*追憶*

14


 吉羅に食事を作るのは久し振りだ。
 一緒に暮らしていた頃は、たまに作っていた。
 香穂子がヴァイオリニストの卵であることを知っていてか、余り家事はさせないようにしてくれていたのを思い出す。
 あれは吉羅流の気遣いなのだったのだ。
 パトロンとしての気遣いだとあの頃は思っていた。香穂子は、ある意味吉羅にとっては商品であったから。
 今もそこに男女の愛情があったかどうかは解らない。
 それでも吉羅に気を掛けて貰えていたのは事実だろう。
 ずっと働きながら息子を育てていたから、料理は庶民的で余り手が掛からないものが得意だ。
 吉羅のためにあえて難しい料理を作っても仕方がないと自分に言い聞かせて、香穂子は食事を作った。
 息子にも食べられるようにと、クリームシチューにサラダ、そして甘いデザート。デザートは食べ易いプリンにした。
 息子と遊びながら、ゆっくりと準備をして吉羅を待つ。
 お洒落なんてする必要はないと思いながら、薄いブルーのサマーワンピースを着て、髪を綺麗に上げた。
 化粧まではしなかったが、せめて綺麗でいたいと想い、リップグロスだけは入念に塗り込んだ。
 夕方になるとドキドキしてしまい、喉がからからになるほどに渇いてきた。
 こんなに緊張するなんて思ってもみなかった。
 まだ、吉羅のことを愛しているという自覚はある。
 だが、かつてよりは愛は薄らいでいると信じていたのに、そうではなかったようだ。
 それどころかあの頃よりも、ロマンティックで少女な気分になってしまっている。
 恋において、これほどまでに自分がロマンティストであるとは、香穂子は思ってもみなかった。
 吉羅のことをこんなにも純粋に想っているなんて、本当に思いもよらないことだった。

 吉羅は手早く仕事を済ませた後、会社を出て、香穂子がいる横浜のマンションへと向かう。
 香穂子と息子が待っている。
 それだけで本当に驚く程の集中力で仕事を片付けることが出来た。
 ふたりが常に自分が帰る場所にいれば、こんなにも充実した幸せはないのにと、吉羅は思わずにはいられない。
 香穂子と息子は、吉羅にとっては、幸せと愛の象徴に違いなかった。
 いつもふたりをそばに置きたい。
 そのためには、先ず、香穂子に信じて貰わなければならない。
 吉羅にとっては本当に大切な女であるから。
 そのことをきちんと伝えたかった。
 吉羅は途中で花屋に寄り、花束を作って貰う。
 夏と太陽に恋をした向日葵と百合を組み合わせて貰う。
 百合のように、芯が強くて美しい香穂子をイメージに。
 向日葵は、香穂子という名の太陽に恋をしてしまった自分をイメージに。
 それと外国製のチョコレートを一緒に贈ることにする。
 些か月並み過ぎて、恥ずかしいイメージはあるが、香穂子が喜んでくれるならばそれで良い。
 香穂子は月並みなロマンティックが大好きだったから。
 だから、ここは月並みなロマンティックに乗ってみようかと思った。

