*Srendipity*


 叶わない恋。
 赦されない恋。
 なのにどうして、恋をせずにはいられないのだろうか。
 香穂子はそう思いながら、月光を奏でる。
 吉羅に聴かせると約束をしたから。
 ここは頑張るしかないのだ。
 香穂子は集中をして、ヴァイオリンの練習に精を出す。
 ただヴァイオリンを吉羅に聴いて貰いたかった。
 吉羅に喜んで貰いたかった。
 満月の日に、吉羅にヴァイオリンを奏でたら、離れなければならないだろう。
 吉羅と妻になる女性のふたりを見るなんて、決して堪えられそうにはないだろうから。
 香穂子は強く思いながら、寂しい気分でヴァイオリンを奏で続けていた。

 満月の夜に香穂子に逢える。
 それだけを糧に、吉羅は仕事をする。
 そのお陰か、いつも以上に仕事に集中することが出来た。
 こんなことは今までなかったかもしれない。
 吉羅のこころは完全に香穂子に支配され、それ以外のことは考えられなくなっていた。
 婚約者と打ち合わせの為だけに逢う。
 それが時間の無駄だと感じずにはいられない。
「聞いていらっしゃって? 暁彦さん」
「…ああ。君の好きなようにすれば良い」
「相変わらず身が入っていないんですね」
 吉羅の態度に、婚約者は呆れ果てるように溜め息を吐く。
 お互いに深く愛し合っているかと言われれば、そうではない。
 純粋に否定することが出来る。
 吉羅は溜め息を吐くと、再び結婚式に関する書類に目を通した。
 この結婚は、完全なるビジネスだ。
 それ以上でも以下でもない。
 その証拠に躰の関係は一切なかった。
 お互いに友人であることは認めてはいるが、それだけだ。
 友人以外の何ものでもない。
 お互いに一緒にいて苦にはならない相手ではあるが、それだけだった。
 後は互いに利益がある。
 総合的に考えても、これ以上の相手はいないのではないかと、お互いに冷静に考えることが出来た。
「…暁彦さんは式には興味が全くないようですね」
「式は女性の為の儀式だろう…? 私にはそれしか感じないがね」
「…あなたはそういうひとだわ。いつも。だからこそ、私も楽だと感じるのかもしれないわね」
 お互いに熱情といったものは皆無だ。
 彼女に落ち着いた笑みで微笑まれても、吉羅は、好ましくは思うが、ときめかない。
 吉羅はいつの間にか香穂子のことばかりを考えてしまっていた。

 香穂子は、いよいよヴァイオリンに磨きをかけていく。
 月の光の下で、最高の演奏が出来たら良いのにと、思わずにはいられない。
 ヴァイオリンを静かに持って、香穂子は月に祈る。
 間も無く月は満ちる。
 吉羅に逢うことが出来なくても、逢えるという約束があるから大丈夫。
 同じ月を見ている安心感があるから、大丈夫。
 香穂子は、夢のような時間を想像しながら、吉羅への恋心を深めていった。
 月が満ちる日の前夜、香穂子は天気予報を見る。
 こんなにも熱心に天気予報を見るのは、始めてかもしれない。
「…曇り…」
 台風の影響が出ているのか、厚い雲に覆われているようだ。
 致し方がないのは解ってはいるが、やはり折角のヴァイオリンを奏でる夜には、美しく晴れて欲しかった。
 雨よりもましかもしれない。
 しかも、天気予報は、雨が前倒しで降るかもしれないと言っている。
「…やっぱり、雨は降っちゃうのか…」
 溜め息を吐きながらテレビを見ているだけではしょうがない。
 照る照る坊主を作って、窓に吊しておけば良い。
 香穂子は、羽根のついた可愛い妖精型の照る照る坊主を作ると、それを窓に吊した。

 吉羅に逢える当日、朝から香穂子は落ち着けない。
 ようやく逢えるというだけで、胸が激しく締め付けられる程にときめかずにはいられなかった。
 時間がのろのろと過ぎる。
 もっと早く過ぎれば良いのにと、香穂子は思わずにはいられない。
 吉羅に逢えること以外は、もう何も考えることは出来なかった。

