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初めてのキスは、夢見ていたものよりも数倍ロマンティックだった。 吉羅の唇が柔らかくしっとりと、香穂子を包み込む。 吉羅にキスをされて抱き締められて、これ以上ないのではないかと思うほどに幸せを感じていた。 こんなに幸せで良いのかと思うほどに、今の香穂子は満ち足りていた。 吉羅が唇を離すと、香穂子の顔を包み込む。 「…君はまるで百合の精のようだね…。本当に美しいし、綺麗だ…」 「吉羅さん…」 吉羅の魅力的でよく通る声に呟かれて、官能的な美しさを秘めた瞳に見つめられれば、息が出来なくなる。 吉羅こそ白百合は月に愛された王のように思える。 それほどまでに吉羅は素晴らしかった。 うっとりと吉羅を見つめていると、胸に抱き寄せられる。 「有り難う…。演奏も素晴らしかったよ」 吉羅に褒めて貰えたのがとても嬉しくて、香穂子は涙ぐんでしまう。 このようにストレートに褒められたのは初めてだったから。 「…有り難うございます…。嬉しいです。この間の演奏は、余り気に入っていらっしゃらなかったご様子だから…」 「…あの時も、良い演奏だった…。ただ不機嫌そうに映ったのは…、その音色を独り占めにしたいと、私が思っていたからではないかね」 吉羅は素直な甘い声で呟くと、苦々しく笑った。 「…だったら嬉しいです…。有り難うございます」 香穂子は嬉しくてしょうがなくて、吉羅に花のような笑みを浮かべる。 吉羅もまた微笑んでくれると、もう一度キスをくれた。 今度は柔らかなものではなけ、かなり激しいものだ。 先程のキスがシルクのようであるならば、今のキスは熱い炎そのものだ。 吉羅は、今までの枷を取り外すように、激しく唇を吸い上げてくる。触れ合う唇が、燃え盛るように感じた。 息が出来ないほどの情熱なんて、今まで知らなかった。 このような情熱があることを、初めて知る。 唇を吸い上げた後、吉羅は香穂子の口腔内に舌を入れてきた。 こんなにも熱い戯れは、他にない。 香穂子のぎこちない舌を捕まえて、吉羅は巧みに愛撫をしてくる。 激しさと熱さに、どうにかなってしまいそうだった。 このままでは立ってはいられないと思った途端、吉羅は力強く香穂子の腰を支えてくれた。 息が苦しくて限界だと思うタイミングで、吉羅は香穂子の唇から離れる。 口角から零れた液を、吉羅は舌先で掬い取ってくれた。 「…日野君…。君は本当に私を魅了するね…」 「吉羅さん…」 「…こんなことをしてはならないと思っているのに…、君を抱き締めたくてしょうがない…」 吉羅は苦しげに呟くと、香穂子の躰が軋む程に抱きしめてきた。 解っている。 吉羅には婚約者がいることは。 こんなことをしてはならない。 恋に落ちてはならない。 理性が警告しているにも関わらず、本能がそれを無視する。 吉羅とは赦されざる恋なのに。 なのに、流されたいとも思う矛盾した感情が、香穂子には苦しかった。 満ちた月にお互いの顔が照らされる。 これは月に魅入られたのだ。 満月が引き起こす不思議な現象なのだ。 文字通り狼女になってしまいそうだ。 赦される筈などないのに。 「…日野君…、私は…」 吉羅の声が苦しげに揺れて、香穂子の感情を揺さぶる。 流されてはならない。 香穂子は何とか奥歯を噛み締めた。 吉羅もまた、最後のところで踏ん張ったのか、香穂子からゆっくりと離れる。 もう少しだけ一緒にいたいが、そうなればどうなるかはお互いに解っている。 一緒にいてはならないのだ。 「…家まで送ろう…」 吉羅は静かに言うと、車を停めていた場所へと歩いていく。 香穂子は黙ったまま、その後ろに着いて行くしかなかった。 吉羅は愛車に乗り込みながら、苦々しい気分で自分を呪う。 