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自分には、政略ではあるがきちんとした婚約者がいる。 普通に考えれば、申し分ない婚約者の筈だ。 だが、全く愛することが出来ない。 友人よりも浅い付き合いしか出来ないような気すらしてしまう。 こうして一緒に歩いていても、何処かこころがそばにいないような気がしてならなかった。 ふと温かな感覚を覚えて、吉羅は振り返る。 すると香穂子が楽器店に入って行く姿が見えた。 このまま直ぐに追いかけたい。 香穂子を抱き締めたい。 だがそれは赦されないのだ。 「暁彦さん、私はこれで失礼します」 横にいた婚約者が、ゆっくりと声を掛けてきた。 「…解った…。では、また」 吉羅が挨拶をすると、婚約者は頷いて迎えの車に向かって歩いていった。 吉羅は最後まで見送ることもなく溜め息を吐くと、背筋を伸ばして佇む。 秋風が前髪を揺らすものだから、煩くてかき上げた。 自分には一生、誰も深く愛することは出来ないと思っていたのに、こうして魂の底から愛することが出来る女性に出会ってしまった。 総てが覆してしまうのではないかと思いながら、吉羅は溜め息を吐くしかなかった。 吉羅は、香穂子が入っていった楽器店に入り込むと、直ぐにその姿を探す。 香穂子は楽譜コーナーにおり、何かを探しているようだった。 「…良かったら手伝おう」 吉羅が声を掛けると、香穂子は驚いたように顔を上げた。 「…吉羅さん…」 「何か楽譜を探していたようだったから、手伝おうと思ってね」 「…あ、あの…。大丈夫です」 香穂子はあくまで困惑ぎみの表情を浮かべている。 だがここで引きたくはなかった。 こんなことをする資格など、自分にはないというのに、つい関わりたくなってしまう。 「…では、お手伝いをお願いします。あの、ベートーベンの月光を探しているんです。今日は仲秋の名月だから」 「なるほどね。では手伝おう」 「有り難うございます」 香穂子がほんのりと柔らかに微笑む。その笑顔のためならば、どんなことでも出来るのにと、吉羅は思わずにはいられなかった。 香穂子は吉羅がそばにいるだけで嬉しくて、言葉を上手く発することが出来ない程に緊張してしまう。 こんなにも緊張したのは、本当に初めてかもしれない。 喉がからからになって、楽譜に伸ばす指先が神経質に震えてしまう。 こんなことは今までなかった。 吉羅がそばにいると、男性的で何処か官能が漂うトワレの香りが鼻腔をくすぐってくる。 こんな香りを嗅いでしまったら、幸せ過ぎてくらくらするような気がした。 「…見つけたよ。ヴァイオリン用にアレンジされた楽譜だ」 吉羅は高い棚にある楽譜を取ると、香穂子に手渡してくれる。 「…有り難うございます…」 香穂子は、この楽譜がとても大切なものになることを強く予感しながら、受け取った。 「有り難うございます。本当に。とっても嬉しいです。では、レジに行ってきますね」 「…ああ」 香穂子はいそいそとレジに向かうと、会計をして、楽譜を受け取る。 嬉しくてギュッと楽譜を抱き締めたくなった。 吉羅が会計の直ぐ近くにやってくる。 「日野君、時間はあるかね?」 「ありますが…」 「だったら、お茶の時間を少しだけ付き合ってはくれないかね?」 吉羅の言葉に、香穂子は笑顔で頷いた。 少しでも吉羅のそばにいたい。 たとえそれが報われない想いであったとしても。 もう少しそばにいたい。 吉羅はその一心で、香穂子を高級ティールームに連れていった。 最高級のお茶と極上のケーキを食べさせてくれるところだ。 吉羅は余りケーキを好きではないが、こちらのティールームのレアチーズケーキだけは、食べることが出来た。 「こちらのレアチーズケーキは、最高級のチーズを使っているから、とても美味しいよ」 「だったら私もそれでお願いします。紅茶はロイヤルミルクティーで」 「解った」 吉羅は直ぐに注文をし、香穂子は嬉しそうな顔をして待っていた。 その表情が本当に愛らしくて、吉羅は目を細めてしまう。 こんなにも魅力的に笑う女性は、初めてかもしれない。 それだけ、香穂子の表情は魅力的だった。 「楽しみです。私もレアチーズケーキが大好きなんですよ」 香穂子のにっこりと微笑む顔に、吉羅はかなり癒されるような気がした。 こうしてふたりで同じ空間と同じ瞬間を共有しているのが、とても嬉しい。 こうしてそばにいるだけで、温かな感情を抱くことが出来るのは、本当に初めてだ。 吉羅はそれが嬉しくて、珍しくもにっこりと笑った。 「本当にこのレアチーズケーキ、とっても美味しいです! 本当に美味しくて、癒されます」 香穂子の元気な言葉に、吉羅のほうが癒されていた。 香穂子の笑顔も、表情も、何もかもを閉じ込めてしまえたら良いのにと思わずにはいられなかった。 なんて我が儘な所有欲。 こんなにもあからさまな感情を抱いたのは、勿論、初めてだった。 「日野君、ヴァイオリンの調子は如何かな?」 「まあ、まあです。これからもっともっと頑張らないとならないですけれど。今度参加するコンサートは、市民の皆さんにもっとクラシックを楽しんで親しんで貰えるように、無料コンサートなんです。だけどこれが登龍門的な役割もあるらしいので、益々、頑張らなければならないと思っているんですよ。ヴァイオリン担当は何人かいますが、みんなは仲間であるのと同時に、良い意味でライバルですから、切磋琢磨しなければなりません」 「是非とも頑張ってくれたまえ」 「はい。有り難うございます」 香穂子がにっこりと微笑むと、吉羅はそれだけで幸せでしょうがなかった。 「日野君、今度は私のためにヴァイオリンを弾いて欲しい。是非、聴かせてくれないかね?」 「はい。勿論!」 香穂子は間髪を入れずに、嬉しそうな顔をして返事をくれる。 それが吉羅には嬉しくてしょうがなかった。 「是非、月光を聴かせて貰いたいものだね。君には…」 「こちらこそ。聴いて頂けるだけでも嬉しいです。一生懸命、練習しますね」 「ああ」 香穂子の月光はさぞかし素晴らしいものになるに違いない。 吉羅は、厳かな月の光を思い出し、きっと香穂子を誰よりも輝かせてくれるのだろうと思わずにはいられなかった。 「今夜は仲秋の名月だからね。こんな日に、“月光”をヴァイオリンを弾くのが相応しいのだろうがね」 「そうですね。きっと…。いつも以上に音色が美しいものになっていると思います。月の光が後押ししてくれるでしょうから」 吉羅に聴いて欲しい。 香穂子は一生懸命練習をしなければならないと、思った。 「では一月後の満月の日は如何ですか?」 「そうだね。秋が深まって趣があるかもしれないね」 「はい。その日に演奏会をしましょう。だけど場所が難しいですね。臨海公園とかだと、ロマンティックかもしれませんが。夜景も綺麗ですし」 流石に場所を借りることは出来ないから、公園が最高のコンサートホールだ。 吉羅には、不釣り合いかもしれないが。 「夜空のコンサートか…。それも素晴らしいかもしれないね。楽しみにしているよ」 吉羅がフッと微笑んでくれる。 香穂子はそれだけで嬉しかった。 「頑張りますね。次の満月の日までに、ベートーベンの“月光”をしっかりと自分のものにしてみせますから」 香穂子が決意を秘めて言うと、吉羅は頷いてくれる。 ただまっすぐな吉羅への想いを音色に託そうと、香穂子は思った。 |