 香穂子は食事の準備をしながら、ときめく余りに心臓がどうにかなりそうな気がした。
 頭がくらくらしてしまうほどに緊張とときめきがマックスになる。
 過度の期待はしてはならないのは解っているのに、香穂子はそうせずにはいられなかった。
 落ち着かずにいると、息子が不思議そうにこちらを見上げてくる。
「ママ、何だか変!」
「へ、変かなっ…。ママ、一生懸命、頑張っているんだけれどねー」
「ママ」
 息子に苦笑いを浮かべながら抱き寄せると、抱き付いてきてくれる。
 この子を手放すなんて考えられない。
 柔らかくて温かな存在。
 もし、吉羅が引き離すようなことをするならば、本当に耐えられない。
 香穂子は溜め息を吐くと、息子を更に抱き寄せた。
 とにかく、吉羅に甘いときめきばかりを抱いていても仕方がない。
 もしかしたら息子を取り上げられてしまうかもしれないのだから。
 自分の中に生じるときめきを押さえ付けるように努力をしながら、香穂子は吉羅の到着を待った。
 暫くして、インターフォンが部屋に響き渡り、香穂子は心臓が飛び出してしまうほどに緊張しながら出る。
 スイッチを押すと、やはり吉羅だった。
「香穂子、私だ」
「はい。今すぐセキュリティを解除しますね」
「有り難う」
 香穂子はインターフォンの受話器を一旦置くと、指を震わせながらセキュリティを解除する。
 こんなにも甘い緊張が断続して起こるのは久し振りだ。
 吉羅と一緒に暮らしていた頃は、帰るコールはしてくれていたが、マンションのセキュリティは自力で解除していた。
 だから何処か新鮮な気分だった。
 程なくしてもう一度インターフォンが鳴り、吉羅が玄関先に立っているのが確認出来る。
 息子とふたりで玄関に向かい、吉羅を迎入れた。
「こんばんは」
「こ、こんばんは…」
 吉羅はフッと微笑むと、チョコレートと花束を差し出してくれる。
 こんなに甘くてロマンスが溢れたプレゼントを貰えるとは思わなくて、嬉しくて香穂子は泣きそうになる。
「…有り難うございます」
「今日は夕食をご馳走になるからね」
 吉羅は甘く低く響く声で呟いた後、息子に視線を向ける。
「おじちゃ、お花とこれは何?」
「チョコレートだよ」
「あきちゃん、チョコだいしゅきっ!」
 飛び上がって喜ぶ息子に目を細めた後、吉羅はためらいなく抱き上げる。
 暁愛は、本当に嬉しそうに歓声を上げ、吉羅に甘える。
「あきちゃん、こんな高い抱っこ初めてっ!」
 いつも香穂子か、保育園の保母にしか抱かれないから、高い抱っこはしてやれない。
 初めて男の人に、しかも父親に抱き上げられて、暁愛の興奮は最高潮に達していた。
「高いのが好きなのかな? 君は」
「だいしゅきっ!」
「そうか」
 吉羅は吹き抜けているリビング部分に行くと、息子を肩車した。
「うわっ! しゅごっ! もっと高いっ!」
 興奮する息子を香穂子は複雑な気分で見つめる。
 このままの状態が永続的に続けば良いのに。
 だが現実にはそうはいかないのだ。
 吉羅がずっと息子や香穂子を愛してくれる保証は何処にもない。
 それどころか、今は香穂子のことを愛してくれていない可能性のほうが、かなり高いのだから。
 吉羅に肩車をされて喜んでいる息子を目の当たりにしながら、香穂子は眩しくて苦しい想いを滲ませた。
 夕食の準備に入りながら、こんな奇跡がずっと起こるはずがないことを、感じていた。

 吉羅が息子と遊んでいる間、香穂子は夕食の準備に入ってしまった。
 どこにでもあるような家族の幸せな光景。
 かつての吉羅は、そんなものは要らないと思っていた。
 だが、こうして穏やかな幸せな時間を持つと、自分が何よりも欲しかった時間ではないかと思う。
 憬れても欲しても、手に入れることが出来ないから、諦めただけの話なのだ。
 香穂子がそばから消えてから、そんなものは益々必要とはしなくなっていた。
 だが、今は違う。
 どうしても欲しい。
 どうしても手に入れたい。
 香穂子と息子と三人で暮らすことが出来れば、これほど嬉しいことはない。
 香穂子と再会してから、燻っていた恋情が再び蘇る。
 くたくたになるまでに仕事をして、ひとり家に帰ってきて、必ず思い出すのは、香穂子のことだった。
 こうしてすぐそばにいることを、ずっと願っていたことを、恐らく香穂子は知らないだろう。
 このチャンスをみすみす逃したくはないと、吉羅は強く思った。


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