*追憶*

13


 吉羅と香穂子は、かつて芸術家とパトロンがよく結ぶような、“愛人関係”にあった。
 吉羅は、身寄りのない香穂子を経済的に面倒を見てくれ、香穂子はその大きな行為に応えるために、その躰を差し出した。
 ここまではよくある愛人関係。
 だが違っていたのは、香穂子には総てを捧げて壊れてしまっても構わないという、吉羅への愛があった。
 吉羅も、香穂子を本当の意味で恋人として扱ってくれていた。
 吉羅の高級マンションで共に生活をし、休日は一緒にいられた。
 忙しい男性だが、それでも香穂子にはなるべく時間を割いてくれていた。
 だからこそ愛されていると錯覚してしまった。
 本当は愛されてはいなかったというのに。
 吉羅と同じパーティに出た時のことだ。
 香穂子はヴァイオリニストとしてパーティに呼ばれ、吉羅は招待客のひとりだった。
 同伴してパーティに行くことはなく、ふたりはバラバラで参加をした。
 吉羅と同棲生活をしていることは、秘密にしていたからだ。
 吉羅としては、年端のゆかない娘と同棲生活を送っているなんて、財界人としては知られたくはなかったのだろう。
 吉羅は美しい女性を同伴し、常に気を配っていた。
 本当に綺麗な女性で、吉羅の本命は彼女であることは、直ぐにでも理解することが出来た。その証拠に香穂子には目もくれなかったのだから。
 そして偶然にも、中庭でふたりが仲睦まじそうに抱き合っているシーンに遭遇してしまった。
 吉羅は、香穂子に気付いていたが、本物の恋人とは離れようとはしなかった。
 そこで解ったのだ。
 吉羅は、香穂子を愛してはいないということを。
 終わりだと思った。
 行くところがないのは解っている。
 だが棄てられるのを待つよりはマシだと思った。
 取りあえずは当座の生活費はあるし、アパートも友人に頼んで保証人になって貰えば借りられる。
 香穂子は吉羅よりも先にマンションに帰り、出て行く支度を始めた。自分が持ってきた荷物だけを詰め込んで。
 だが、支度をしている最中に吉羅が帰ってきたのだ。
「何をしているんだね?」
 吉羅は香穂子を見るなり、忌々しい表情を浮かべた。
「ここを出ます」
 香穂子が早口でまくし立てるように言うと、吉羅は不機嫌そうに目を細めた。
「出さないと言ったら?」
「…それでも…、出て行きます…」
 香穂子は決意は変わらないとキッパリと言うと、吉羅はいきなり抱き上げてきた。
「あ、暁彦さんっ!?」
「君は私のものだ。私から離れるのは、許さない」
 吉羅は低い声で呟くと、香穂子をそのままベッドへと連れていき、激しさと乱暴さがいりまじったセックスをしてきた。
 恐らくはこの時、息子を授かったのだろう。吉羅には珍しく勢いに任せて愛し合ってしまったせいで、避妊していなかったから。
 吉羅に激しく抱かれた後、一旦は出て行くことを止めようとした。
 だが、朝になり、総てが変わってしまったのだ。
 あの女性から電話があり、吉羅は総てを置いて、逢いにいこうとしたのだ。
「…行かないで下さい…! 彼女のところに!」
「わがままを言うんじゃない…。私は君の所有物ではないんだ。彼女に逢おうと逢うまいと、君には関係ないことだ」
 吉羅の言葉は余りにも冷たくて、香穂子はその場で崩れ落ちてしまうほどに痛みを感じた。
 やはりそばにはいられない。
 いてはならないのだ。
「…吉羅さんは…やっぱり私のことを愛して下さってはいないんですね…」
 絶望の言葉を呟くと、吉羅は更に香穂子を睨み付ける。
「君と議論をしている場合じゃない」
 吉羅は半ば苛々としながら玄関に向かう。
 議論をしても無駄だ。
「…解りました…。ここを出ます…」
「出て行きたければ出て行きなさい。ただし、君が出来るのであれば…。私は今夜は帰っては来ないから、そのつもりで」
 吉羅は冷たく言い放つと、そのまま行ってしまった。
 終わりだ。何もかも。
 香穂子は、吉羅を呆然と見送った後、一旦、バッグから出した荷物を取りまとめた。
 家から出ようとして、セキュリティが掛けられて出られなくなっていた。
 吉羅がやったのだろう。
 逃げないために。
 香穂子は、直ぐに管理人に電話を掛け、セキュリティの解除方法を聞き出した。
 そして家を出たのだ。

