*Srendipity*

3


 いつの間にか眠っていたらしい。
 しかもゆったりとしたリズムで寝かされて、こころがかなり落ち着いている。
「…日野君、起きなさい」
 柔らかな低い声にハッとして目を開けると、吉羅がこちらを見つめていた。
「日野君、手早く支度をしたまえ。嵐も去ったからここを出る」
「はいっ!」
 吉羅の声で現実に引き戻されて、香穂子は慌てて飛び起きた。
 直ぐにバスルームに駆け込むと、手早くシャワーを浴び、身仕度を手短に済ませる。
 眠れないなんて思っていたのに、こんなにもぐっすり眠ってしまえるとは、思ってもみなかった。
 手早く日焼け止めと、BBクリームだけを肌に塗り、リップだけを唇につける。
 支度はそれでお終い。
 致し方がない。
 香穂子は直ぐにバスルームから出ると、吉羅に「お待たせしました」と慌てて答えた。
「では行こうか」
「はい」
 吉羅の後を、香穂子はひょこひょこと着いていく。
「…既にチェックアウトは済ませている。朝食はオーナーの計らいで、小さなお弁当を頂いたから、車の中で食べなさい」
「有り難うございます」
 香穂子はフロントにいたオーナーに深々と頭を下げて、「お世話になりました」と礼を言ってから、ペンションを出た。
 ペンションを出ると、台風一過という言葉がふさわしいぐらいに、澄み切った青空が広がっていた。
 だが空を楽しむ余裕はなく、車に乗り込む。
「さてと、この時間に出れば間に合うだろうね」
「本当に申し訳ありません。有り難うございます」
 香穂子は吉羅に改めて頭を下げた。
 本当に吉羅には感謝してもしきれないほどに世話になってしまった。
 どうやって感謝して良いかが解らないほどだ。
「本当に有り難うございます。あ、費用はちゃんと請求して下さいね」
「費用は出世払いで構わないよ。君にはこれからどんどん活躍をして貰わなければならないからね」
「…有り難うございます」
 吉羅暁彦にここまでさせてしまったと、大学の教授にバレたら、怒られてしまうかもしれない。
 香穂子はしゅんとなりながら、溜め息を吐くしかなかった。
 車に揺られながら、お腹がすいてきたので、香穂子は頂いたお弁当を食べることにした。
 お弁当は玄米のおにぎりに野菜の煮物と卵焼きという、ごくごくシンプルなものだ。
 香穂子はそれを食べながら、オーナーの優しい心遣いに感謝をしていた。
 恐らくは吉羅だったからこそしてくれたのだろう。
「吉羅さんもお弁当は…、無理ですね…」
 香穂子の言葉に、吉羅はハンドルを握りながら苦笑いを浮かべた。
「…そうだね…。この先のドライブインで少しだけ休憩を取るから、そこで食べることにするから心配しなくて良い」
「はい」
 大人の男の余裕なのか、吉羅の行動はとても好ましい。
 こうした落ち着いた男性が間近にいるのは初めてだから、香穂子のときめきは更に強いものとなった。
 ドライブインで少しだけ休憩を取った後は、ひたすら横浜を目指す。
 吉羅の運転は巧みで、香穂子はその心地好い揺れに、いつしか眠りに落ちていた。

