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吉羅に、素晴らしい“月光”を聴かせたい。 まだまだ役不足かもしれないが、頑張る価値はあると香穂子は思い、コンサートの演目の他に“月光”も練習する。 毎日の練習でへとへとにはなるが、それでも吉羅に喜んで貰いたいが為に、香穂子は練習を重ねた。 疲れてはいても、吉羅への恋心が、香穂子の原動力になる。 それだけが張り合いだった。 吉羅に、こんなところで逢えるとは思ってもみなかったのに、運命はまたいたずら好きなのか、今度は本屋でばったりと逢ってしまった。 しかも吉羅の美しい恋人も一緒だ。 そして香穂子の横には、同じ音楽学部の仲間で指揮科に所属する土浦がいる。 なんて皮肉な現実なのだろうかと思う。 お互いに、友人と恋人の違いはあれど、異性と一緒だ。 しかも吉羅の恋人の左手薬指には、美しい指環が光っている。 明らかな婚約指環だ。 その光が香穂子の心を弾いてきた。 土浦との仲を誤解されては困ると、一瞬だけ思ってはみたが、そんなことは吉羅にとってはどうでも良いことなのだろうと、香穂子は思った。 「日野君」 吉羅が香穂子の姿に気付いて、声を掛けてきた。 香穂子はぎこちなく頭を下げる。 「吉羅さん、こんにちは」 横にいる恋人を見ると、結婚情報誌を持っている。 恐らくは結婚が決まり、ふたりで読む為に買ったのだろう。 香穂子はそれを目の当たりにし、ショックの余りに、このまま倒れてしまうのではないかと思った。 動揺する余りに、頭がくらくらしてくる。 涙が躰の奥深くから滲んでくるのに、それを堪えて笑顔でいなければならなかった。 これが現実なのだ。 「吉羅さんもお買い物ですか? 私たちも音楽関係の本を買ったばかりなんです」 「そうか」 吉羅は特に興味がないとばかりにあっさりと呟くと、「ではまた」と言って、レジの向こうへと消えた。 吉羅の態度はごくごく普通な筈なのに、香穂子にとってはそれはとても辛い。 恋愛感情なんて抱いてくれないことは、最初から解っている。 頭では解っているのに、こころが理解してはくれなかった。 香穂子はこのまままっすぐ家に帰って泣いてしまえばスッキリするのにと、思わずにはいられなかった。 土浦とは本屋の前で別れて、ひとりでとぼとぼと駅に向かう。 「日野君!」 振り返ると、吉羅が立っているのが見えた。 こんなに偶然が重なるなんて、何かあるのかもしれないと、吉羅は思う。 吉羅は香穂子の姿を直ぐに見つけ、息が止まりそうになる。 香穂子が、同じ年頃の男と一緒に、本当に楽しそうに笑っているのが見える。 嫉妬をする資格すら自分にないことを、十分過ぎるぐらいに解っているはずなのに、どす黒い感情に支配されてしまう。 それだけでかなり痛い。 しかも自分の横には、名ばかりだが婚約者がいた。 手には結婚情報誌だ。 これでは香穂子に誤解を受けるのは当然なのに、それが嫌なのだ。 いやそんなことを思う自体、自分は間違なかっているのだということを、吉羅は思い知らされた。 香穂子もこちらに気付いたのか、一緒にいる青年とともにこちらを見ているのが解った。 「日野君」 吉羅の声に驚いたのか、香穂子はカチコチになって返事をしてくれた。 一言、二言だけ会話を交わす。 香穂子が他の男と一緒にいるのを見ることが堪えられなくて、吉羅は早々にレジの列に並んだ。 香穂子たちが直ぐに本屋から出るのが横目で見えたが、吉羅は苛立ちが頂点に達したような気がした。 婚約者とは本屋の入口で別れて、吉羅はひとりで大通りに出た。 すると香穂子が姿勢を伸ばして、ひとりで歩いている姿が見える。 