こんなにも誰かに対して欲しいと思ったことはなかった。 なのに自分にはその資格すらないのだ。 それが辛かった。 香穂子をこんなにも近くに感じているというのに、抱き締めることすら禁忌になるなんて思ってもみないことだ。 香穂子を車に乗せながら、吉羅はこのままふたりで逃避行が出来れば良いのにと、思わずにはいられなかった。 自宅までナビゲーションをすると、本当に吉羅の実家とかなり近いことに気付いた。 車は香穂子の自宅の前に、静かに停車した。 「有り難うございました」 香穂子は礼を言おうとしたが、声が震えてしまい上手く言うことが出来ない。 なかなか助手席から立てなくて、香穂子は息苦しさを感じずにはいられなかった。 だが、車から降りるようにと促されるように、ドアが開かれる。 吉羅はここから出るように言いたいのだろう。 「…では、吉羅さん…」 また、とは言えなかった。 連絡先すら知らないのだから、そんなことは言える筈もない。 脚を車から出したところで、腕を掴まれた。 「…日野君…、君の携帯の番号を教えては貰えないかね」 「はい」 香穂子は、持っていた小さなメモに、携帯電話の番号とメールアドレスを記載する。 吉羅にそれを手渡すと、頷いて礼を言ってくれた。 「…また、逢いたい」 「…はい…。私も…、また逢いたいです」 香穂子は恋情が迸る余りに、声を詰まらせて呟く。 そのまま車から降り、ドアを静かに閉めた。 吉羅は直ぐに車を発車させる。 フェラーリの後ろ姿を見送りながら、香穂子は小さな溜め息をひとつ吐いた。 指先で唇に触れる。 するとそこから吉羅への想いが溢れてくるのを感じた。 吉羅が好きだ。 誰よりも愛していると言っても過言ではない。 息苦しさを感じながら、香穂子は静かに家の中に入っていった。 今宵は眠れそうにないと思いながら。 吉羅は自宅のある六本木へと車を走らせながら、切ない溜め息を吐く。 こんなにも溜め息を吐いたことなんて、かつてあったであろうかと思う。 溜め息を吐くだけで、切ない恋情が重ねられるような気がした。 香穂子を愛している。 いや、愛してしまった。 例えることが出来ない程に深く。 香穂子の笑顔を思い浮かべるだけで、胸の奥が苦しかった。 結婚が決っている。 そんなことはもうどうでも良いような気になってくる。 今なら解消してもお互いの傷は小さいのではないかと考えてしまう。 吉羅は、婚約を解消する為に、何が必要かを、考え始めていた。 吉羅には婚約者がいる。 だからこれ以上は踏み込まないほうが良い。 理性ではどうとでも考えられるが、なかなかそうはいかなかった。 吉羅とキスを交わしてから一週間。 恋情は益々募るばかりだ。 香穂子は、何度も携帯電話を覗き込みながら、吉羅からの連絡を待つ自分に苦笑いを浮かべてしまう。 香穂子は何度目かの溜め息を吐いた後、携帯電話をバッグの奥深くになおしてしまった。 一週間連絡がないのは、余り考えられていない証拠ではないかと思う。 吉羅にとっての自分は、ただの興味深い新人ヴァイオリニストに過ぎないのではないかと、香穂子は思ってしまう。 好きならば、何もなくても連絡をくれる筈だと思いながら、香穂子は諦め切れない自分がいることも知っていた。 恋はいつも薔薇色で、きらきらと七色に輝くものとばかり思っていたのに、そうではないことを吉羅との恋で思い知らされる。 苦しいのに、更に深く恋をせずにはいられないなんて、なんて矛盾した感情なのだろうかと思った。 大学の掲示板を見ると、吉羅音楽財団の留学生選考のポスターが貼ってあった。 ヴァイオリンの定員は1名。 それでも良いから、チャレンジする価値はあると思った。 香穂子がエントリーシートを手に入れたとき、不意に携帯電話が鳴り響く。 香穂子はその着信相手を見て、目を見開いた。 吉羅暁彦だった。 |