「日野君、横浜に入るからそろそろナビをしてくれないかね」
 吉羅の声にハッとして、香穂子は起きた。
「あ、はいっ!」
 香穂子は周りの風景と、高速の表示で何処であるかを確認すると、直ぐにナビを始めた。
 吉羅は香穂子の言う方向に進んでくれ、スムーズにスタジオに向かってくれる。
 よく見慣れた景色が見えてきたところで、香穂子は寂しい気分になる。
 吉羅とはこれでお別れなのだ。
 それが痛くてしょうがなかった。
 ほんの少し関わっただけなのに、昨日の今頃までは、こうして会話をするような関係ではなかったのに、もう こんなにも心が求めてしまっている。
 こんなことは未だかつてなかったことだ。
 吉羅とは離れたくない。
 もう少しだけで良いから一緒にいたい。話をしたい。
 香穂子は寂しい気分になり、泣きそうになった。
 車はゆっくりと減速をし、とうとうスタジオの前までやってきた。
 静かに停車し、運転席と助手席ドアが開く。
「有り難うございます」
 あっという間に着いてしまった。
 香穂子はのろのろとしながら車から降りると、吉羅が出してくれた荷物を出す。
「本当に有り難うございました。リハーサルにも無事に間に合いました」
「それは良かった」
 吉羅はクールな表情で頷くと、香穂子を見る。
「リハーサル、しっかりと頑張りたまえ」
「はい。有り難うございました」
 香穂子はもう一度深々と頭を下げると、吉羅を見る。
 離れたくない。
 だが行かなければならない。
 香穂子は背筋を伸ばすと、まっすぐスタジオへと入っていった。
 これで吉羅に顔を見られることはない。
 香穂子は切なくて一筋だけ涙を零した。
 住む世界が違う男性だから。
 新人のヴァイオリニストがどうこう出来る相手ではないから。
 香穂子は切なくそれを思いながら、ただ歩くしかなかった。

 香穂子が見えなくなるまで見送った後、吉羅は車に乗り込み、溜め息を吐いた。
「…参ったな…」
 吉羅はもう一度溜め息を吐くと、前髪をかき上げる。
 自分よりもかなり年下の相手に夢中になるなんて、思ってもみないことだった。
 香穂子のことは以前から知っていたし、初めて聴いた演奏で興味を持ったのは事実だ。
 奏でる柔らかく温かな音色に、その清らかさと明るさを持った姿に、とても惹かれた。
 だが自分ではそれを認めたくはなかった。
 今までは。
 香穂子をコンサートに招いて演奏させながらも、惹かれていたことを認められなかったのに、僅か1日弱で、認めざるをえなくなった。
 濃密でどうしようもなく幸せな時間だったのは間違ない。
 本当にこれほどまでに惹かれた相手はいないのではないかと思うほどに、恋に落ちていた。
 自分ではどうしようもないほどに、香穂子を好きだ。
 恋情を上手くコントロールすることなんて出来ない。
 本当に冷静さを欠いていると吉羅は思った。
 また香穂子に逢いたい。
 逢いたくてたまらない。
 こんなにも愛した相手は、香穂子が初めてだ。
 なのに。
 既に自分は香穂子を愛する資格がない。
 最初から喪っているのだ。
 吉羅は溜め息を再び吐くと、自宅がある六本木方面へと、車を進めた。

 吉羅のことばかり考えてしまう。
 演奏している時も、食事をしている時もいつも。
 香穂子は我ながらどうして諦めることが出来ないのだろうと思いながら、溜め息を吐いた。
 吉羅暁彦に恋をするなんて、本当に無謀以外にない。
 吉羅に恋をしても、冗談としてしか受け取っては貰えないだろう。
 香穂子はそう思うだけで、胸の端がチクチクと痛んだ。
 吉羅のことを考えながら歩いていたからかもしれない。
 吉羅が少し先を歩いているのが見えた。
 だが、その横には、艶やかで美しい女性が歩いているのが見える。
 ふたりで並んで歩いている姿は、本当にお似合いだった。
 しかもお互いに微笑みあいながら、話をしているのが見える。
 吉羅の恋人であるのは直ぐに解った。
 香穂子はふたりの姿をこれ以上は見つめられない。
 香穂子は、ふたりから逃げるように、楽器店に飛び込んだ。
 楽譜のコーナーに行き、探しているものを探そうとする。
 だが、少しも上手くはいかなかった。
 イライラと落ち着きがないからだ。
「…良かったら手伝おう」
 よく響く低い声に顔を上げると、そこには吉羅が立っていた。


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