吉羅は直ぐに香穂子に声を掛ける。 「日野君、今はひとりかね?」 吉羅が香穂子に声を掛けると、ゆっくりと頷く。 「土浦君はバイトなんです。だから先に帰りました」 「アルバイト…ね」 こんなにも“アルバイト”という言葉が、良い響きだと思ったことはなかった。 「日野君、少しばかり時間があるんだが、お茶でも飲まないか?」 香穂子は一瞬、表情を強張らせる。 恐らくは、恋人のいる男性に声を掛けられて、困惑しているのだろう。 香穂子は考えているようで、なかなか反応を示そうとしなかった。 「…では少しだけお付き合いをします」 「…有り難う」 香穂子がイエスと言ってくれたことが嬉しくて、吉羅は思わず礼を言わずにはいられない。 こんなことは初めてだと思った。 吉羅が誘ってくれたのが嬉しくてしょうがない。 相手は婚約者が既にいて、香穂子には手の届かない相手かもしれない。 だが、それでもこうしてひとときを持てるのは嬉しかった。 有名和菓子店が出している、和洋のコラボレーションが美しいカフェに入って、ふたりは中庭が見える陽当たりの良い場所に座る。 「以前からここに来たかったんです。だからとても嬉しいです」 「それは良かった」 食べたかった和菓子と洋菓子を上手く一体化させた焼き菓子を選び、豆乳を頼む。 吉羅はと言えば、コーヒーと余り甘くない和菓子を選んでいた。 「ヴァイオリンの調子は如何かね?」 「もうすぐ本番ですから、かなり気合いは入っていますよ」 「曲目は?」 「ラフマニノフです。大好きだから、やりがいがあります」 音楽のことを話していると、ごくごく自然に笑顔になる。 吉羅もまた、落ち着いた笑みを浮かべてくれるのが、嬉しかった。 香穂子のことを妹のように思ってくれているのだろう。 それが嬉しいと同時に、何処か切なかった。 恋人のような感情を抱いてくれているなんて、もう有り得ないだろうが、どうしてもそこを求めてしまう。 香穂子は自分のしつこさに辟易してしまった。 「君の演奏するコンサートには是非、行かせて貰うよ。若手が多いから、より沢山の演奏家の演奏を聴いてみたいからね」 「では、私もそのひとりとして頑張りますね。みんな、きっと喜ぶと思いますよ。あの吉羅音楽財団の理事長が来たって」 香穂子が笑顔で言うと、吉羅は頷いた。 「私は君の演奏を楽しみにしているよ。しっかりと頑張ってくれたまえ」 「有り難うございます」 吉羅が見に来てくれる。それだけで張り合いが出るというものだ。 香穂子は、吉羅に聴いて貰うためにも、しっかりと頑張らなければならないと思う。 叶わない恋。 赦されざる恋。 だが、それが香穂子の原動力になっているのは確かだ。 こうして気にかけてくれているだけで嬉しい。 こうして見つめてくれているだけで嬉しい。 それで十分。 贅沢なんて言ってはいられないから。 香穂子は胸が締め付けられるような切ない幸せを感じながら、吉羅にただただ微笑んだ。 香穂子が柔らかい秋の光に同化するかのように微笑んだ瞬間、吉羅は胸の奥底が痛むような幸福を感じた。 満たされない幸福。 なのに満たされているような不思議な感覚がある。 今のままでは、香穂子に手を差し延べて、抱き締める資格などない。 だが、そうしたくてしょうがない自分がいる。 吉羅は、胸が詰まるような苦しさと、総てが満たされるような幸福を感じながら、香穂子を見つめた。 手に入れたい。 この腕の中に閉じ込めてしまい、一生、離したくはない。 なのにそれは赦されないのだ。 吉羅はフッと目を閉じる。 冷静になれと言い聞かせながらも、総てが壊れてしまっても香穂子が欲しいという感情に、最早、逆らうことは出来なくなっていた。 |