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コンサートの当日。 香穂子はいつも以上に落ち着かない。 客席に、吉羅暁彦がいるというだけで、かなり緊張する。 甘い緊張であることは、間違いはなかった。 吉羅が本当に会場に来ているのか。 きっとステージに上がれば確かめることが出来るだろう。 吉羅のことだから、VIP席にいるのは間違なかった。 呼吸をしっかりと整えて、自分に言い聞かせる。 最高の演奏をしなければならないことを。 吉羅が心地好く聴いて貰えるようなヴァイオリンを奏でたかった。 あれだけ沢山のヴァイオリニストがいるのだから、吉羅暁彦が香穂子の音色を聞き分けることが出来るなんて、奇跡に等しい。 それでも、香穂子は精一杯の想いが音色に刻みたかった。 緊張したままでスタンバイに行くと、香穂子と同じ若手の誰もが興奮ぎみに話している。 「…吉羅音楽財団の理事長が来ているらしい。毎年、すごく有望な若手をひとり選んで、多額の資金のもとで、英才教育をして、最高のバックアップをしてくれるんだよね。選ばれた新人は、クラシック音楽界で、成功を約束されるんだもの。海外のアーティストも含めての選考だけれど、私も選ばれてみたい!」 誰もが口々に溜め息を吐きながら言っているのが聞こえる。 吉羅音楽財団に声を掛けられること自体、かなり凄いことなのだと、香穂子も聞いている。 吉羅に逢うまでは、理事長はロマンスグレーな男性だと思い込んでいた。 それがあれ程に若く、そして魅力的な男性だとは思いもよらなかった。 吉羅音楽財団の仕事をした香穂子には、誰もが一目を置いてくれている。 それはかなりのことなのだと実感せずにはいられなかった。 改めて。凄いひとを好きになってしまったと思う。 「吉羅理事長、やっぱり綺麗な女性とご一緒ね。間も無く結婚されるって、お聞きしたけれど、本当なんだ。お似合いだね。いかにもセレブって感じがするもの」 噂話に、香穂子は躰をビクリとさせる。 こんなにも辛い事実はない。 吉羅が結婚することは、既に織り込み済の事実であるはずなのに、改めて他人の口から聞くと辛くなる。 香穂子はそっと客席を覗いてみた。 すると、吉羅が婚約者と一緒にいるのが見える。 視覚で確認すると、更に痛い。 あれ程までに落ち着かなかった気分が、急激に冷えていくのを感じた。 手に入れることが出来ない男性だと、解っていた筈なのに。 こうしてこころは期待してしまう。 香穂子は落ち着きを取り戻す為に、何度も深呼吸を繰り返す。 「スタンバイお願いします」 「はい!」 香穂子は、沢山の仲間たちと静かにステージに上がり、席に着く。 ヴァイオリンだけに集中していれば大丈夫だ。 ただそれだけに神経を集中させよう。 香穂子は強く思うと、視界から吉羅たちの姿を消し去った。 ステージにスタンバイをした香穂子は、いつも以上に凛としていて美しい。 他の若手演奏家も聴かなければならないというのに、香穂子だけを見つめてしまう。 冷静ではないし、フェアでないのは解っている。 だが、香穂子だけを見つめ、その音色を聴かずにはいられない。 吉羅は、横に婚約者がいても、香穂子を見つめずにはいられなかった。 香穂子の奏でるヴァイオリンの音色ならば、直ぐに解る。 あれ程までに温かくて清らかな音色は他にないのだから。 吉羅は、香穂子ばかりを見つめていることを知られたくなくて、そっと目を閉じた。 吉羅が目を閉じた。 恐らく、音に集中するためだろう。 その方が良い。 音に集中してくれたほうが、こちらもヴァイオリンに集中することが出来る。 香穂子もまた邪念を振り払うように目を閉じると、ヴァイオリンだけに集中をした。 