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吉羅は、弁護士に、婚約破棄についての相談を、慎重に進め始めていた。 信頼出来る弁護士であるから、何とか良い知恵を貸してくれるだろう。 香穂子と堂々と愛し合う為にも、やはりきちんと決着をしなければならない。 中途半端な状況だけは、どうしても避けたかった。 ただでさえ、この恋はリスクが大きいのだから。 吉羅は、相手の女性がなるべく傷つけることがないように、穏便に事を運ばなければならないと思う。 長期戦になるかもしれないが、慎重に確実に進めたかった。 こちら側にとってはかなりリスキーなのは解っている。 だが、香穂子は最高の運命の相手なのだ。 正直、ここまで愛せる相手に巡り会えるとは、吉羅自身も思ってもみないことだったから。 自分は一生恋なんてしないと、ずっと思っていた。 だからこそ、こんなにも想いが深くなるなんて、思ってもみなかった。 何もかもが予想外。 だからこそ恋をしたいと思うのかもしれない。 吉羅にとって香穂子との恋は偶然が数多く重なった結果だった。 初めは有望で個性的な新人ヴァイオリニストだと思った。 だが近くでその音に触れて、近くで人柄に触れて、これ以上ないぐらいに惹かれた。 こんなにもひとを愛せて良かったとすら思った。 何もかも解決した上で、香穂子を愛したかった。 婚約解消への下準備をしていたせいで、香穂子にコンタクトを取れなかった。 逢いたい。 逢って、その笑顔に癒されたい。 吉羅は、香穂子が通う音楽大学の近くまで来ると、逢いたくて携帯電話に電話を掛けた。 コールをした瞬間、同じリズムの着信音が近くから聞こえる。 ハッとして前を見ると、香穂子の後ろ姿が見えた。 いつもこうして偶然に助けられてきた。 偶然がふたりを近付けてくれたのだ。 この偶然が、運命の恋であることを教えてくれている。 これ以上にロマンティックなことはないだろう。 女性のようにうっとりとすることはないが、今回だけは、心から運命であると感じることが出来た。 「…はい…。香穂子です…」 ためらいがちに聞こえる声に、吉羅は微笑む。 「日野君、後ろを振り向いてくれないかね?」 いたずらごころを発揮しながら、吉羅は呟く。 すると香穂子が、まるで印象的な映画のワンシーンのように、スローモーションで振り返った。 吉羅の姿を見つけた瞬間、香穂子は大きな瞳を更に開く。 息を呑んだ後、嬉しそうに笑ってくれる。 こんな笑顔をくれるのが嬉しくて、吉羅も釣られるようにして微笑んだ。 「…吉羅さん、お逢い出来て嬉しいです」 香穂子の言葉に、吉羅は思わずその手を取る。 「夕食を共にしないか?」 「喜んで」 香穂子が笑顔で頷いてくれたのが嬉しくて、吉羅もごく自然に笑顔になった。 「行こうか」 「はい」 香穂子の手を引くと、吉羅は駐車場まで連れていった。 吉羅に夕食に誘われるなんて思ってもみない嬉しい事だった。 今までの切ない想いが、総て帳消しになるような気がする。 それほどまでに嬉しい事だった。 吉羅の車に乗せられて、何処かへと向かう。 吉羅と一緒ならば、何処でも良かった。 「何を食べたいかね?」 「…そうですね…。ゆっくりと出来るところが良いです。吉羅さんと色々とお話しをしたいですから」 「…そうかね…。だったらこの近くに、ゆったり出来るレストランがある。フレンチだが、ヘルシーが売りだ。君の好きそうな店だ」 「有り難うございます。嬉しいです。私、フレンチ好きですから」 吉羅が薦めるところは何処でも美味しいだろうから、香穂子は思わずにっこりとしてしまった。 「では行こうか。この間、君にヴァイオリンを弾いて貰った家の近くなんだよ」 あの家の見事な庭を思い出すだけでうっとりとしてしまう。 香穂子は思わず微笑む。 「吉羅さんのお家は最高のステージでした。あのような幻想的な場所でヴァイオリンを奏でられるなんて、滅多とないことですから」 「だったら、また演奏をしてくれると良い…」 「…有り難うございます。機会があれば是非、あの場所で演奏させて下さい」 香穂子は、今度演奏する時は、恐らく吉羅の横にはあの美しい婚約者が妻となっているのだろうと、切なく思う。小さな可愛い子どもがいるかもしれない。 それを想像するだけで、涙がポロポロとこぼれ落ちて来るようだ。それを必死になって何とか堪えながら、香穂子は窓の外を眺めた。 「…日野君、もうすぐ到着する…」 「はい…」 吉羅はレストランの駐車場に静かに車を入れる。 車から降りると、紳士らしくエスコートをしてくれた。 こうしてエスコートされるのもいつまでだろうか。 吉羅は間も無く違う女性のものになってしまうのだから。 レストランでは、窓際の、横浜の夜景が見事に見える席に案内をされた。 吉羅とふたりでバランスの取れたメニューを選んだ。 「…ヴァイオリンの調子は如何かな? また、君の温かな音色を聴いてみたいものだね」 「有り難うございます。ヴァイオリンを上手くなれるように頑張っています。ですが…、なかなか技術的には伸びなくて…。やはり留学を考えなければならないなって、考えているんですよ」 香穂子は静かに言いながら、吉羅を見る。 「吉羅さんの音楽財団でヴァイオリニスト1名、指揮者1名、ピアニスト1名の留学選考をされるでしょう? それに申込むつもりです。かなり狭き門ですからどうなるかは解らないんですけれど、精一杯頑張るつもりです」 香穂子は落ち着いた声で言いながらも、内心は全く落ち着かなかった。 本当は吉羅のそばから離れたくない。 だが離れなければならない。 そのジレンマにこころが苦しくてしょうがなかった。 「…日野君、君は留学するよりも、もっと日本でやることがあるのではないかね?」 吉羅の冷ややかな声に、香穂子は唇を噛み締めた。 「…そうですね…。私には突破は無理かもしれません」 「そんなことを言っているんじゃないんだ。君は留学しなくても十分実力がある。折角、プロになったのだから、もう少し頑張ってみても良いのではないかね?」 「有り難うございます…。そう言って頂けると嬉しいです」 香穂子は吉羅に笑顔で例を言うと、何処か幸せな気分になる。 もし、吉羅が一人の男としての感情で、海外に行くなと言ってくれたのであれば、これほど嬉しいことはなかったのにと思う。 「まだまだ私のヴァイオリン技術は未熟ですから、もっと磨いて頑張らないといけないって思うだけです。頑張りますから、しっかり見ていて下さいね」 「解った…」 吉羅は静かに頷いてくれたものの、何処か納得がいかないようだった。 「冷めてしまう。食事をしよう」 「はい」 吉羅に促されて、香穂子は食事を始めた。 香穂子が財団の留学事業に申込む。 そんなことは許せない。 香穂子が、自分の手の届かない場所に行ってしまうことは、認められなかった。 「…日野君、君が望むのならば日本国内で最高の音楽教育を手配するつもりだ。君にはその価値があるからね。だから留学にこだわることなんてないんだ」 「有り難うございます」 吉羅は、何がなんでも香穂子を海外に行かせたくはなかった。 恐らく香穂子の今の実力では、海外に行くことになるかもしれない。 その可能性はかなり高い。 何としても行かせたくはないと、吉羅は強く思っていた。 |