 思い出しただけでも胸が痛い。
 それから友人に助けを借りて、香穂子は今のアパートに移り、ヴァイオリンとは関係のない派遣の仕事をして食い繋いだのだ。
 あれからヴァイオリニスト「日野香穂子」は表舞台から姿を消したのだ。
 パトロンである吉羅暁彦から身を隠すために。
 香穂子は溜め息を吐きながら目を閉じた。
 もうあんな想いをしたくはない。
 あんな辛い日々を送りたくはなかった。
 だからこそ、吉羅の申し出は受けることが出来なかった。
 香穂子は、妊娠中から苦労をして育てた息子の様子を見に行く。すっかり安心しているようだ。
 本当に寝顔までも父親によく似ている。
 まるで吉羅だけの子どものようだ。香穂子に似たところは何処もないと言えるほどだ。
「…あきちゃん…、お風呂に入ろうか…? このまま寝たらダメだよ…」
 香穂子が静かに起こそうとすると、息子はぐずる。
 仕方がなく、入浴は明日にすることにした。

 朝から息子と一緒に入浴をし、香穂子は朝食を作ってやった。
「ママのごはんうれちい」
 暁愛は本当に嬉しそうにごはんを食べてくれたのが、とても嬉しかった。
 食事が終わり後片付けをしていると、インターフォンが鳴り響いた。
 インターフォンを覗き込むと、吉羅の秘書を筆頭に大荷物を持った運送業者がいた。
「…あ、あの、これは…」
「CEOから荷物を入れるように頼まれましたから持ってきましたよ」
「どうぞ」
 香穂子が入り口のドアを開けると、秘書の指示のもとで大量の荷物が運び込まれる。
「こ、これは、何の荷物ですか!?」
 余りにもの量に香穂子がうろたえていると、秘書は冷静なまなざしを向けてくる。
「CEOからですわ。総てお使いになるようにと、託かっております」
「…あ、あの…。こんなに荷物を使い切ることなんて出来ないです」
「良いのですよ。たっぷりと使って下さい」
 秘書はピシャリと言うと、香穂子に軽く頭を下げる。
「では私たちはこのあたりで」
 まるで風のようにやってきたかと思うと、直ぐに帰ってしまった。
 大量の荷物。
 どれも有名な百貨店からだ。
 この騒ぎに、息子は嬉しそうにリビングにやってくる。
「ママ! しゅごいっ!」
「本当に凄いね」
 香穂子は半ば呆れるように言うと、この荷物をどうしようかと思案にくれていた。
 香穂子が溜め息を吐いて見ていると、電話が鳴り響く。
「…はい」
「香穂子か…。荷物を是非受け取ってくれたまえ。暁愛のものだ。洋服とブロックの玩具だ」
「…こんな大量には困ります…本当に吉羅さん…」
「良いから使わせてやって欲しい」
 吉羅は引く気はないとばかりに冷静に言う。
「ですが、これはやりすぎです」
「良いんだ。夕方には君のところに向かうから、そのつもりで。暁愛とブロックで遊ぼうと思ってね」
「…吉羅さん…」
 吉羅は本気だ。本気で暁愛の父親になろうとしている。その心掛けは嬉しいが、やはり棄てられた時のことを想像して切なくなる。だが、拒めない。
「香穂子?」
「…解りました。食事を準備して待っていますから…」
「…ああ。楽しみにしている。じゃ」
 香穂子は静かに受話器を置くと、溜め息をひとつだけ零した。


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