら、それで幸せだ。
 吉羅はゆっくりと車を駐車場から出し、自宅へと向かう。
 何処か連れて行くよりも、ふたりでじっくりと話がしたかった。
「有り難う…」
 吉羅は信号待ちの隙間時間に、そっと香穂子の手を握り締める。
 幸せな柔らかさに、吉羅は口角を上げた。
「…こちらこそ、嬉しかったです…」
 香穂子がはにかんで答えてくれるのが、何よりもの幸せだった。
「…ふたりきりでじっくりと話をしたいから、私の家で構わないね?」
「…はい…」
 香穂子は一瞬、はにかんだ戸惑いを吉羅に見せつけたが、直ぐに頷いてくれた。
「有り難う…」
 吉羅は車を自宅がある東京ミッドタウンに向けて走らせる。
 もう一度暴走した恋情を止められる筈はなかった。
 確かにこうすることは間違っている。
 婚約者のいる自分には、倫理的には赦されないことなのだろう。
 だが、人間は感情の生き物だ。
 好きになる想いを止めることなんて出来やしないのだ。
 吉羅は胸が苦しいのを感じながらも、一方で幸せを感じる。
 こんなに自分が情熱的だなんて、思ってもみなかったわ
 恋に振り回される人間や、欲望を抑えることが出来ない人間を鼻でせせら笑っていたのに。
 自分は欲望を抑えられるスマートな人間だと思っていたのに。
 実際はそれにはかなり程遠いことに気付いた。
 日野香穂子だからだ。
 生涯、唯一無二、吉羅が欲しいと思った相手だからだ。
 失いたくない。
 誰にも渡したくない。
 きちんと陽の光を浴びて愛し合えるようにしなければならない。
 それをするのは自分の義務だと吉羅は思った。
 香穂子を愛してしまったから。
 他に相手がいるのに。
 ふたりが堂々と愛し合える環境を、作ってやらなければならない。
 吉羅はそのためなら、どんなリスクを払っても構いはしないと強く思う。
 香穂子をそばにおいて一生愛し合うためには、それが一番だからだ。
 吉羅は腹を括る。
 誰にも邪魔はさせないとこころに強く誓った。

 吉羅が自分を欲してくれている。
 これ以上に幸せなことはないのではないかと、香穂子は思わずにはいられなかった。
 贅沢は言えない。
 いつか吉羅と堂々と愛し合える日まで、前向きに立ち向かうつもりだ。
 吉羅の手を同意の上で取ったのは、自分自身だからだ。
 不意に携帯メールの着信音を響き渡り、香穂子は素早くチェックをした。
 土浦だ。
 あんな光景を見せつけられて、心配する余りに連絡をしてきたのだろう。

 土浦だ。
 日野、本当に大丈夫なのか?
 あれじゃあ誘拐だ。
 もし困ったことがあるんなら、直ぐに連絡をくれ。
 助けに行く。

 土浦のメールに感謝をしながらも、香穂子は吉羅から離れることが出来ない。
 土浦を心配させないように、香穂子は素早くメールを打った。

 土浦君へ。
 メール、有り難う。感謝しています。
 吉羅さんに着いて行ったのは私の意志です。
 心配しなくて大丈夫だから。
 有り難う。
 香穂子

 それだけを打つと、香穂子は直ぐに送信し、携帯電話の電源を切った。
 これで総ての外野を遮断して、吉羅とゆっくりと話し合うことが出来る。
 香穂子は姿勢を糺すと、真直ぐ前を見つめた。
 もう決して振り返りたくはなかった。

