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生物学上の父親。 これ以上の屈辱は他にないのではないかと香穂子は思う。 こんなにも痛い台詞は他になかった。 まるで香穂子に頬をぶたれたような気分だ。 「…生物学上…ね…」 DNAでは明らかな結果が出ることを、香穂子は勿論知っているからだろう。 「…今まで、ふたりで支えあって生きてきました。だから…、私たちは二人だけの家族です。私が父親役と母 親役をずっと兼ねてきました。だから…これからもそうしていきます。この子には父親なんていりません」 香穂子はキッパリと言うと、吉羅を真っ直ぐ見た。 痛い事実だと吉羅は思う。 香穂子が妊娠をし、出産から現在に至るまで、吉羅はその事実を知らなかったのだから。 香穂子に上手く反論することなんて、本当は出来やしない。 その上、吉羅にはそんな資格はないのだから。 だが、知ってしまった以上、ふたりに再会してしまった以上、もう放したくはなかった。 本当は、こんなにも回りくどいことなどせずに、香穂子と息子を自宅に連れて帰りたかった。 「…私は、君達を正式に私の家族として迎えたいと思っている…。暁愛を認知したい」 吉羅はなるべく誠実に響くように、言葉を選んで呟く。 香穂子には精一杯の誠意を見せたかった。 だが、香穂子は頷かなかった。 静かに吉羅を見ている。 何も話さず、苦しげに瞳を伏せていた。 吉羅が認知をしてくれる。 しかも家族になりたいと。 だがそれは、恐らく暁愛が欲しいからに過ぎないような気がする。 吉羅にとっては、香穂子はおまけに過ぎないのだろう。 だが、いつか息子に飽きてしまった時、ふたりそろって吉羅から見限られることがあるかもしれない。 それは余りにも苦しい。 次に吉羅に捨てられたら、どうして良いのかが分からなくなる。 そう考えると、香穂子は切なくて動けなくなった。 「…香穂子…、私は君達ふたりにずっとそばにいて欲しいと思っている。息子とふたりで、私の元に来ないか?」 吉羅の元に行く。なんて魅力的な申し出だ。 だが、今はまだ素直に受け入れることが出来なかった。 「…あなたを息子で縛るようなことはしたくないの…。いずれ、みんなが不幸になってしまうから…」 香穂子は目を伏せると、吉羅をまともに見ることが出来ない。 「…私は縛られるとは思わない。君にも、息子にも」 香穂子が顔を上げると、吉羅はいつも以上に力強い瞳を向けていた。 信じて欲しいと。 だが、今の香穂子にはそれは難しい。 言葉に詰まっていると、吉羅はフッと笑みを浮かべた。 「…焦らなくて良い。私は君の良い返事を待つつもりでいるから」 「…有り難うございます…」 香穂子は溜め息を吐くように言うと、吉羅を見つめた。 「…それと、君たちが住んでいたアパートだが、既に解約をしている。君はここしか住むところはない。ずっといても構わない」 まさか吉羅が、アパートの契約を勝手に解除をしているなんて、思ってもみなかった。 香穂子は唖然として吉羅を見る。 確実に外堀を埋められてしまっている。 「勝手にそんなことをしないで下さい!」 香穂子がやや興奮ぎみに怒ったが、吉羅は何でもないかのようなクールな表情のままだ。 「…私たちはずっと二人だけで肩を寄せあって頑張ってきました。だから、今更、誰かに手を差し延べて貰うのは…」 「私は“誰か”じゃない。暁愛の父親だ」 吉羅は不快そうに眉を寄せて、香穂子を見る。 「…かつての愛人の不始末をあなたが処理をすることは…ありません…。あなたには、相応しい女性との相応しい未来がある筈です。そこには、私も、暁愛は必要ありません。