*Srendipity*

6


 コンサートの当日。
 香穂子はいつも以上に落ち着かない。
 客席に、吉羅暁彦がいるというだけで、かなり緊張する。
 甘い緊張であることは、間違いはなかった。
 吉羅が本当に会場に来ているのか。
 きっとステージに上がれば確かめることが出来るだろう。
 吉羅のことだから、VIP席にいるのは間違なかった。
 呼吸をしっかりと整えて、自分に言い聞かせる。
 最高の演奏をしなければならないことを。
 吉羅が心地好く聴いて貰えるようなヴァイオリンを奏でたかった。
 あれだけ沢山のヴァイオリニストがいるのだから、吉羅暁彦が香穂子の音色を聞き分けることが出来るなんて、奇跡に等しい。
 それでも、香穂子は精一杯の想いが音色に刻みたかった。
 緊張したままでスタンバイに行くと、香穂子と同じ若手の誰もが興奮ぎみに話している。
「…吉羅音楽財団の理事長が来ているらしい。毎年、すごく有望な若手をひとり選んで、多額の資金のもとで、英才教育をして、最高のバックアップをしてくれるんだよね。選ばれた新人は、クラシック音楽界で、成功を約束されるんだもの。海外のアーティストも含めての選考だけれど、私も選ばれてみたい!」
 誰もが口々に溜め息を吐きながら言っているのが聞こえる。
 吉羅音楽財団に声を掛けられること自体、かなり凄いことなのだと、香穂子も聞いている。
 吉羅に逢うまでは、理事長はロマンスグレーな男性だと思い込んでいた。
 それがあれ程に若く、そして魅力的な男性だとは思いもよらなかった。
 吉羅音楽財団の仕事をした香穂子には、誰もが一目を置いてくれている。
 それはかなりのことなのだと実感せずにはいられなかった。
 改めて。凄いひとを好きになってしまったと思う。
「吉羅理事長、やっぱり綺麗な女性とご一緒ね。間も無く結婚されるって、お聞きしたけれど、本当なんだ。お似合いだね。いかにもセレブって感じがするもの」
 噂話に、香穂子は躰をビクリとさせる。
 こんなにも辛い事実はない。
 吉羅が結婚することは、既に織り込み済の事実であるはずなのに、改めて他人の口から聞くと辛くなる。
 香穂子はそっと客席を覗いてみた。
 すると、吉羅が婚約者と一緒にいるのが見える。
 視覚で確認すると、更に痛い。
 あれ程までに落ち着かなかった気分が、急激に冷えていくのを感じた。
 手に入れることが出来ない男性だと、解っていた筈なのに。
 こうしてこころは期待してしまう。
 香穂子は落ち着きを取り戻す為に、何度も深呼吸を繰り返す。
「スタンバイお願いします」
「はい!」
 香穂子は、沢山の仲間たちと静かにステージに上がり、席に着く。
 ヴァイオリンだけに集中していれば大丈夫だ。
 ただそれだけに神経を集中させよう。
 香穂子は強く思うと、視界から吉羅たちの姿を消し去った。

 ステージにスタンバイをした香穂子は、いつも以上に凛としていて美しい。
 他の若手演奏家も聴かなければならないというのに、香穂子だけを見つめてしまう。
 冷静ではないし、フェアでないのは解っている。
 だが、香穂子だけを見つめ、その音色を聴かずにはいられない。
 吉羅は、横に婚約者がいても、香穂子を見つめずにはいられなかった。
 香穂子の奏でるヴァイオリンの音色ならば、直ぐに解る。
 あれ程までに温かくて清らかな音色は他にないのだから。
 吉羅は、香穂子ばかりを見つめていることを知られたくなくて、そっと目を閉じた。

 吉羅が目を閉じた。
 恐らく、音に集中するためだろう。
 その方が良い。
 音に集中してくれたほうが、こちらもヴァイオリンに集中することが出来る。
 香穂子もまた邪念を振り払うように目を閉じると、ヴァイオリンだけに集中をした。
 ヴァイオリンに集中していれば、一時だけでもこの苦しい想いを消し去ることが出来る。
 香穂子はヴァイオリンを構えると、ただ曲に集中した。