 吉羅は、朝から何度も腕時計を見る自分に、苦笑いを浮かべてしまう。
 かなりの日野香穂子中毒といっても良い。
 ただ逢える。
 それだけなのに、胸が甘くて切ない幸せに満たされるのを感じてしまう。
 早く逢いたい。
 夜になるまで待てないなんて感情は、今まで抱いたことはなかった。
 香穂子のそばにいられればそれだけで良い。
 そんなことすら考えてしまう。
 本当に純粋に好きなのだということを、吉羅は改めて感じずにはいられなかった。

 ようやく逢える。
 なのに空を見上げれば、相変わらずの曇り空だった。
 しかも、今直ぐにでも雨が激しく降り出してしまいそうだ。
「…折角、照る照る坊主を作ったのに、効果は余りなかったのかな…」
 ほんの少しがっかりしながらも、吉羅に逢える嬉しさが勝る。
 出来たらロマンティックに演奏を聴いて貰いたかったが、こればかりは仕方がない。
 吉羅に逢えるというだけで、十分に嬉しいから、天気は後から来るものだと思うようにした。
 約束の日に香穂子は、海が美しく見える、臨海公園の展望台に佇む。
 いるのは猫とカップルばかりだ。
 横浜でも有数のデートスポットだから仕方がない。
 香穂子は背筋を伸ばすと、吉羅を待構える。
 暫くして、吉羅が目の前に現われた。
 いつものように高級イタリアンテーラードスーツに身を包んでいるだけなのに、今夜はとても艶やかに見える。
 官能的な男の艶に、香穂子は心臓が飛び出してしまうぐらいにドキドキした。
 奇跡。だったのだろうか。
 それとも、照る照る坊主が願い事を叶えてくれたのだろうか。
 吉羅が現われたと同じタイミングで、月が顔を出す。
 こんなにも美しい瞬間は他になかった。

 臨海公園に着いた瞬間、月が見事なタイミングで顔を出す。
 これぞ奇跡だと、吉羅は思わずにはいられない。
 本当に綺麗だ。
 そして。
 目の前に佇む香穂子に月光があたり、官能と幻想を吉羅に見せつける。
 こんなにも美しい香穂子を他人に晒したくはなかった。
 美し過ぎて、吉羅は香穂子をじっと見つめずにはいられない。
「…君は本当に綺麗だね…」
 吉羅が呟くと、香穂子は頬を染め上げる。
 誰にも見せたくはない。
 こんなにも美しい香穂子を。
 吉羅は香穂子の手を握ると、そっとその瞳を見つめた。
「…日野君…、君に相応しい演奏場所がある…。来ないかね? この近くだ…」
「はい…」
 吉羅は香穂子の手を引くと、車へと誘った。

 手を引いてくれた吉羅の手のひらの感触を忘れない。
 大きくて優しい温もりを持っていた。
 こんなにも温かいものを、香穂子は他には知らなかった。
 吉羅に車に乗せられて向かったのは、臨海公園からほんの近くの、高級住宅街だった。
 その中でも、一際大きな屋敷の中に車は入っていった。
「私の家だ。今は使ってはいないが、庭だけは手入れをしてある。そこでヴァイオリンを弾いてはくれないかね?」
「…はい…」
 吉羅は助手席のドアを開けると、エスコートしてくれる。
 香穂子は吉羅に導かれるように、ゆっくりと庭に入っていく。
 庭に入った瞬間、幻想的な美しさに思わず息を呑んだ。
 白い百合の花が、庭一面に咲き誇っている。月光に照らされ、夜風に揺れる姿は、とても美しかった。
「…ここでヴァイオリンを奏でてはくれないかね?」
「はいっ…!」
 こんなにも素晴らしくて美しいステージは他にはない。
 香穂子はヴァイオリンを構えると、静かに目を閉じて“月光”を奏で始めた。
 月の光に導かれるように、清らかな気分でヴァイオリンを奏でる。
 まるで羽根でも背中に生えたような気分になりながら、素直な気持ちで演奏をした。
 ヴァイオリンを奏で終わった瞬間、香穂子はそっと目を開ける。
 吉羅と目線が絡み合い、抱き締められる。
「…有り難う…」
 息を呑む間も無く、唇がしっとりと重ねられた。
 もう吉羅のことだけしか、考えられなかった。


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