ヴァイオリンに集中していれば、一時だけでもこの苦しい想いを消し去ることが出来る。 香穂子はヴァイオリンを構えると、ただ曲に集中した。 吉羅は、香穂子のヴァイオリンの音色だけを聞き分け、それだけに集中する。 音楽財団の理事長としては赦されないことだとは解っている。 だがそうせずにはいられない。 財団のコンサートで聴いた音色よりも、更に澄んで温かな音色になっている。音に厚みが加わったと言っても良い。 香穂子の音色は、吉羅の魂を強く揺るがしている。 このような音色は、生まれて初めてだった。 こんなにも切なくて甘い心に響く音色は、他にないのではないかと思った。 演奏が終わった後、吉羅は喪失感の余りに溜め息を吐く。 こんなにも胸が締め付けられる想いは他にないような気がした。 もう少しで良いから、香穂子の音色を聴いていたい。 もう少しで良いから。 そんな想いから、吉羅は目を開けることが出来ずにいた。 「…暁彦さん、とても素晴らしい演奏でしたが、やはりベテランには敵いませんわね。新人が多数混じっているのが敗因かもしれませんね」 まるで評論家気取りで話す婚約者に、吉羅はこころの中で舌打ちをした。 香穂子がいなくても、可能性のある素敵な演奏であったとは思う。 確かにそれだけかもしれないが、吉羅には十分価値があるものだった。 「…私は瑞々しくて良かったかと思うがね…」 吉羅はそれだけを言うと、腕組みをして、暫くじっとしていた。 吉羅は目を開けてはくれない。 明らかに気に入らなかった証拠だ。 香穂子は内心泣きそうになりながら、何とか踏ん張った。 これが今の自分の実力なのだからしょうがない。 香穂子は深々と頭を下げると、ステージから早々と引き上げた。 香穂子は溜め息を吐くと、ヴァイオリンを握り締める。 まだまだだ。 もっと実力のあるヴァイオリニストになって、吉羅に堂々と渡り合えるようになるまでは、恋なんておこがましいかもしれない。 香穂子は、反省会に出席しながら、ただうなだれることしか出来なかった、 反省会が終わり、香穂子はクタクタな気分でホールを出る。 吉羅は美しい婚約者と一緒に、何処かに行ってしまったのだろう。 こんな想いは忘れてしまわなければならない。 香穂子は苦々しく思いながら、駅に向かって歩いていった。 「日野君」 聞き慣れた低く甘い声に、香穂子は息を呑みながら振り返る。 するとそこには吉羅がいた。 「…吉羅さん…」 「君に感想を言いたくてね」 吉羅はいつものように落ち着いた声で呟くと、香穂子を見つめる。 その瞳が優しくて、香穂子は泣きそうになった。 「酷い演奏をお聞かせして、申し訳ありませんでした」 香穂子は硬い声で言うと、頭を深々と下げた。 「…ひどくはなかったと思う。君達の演奏は悪くなかった」 吉羅の言葉に、香穂子は驚いて目を大きく開いた。 「…本当ですか? 私はてっきり酷い演奏と思われたのかと…」 「…そんなことは思ってはいない。心配しなくても大丈夫だ」 「…有り難うございます」 ホッとする余りに涙が零れてしまう。 その泣き顔を見るなり、吉羅は苦笑いを浮かべた。 「…しょうがないね、君は…。泣くんじゃない。君達の演奏は確かに素晴らしかったと、私は思う。粗削りかもしれないがね」 「有り難うございます。みんなも喜ぶかと思います」 香穂子はホッとしたせいで、また涙が滲むのを感じた。 「私は君にそれだけを伝えたかった。また、頑張りたまえ。私はひとを待たせているからね。これで失礼するよ」 「はい…。有り難うございました」 人を待たせている。恐らくは婚約者だろう。 吉羅を見送りながら、香穂子はまた涙が瞳の奥から滲むのを感じた。 |