 吉羅は、香穂子のヴァイオリンの音色だけを聞き分け、それだけに集中する。
 音楽財団の理事長としては赦されないことだとは解っている。
 だがそうせずにはいられない。
 財団のコンサートで聴いた音色よりも、更に澄んで温かな音色になっている。音に厚みが加わったと言っても良い。
 香穂子の音色は、吉羅の魂を強く揺るがしている。
 このような音色は、生まれて初めてだった。
 こんなにも切なくて甘い心に響く音色は、他にないのではないかと思った。
 演奏が終わった後、吉羅は喪失感の余りに溜め息を吐く。
 こんなにも胸が締め付けられる想いは他にないような気がした。
 もう少しで良いから、香穂子の音色を聴いていたい。
 もう少しで良いから。
 そんな想いから、吉羅は目を開けることが出来ずにいた。
「…暁彦さん、とても素晴らしい演奏でしたが、やはりベテランには敵いませんわね。新人が多数混じっているのが敗因かもしれませんね」
 まるで評論家気取りで話す婚約者に、吉羅はこころの中で舌打ちをした。
 香穂子がいなくても、可能性のある素敵な演奏であったとは思う。
 確かにそれだけかもしれないが、吉羅には十分価値があるものだった。
「…私は瑞々しくて良かったかと思うがね…」
 吉羅はそれだけを言うと、腕組みをして、暫くじっとしていた。

 吉羅は目を開けてはくれない。
 明らかに気に入らなかった証拠だ。
 香穂子は内心泣きそうになりながら、何とか踏ん張った。
 これが今の自分の実力なのだからしょうがない。
 香穂子は深々と頭を下げると、ステージから早々と引き上げた。
 香穂子は溜め息を吐くと、ヴァイオリンを握り締める。
 まだまだだ。
 もっと実力のあるヴァイオリニストになって、吉羅に堂々と渡り合えるようになるまでは、恋なんておこがましいかもしれない。
 香穂子は、反省会に出席しながら、ただうなだれることしか出来なかった、

 反省会が終わり、香穂子はクタクタな気分でホールを出る。
 吉羅は美しい婚約者と一緒に、何処かに行ってしまったのだろう。
 こんな想いは忘れてしまわなければならない。
 香穂子は苦々しく思いながら、駅に向かって歩いていった。
「日野君」
 聞き慣れた低く甘い声に、香穂子は息を呑みながら振り返る。
 するとそこには吉羅がいた。
「…吉羅さん…」
「君に感想を言いたくてね」
 吉羅はいつものように落ち着いた声で呟くと、香穂子を見つめる。
 その瞳が優しくて、香穂子は泣きそうになった。
「酷い演奏をお聞かせして、申し訳ありませんでした」
 香穂子は硬い声で言うと、頭を深々と下げた。
「…ひどくはなかったと思う。君達の演奏は悪くなかった」
 吉羅の言葉に、香穂子は驚いて目を大きく開いた。
「…本当ですか? 私はてっきり酷い演奏と思われたのかと…」
「…そんなことは思ってはいない。心配しなくても大丈夫だ」
「…有り難うございます」
 ホッとする余りに涙が零れてしまう。
 その泣き顔を見るなり、吉羅は苦笑いを浮かべた。
「…しょうがないね、君は…。泣くんじゃない。君達の演奏は確かに素晴らしかったと、私は思う。粗削りかもしれないがね」
「有り難うございます。みんなも喜ぶかと思います」
 香穂子はホッとしたせいで、また涙が滲むのを感じた。
「私は君にそれだけを伝えたかった。また、頑張りたまえ。私はひとを待たせているからね。これで失礼するよ」
「はい…。有り難うございました」
 人を待たせている。恐らくは婚約者だろう。
 吉羅を見送りながら、香穂子はまた涙が瞳の奥から滲むのを感じた。


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