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愛や恋に臆病になってしまっている。 吉羅を見つめながら、香穂子はそれを一層強く感じていた。 「週末は三人で楽しもう。君達とゆったりと過ごしたいからね」 吉羅は以前とは違った誠実を見せてくれている。 香穂子は、吉羅が差し出してくれる誠実を、素直に受けとりたいと思う。 だが、それは上手く出来なかった。 過去の想い出が鎖のように縛り付けているからだ。 「焦らなくて良い。君はゆっくりと考えれば良いんだ。ただ私は君達を必ずそばに置く。宣言する」 吉羅はまるで獲物を見るように、香穂子を見つめてきた。 解っている。 一度、欲しいと思ったものは必ず手に入れる。それが吉羅暁彦だ。 手に入れた後、自分に利益をもたらさなければ切り捨てる。 それもまた吉羅暁彦の特性だ。 だから踏み込めないのだ。 「…吉羅さん、私…」 香穂子は唇を噛むと、切ない気分で俯く。 「…だから、そんなにも思い詰めなくて良いんだ」 まるで小さな子供にするように、吉羅は香穂子の頭を優しく撫で付けた。 吉羅は時計を見ると、立ち上がる。 「そろそろ行かなければならない。暁愛に挨拶をして帰るよ」 吉羅は、すっかり安心しきって眠っている息子の元に向かう。 「おやすみ。私は帰るよ」 柔らかな小さい頬を撫でながら、吉羅は目を細める。 そこには愛以外になにもない。 世界で一番素晴らしい愛の形に思えた。 香穂子はふたりの様子を長めながら、誰もふたりの愛を邪魔することが出来ないことを悟る。 それが母親である香穂子であってもだ。 「では帰る。週末に三人で過ごすことを楽しみにしているから」 「はい。暁愛も楽しみにしていると思います」 香穂子が吉羅を玄関先まで送っていくと、不意に抱き寄せられた。 「…あ…っ!」 かつて抱き締められた時よりも力強い抱擁に、息が止まってしまうのではないかと思った。 こんなに苦しい抱擁はない。 いきなり抱き締められて、その官能的で艶やかな香りが鼻孔を包み込んできた。 息苦しいのに、どうしてこんなにも幸せなのだろうかと、香穂子は思う。 吉羅の温もり。 今まで忘れ去れていた。 香穂子は抵抗することも出来ず、ただその抱擁に満たされていることしか考えられなかった。 「…吉羅さ…」 吉羅は香穂子の瞳を熱情的に見つめると、頬を包み込んできた。 温かくて大きな手のひらに、総てを包んで欲しくなる。 吉羅の顔をゆっくりと近付いてきたかと思うと、そのまま唇を重ねられた。 「…んっ…」 かつてのように情熱的ではなかったが、静かに熱いキスだった。 唇を重ねただけなのに、全身が熱く疼くのを感じた。 唇を離されて、吉羅に見つめられる。 「…君を諦める気は更々ないから、覚悟をしておきたまえ」 「吉羅さん…」 愛の告白ではなく、ただの所有慾であることは、香穂子にも充分解っていることだ。 だが、その所有慾に縋ってしまいたくなるぐらいに、吉羅を欲しているのは事実だ。 こんなにも愛していると、改めて感じる。 「…じゃあ週末に…。明日はまた先生が君の様子を見に来るから」 「…はい。有り難うございます」 吉羅とのキスの余韻で、頭がぼんやりとしてしまっている。ただ素直に返事をすることしか出来なかった。 吉羅が帰った後、香穂子はぼんやりとその場を立ち尽くした。 こんなにも甘くて幸せに感じながらも、何処か切なさを感じる。 香穂子は触れられた唇を指先で触れる。 すると背筋がぞくりとするほどの官能が、全身を駆け巡った。 好きだ。 大好き。 愛している。 ありとあらゆる愛の感情が、香穂子のこころに蓄積されていく。 吉羅から逃げられないと、香穂子は思った。 