 今やセレブリティのステイタスのひとつになっている、都会の高級アパートメント。
 吉羅の住家に、香穂子はゆっくりと足を踏み入れた。
 吉羅らしい、シンプルでシックなインテリアだ。
 落ち着きがある部屋の雰囲気ではあるが、香穂子は落ち着けなかった。
「紅茶を用意しようか?」
「はい。有り難うございます」
 香穂子はソファに促されるままに腰を掛けて、ぎこちなく小さくなっていた。
「あいにく君の好きな甘いデザートはない。申し訳ない」
「大丈夫です」
 甘いものを食べたいたわけではないのだから。
 吉羅は紅茶を持ってきてくれ、それを香穂子の前にそっと置いてくれた。
「…有り難うございます」
 吉羅に向かい側に座られて、妙に緊張してしまった。
 ブラインド越しに、午後の柔らかな光が差し込んでくる。
 それが美しくてまた眩しいほどに、吉羅を照らしている。
 その名前の通りに、陽の光に愛されているのだろうと、香穂子は思った。
「…日野君…、私は確かに婚約をしているが…、それはあくまで、会社やビジネスの為に過ぎない」
 吉羅の言葉に、香穂子のこころは痛みを伴って揺れる。
 こんなにも苦しいこころの揺れは、他にはないのではないかと思った。
 吉羅は、愛人にでもするつもりなのだろうか。
 それはそれでかなり切ない茨だ。
 だが、吉羅のそばにいられれば、それだけで良い。
 香穂子は恋情がこんなにも激しいことを、思い知らされたような気がした。
「…私…吉羅さんが好きです…。だから、あなたが…望むならそばにいたいって思います…。だけど…それが 正直言って、正しいことなのかどうかは、私には解らないです…」
 香穂子は自分の素直な気持ちを一生懸命に言葉にすると、吉羅を真直ぐな瞳で見つめた。
 吉羅は苦しそうに笑うと、香穂子の頬を柔らかく撫でる。
「…今の時点で、私は君を愛する資格はないかもしれない…。だが、抑えることが出来ないほどに、君が愛しいのは事実だ…。ふたりが堂々と愛し合えるようにする…。だから…少しの間、我慢をして貰わなければならないが…構わないだろうか…?」
 吉羅の言葉に、香穂子は泣き出しそうなほどに嬉しさを感じる。
 これが、恐らくは吉羅にとっての精一杯の誠実なのだろう。
 精一杯に出来る事なのだろう。
 香穂子はそれを強く感じながら、吉羅を見た。
「…彼女とは…、婚約を解消しようと思っているんだよ…」
「吉羅さん…」
 吉羅は香穂子に対して、真摯な瞳を向けてくれている。
 信じられる?
 それとも信じられない?
 香穂子は、吉羅のまなざしを受け取りながら、唇を柔らかく噛んだ。
 信じたいという想いに、恋情が背中を押してくる。
 吉羅を誰よりも信じたいから。
「…吉羅さん…、ビジネスで困ったことにはならないですか…?」
 香穂子にとってはそれが唯一の心配事だ。
 吉羅は、香穂子を心配させないようにと、包み込むような優しい笑みを浮かべると、頬を撫でてくれた。
「心配しなくて良い。ビジネスは大丈夫だ。婚約を解消しても影響は少ないからね。きちんと分析はしてあるよ」
「…それだったら良いですが…」
「それに。もしリスクがあったとしても、私は気にはしなかった。ビジネスなんてまた作れば良いだけの話だからね。だけど君はそうはいかない…。今、動かなければ、一生後悔すると思った」
「吉羅さん…」
 吉羅が総てを壊してでも恋をしたいと言ってくれたことが嬉しくて、香穂子は涙ぐんだ。
「…泣くな…」
 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子を見つめる。
 吉羅はそっとソファから立ち上がると、香穂子の前に跪いた。
「…香穂子…、君を愛しく思う。君が好きだ…」
 吉羅は恋情を湛えた掠れぎみの声で呟くと、香穂子の手を握り締めた。
「…私も…大好きです…」
 香穂子は上手く言えなくて、声を掠れさせる。
 吉羅はフッと微笑むと、香穂子を抱き寄せた。
 抱き締めれた瞬間、これ以上の幸せはないと感じた。


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