いてはならないんです…。病気が治ったら…、ここを出て行きます…。それまでに仕事を探して、うちも探します…。母子寮にあたれば、恐らくは直ぐに見つかると思いますから」 香穂子は唇を噛み締めると、吉羅と目を合わせないようにした。 「…君がここを出て行くことを認めないと言ったら…?」 吉羅の言葉に、香穂子はハッとして息を呑んだ。 「…認めない…なんて…そんなこと…勝手だわ…」 「勝手じゃない…。正当な権利だ。暁愛は私の息子だ。顔を見れば直ぐに分かることだからね。君が息子を連れて何処かに行くというのであれば、私は裁判に訴えても構わないと思っているよ」 吉羅の厳しい表情に、香穂子は背筋が凍り付く想いがした。 吉羅ならやりかねない。 香穂子から暁愛を取り上げてしまうのは、課を短なことだろう。 もし暁愛まで取り上げられてしまったら、どうして良いか途方に暮れる。 恐らくは生きてはいけないだろう。 暁愛は、まだまだ小さい。離されて最初は母親を恋しがるだろうが、いずれは忘れてしまうに違いない。 “愛人の息子”という後ろ暗いレッテルを貼られたままで。 「…誰も暁愛を私から奪うことなんて出来ないわ…」 香穂子が絶望に満ちた声で呟くと、吉羅はうんざりしたように目を閉じた。 「…誰も…君から息子を奪い去るとは言ってはいない…」 「…あなたは取り上げるようなことを言ったもの。…“愛人の息子”というレッテルを貼られて経済的に豊かに暮らすのと、父親はいなくても経済的に恵まれてはいなくても、母親とふたりでのんびりと暮らすほうが…、暁愛は幸せなんです」 香穂子は目を真っ赤に腫らしながら、吉羅を睨むように見つめた。 「…私は…、君達ふたりを引き離すつもりは毛頭ない…。君達は、一緒にいるべきだと思っているからね。たた、ふたりそろって、私は面倒をみたいと思っているんだよ…」 吉羅は香穂子を柔らかいまなざしで見つめてくる。 危険だ。 吉羅の申し出を受け入れて、また捨てられてしまったら。 そればかりがトラウマになってしまう。 香穂子は泣きそうになりながら、吉羅を見た。 「…君が受け入れられないのは分かる。私が君を…捨てた…事実はあるのだからね…。正確に言えば、君に見限られた…のかもしれないがね…」 吉羅は落ち着いた声で言いながらも、何処か苦痛に満ちた表情を浮かべていた。 「…吉羅さん…。…私…」 「解っている。君がきちんと受け入れることが出来るまでは待つつもりではいるよ…。だから、じっくりと考えて欲しい。考える間だけでも、君たちの面倒を見させては貰えないかな?」 吉羅の申し出はかなり寛大で、香穂子はもう少しのところで頷きそうになる。 切なくて甘い感覚だ。 吉羅は、香穂子の頬に指先を伸ばす。 こんなにも愛に満ち溢れた瞳で見つめられたら、もう一度、吉羅に恋をしたくなってしまう。 もう一度、吉羅を信じてしまいたくなる。 「ゆっくり考えるんだ、香穂子」 吉羅に頬のラインを撫でられた瞬間、緊張の余りに躰がビクリと震えてしまった。 泣きそうになるような切ない感覚に、香穂子は躰を強張らせた。 吉羅は、それを拒絶に受け取ったのか、一瞬、指先を引く。 吉羅からの仕打ちを思い出してしまい、香穂子は躰を固まらせた。 「…君が私を受け入れてくれるように頑張るしかないようだね…。私は、そうなるように努力するよ。君達にはずっとそばにいて欲しいと思っているからね」 吉羅は静かに言うと、香穂子から離れる。 「出来る限り、君達を訪ねて行くことを許してくれ。今はそれだけで良いから」 「…解りました…」 香穂子は静かに言うと、吉羅の背中を見つめる。 また恋心が燃え上がった。 |