吉羅は車に乗り込むと、フッと熱い溜め息を吐く。 香穂子の唇は、記憶のなかよりも、更に柔らかくて甘いものだった。 触れただけで、このままベッドに連れ去りたくなった。 こんな感情を抱かせるのは香穂子だけだ。 今までこんなにも欲望を感じさせる女はいなかった。 今夜の香穂子は美しく可愛いかった。 玄関先で見つめられた時、余りにもの愛らしさに抱き締めてしまっていた。 このまま香穂子を腕のなかで閉じ込めたい。 香穂子を息が止まるほどに抱き締めて、自分だけを見つめさせたい。 そんなエゴを感じてしまいたくなるぐらいに欲しかった。 週末は三人で出掛けられる。 それが何よりもの楽しみになっていた。 週末、水族館に行く朝、香穂子は3人分のお弁当を作ることにした。 ひょっとすると吉羅は気に入ってはくれないかもしれないが、暁愛と出掛ける時はいつもお弁当を作っていた。 節約というのが一番の理由ではあるが、香穂子の作ったお弁当を美味しそうに食べてくれる息子が一番の理由だった。 「ママのごわんだいしゅきっ」 「有り難う、あきちゃん」 お弁当を作り終わり、息子に食事をさせた後で、香穂子は少しだけ化粧をする。 一緒にいた頃も、化粧はあまりしなかった。吉羅が余り良い顔をしなかったからだ。 そのせいか薄化粧の習慣が付いてしまった。 今日も香穂子はほんのりと化粧をしたが、そんなに色濃くは出来なかった。 化粧が終わった頃、吉羅がやってきてくれた。 「…香穂子、暁愛、行こうか」 「はい。お願いします」 香穂子は片手に荷物を持ち、片手で息子の手を引く。 「…荷物は大変だろう。私が持とう」 「有り難うございます」 吉羅はお弁当や暁愛のおもちゃなどが入ったバスケットを持ってくれる。 これはかなり助かったが、流石に吉羅には似合わないスタイルだった。 香穂子がバギーカーを出そうとすると、吉羅に制される。 「チャイルドシートとバギーカーは用意しているから」 「ちゃんとありますから」 香穂子が焦るように言うと、吉羅は軽く睨み付けてくる。 「私は息子には最高のものを与えたいからね」 「吉羅さん…」 吉羅の言葉に、香穂子は表情を僅かに歪める。 香穂子も最高のものを与えたかった。だが経済力でどうしてもそれは叶わなかった。 だからせめて自分で出来る最高のものをと思ったのだ。 リサイクルの古びたものかもしれないが、香穂子にとってはそれが出来る限りのことだった。 「…そんなに甘やかせないで下さい。元の生活に戻ることが難しくなりますから」 「元の生活になんて戻らなくて良いんだ」 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子を牽制するように見つめた。 「…そういうわけにはいかないですから…。吉羅さんは良くても…私は、お世話になるわけにはいきません…。早く元気になって、独り立ち出来るように頑張りますね」 香穂子が笑顔でやんわりと言ったにも関わらず、吉羅はかなり不機嫌そうに眉を寄せた。 「…そんなことは考えなくて良いんだ。まだドクターからはお許しは出ていないからね」 吉羅はエレベーターに乗り込み、香穂子たちもそれに続いた。 こうして気遣ってくれるのは嬉しいが、それが何処まで続くのか、香穂子には不安になる。吉羅が何処まで本気でいてくれるのかも解らないからだ。 駐車場の階でエレベーターを降りて、車へと向かう。 三人で乗り込んだ後、暁愛は興奮する余りに明るい声を上げていた。 子供の無邪気な声を聞いているだけで、かなり気分は和む。 息子はやはり宝だ。かけがえのない。 暁愛がいたから生きて行けたのだ。 香穂子はくすりと微笑むと、息子を見守っていた。 |