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車に揺られながら、香穂子はこれからのことを考えていた。 かなり躰は良くなっている。 これは自分でも実感している。 こんなにものんびりとさせて貰ったのだから、当然だ。 健康な頃と何ら変わらず、もう完治してもおかしくない。 だが、ドクターからはお許しは出てはいなかった。 健康な頃よりも元気にぐらいだ。 まだ静養しなければならないと、医師にはくれぐれも言われてはいるが、そんなものは必要ないような気がする。 ふと、静養が必要な人間が、水族館になど行って良いのだろうかと、香穂子は思った。 「…吉羅さん…、私…、水族館になんて行っても良かったのでしょうか…?」 「…どうしてかね…?」 「先生からじっくりと静養するようにと言われているのに、こうして遊びに行って良いものかと、ふと思っただけなんです…」 香穂子が怪訝そうに言うと、吉羅は僅かに唇を歪めた。 「先生にはきちんと確認を取っているから心配しなくても良いんだ」 吉羅は苦々しい声でしっかりと言うと、ステアリングを握り締めた。 「今日は楽しもう」 「はい…」 今のところは休戦ということなのだろう。 香穂子は頷くと、それ以上は言わなかった。 本当は医師から完治の報告を受けている。だがそれを香穂子に言うわけにはいかなかった。 言ってしまえば、香穂子は仕事を探して、出て行ってしまうのは解っていたからだ。 出て行って欲しくはなかった。 このまま側に置いて、一生面倒を見るつもりだったから。 香穂子を離さないためには、こうしてとどまるように仕向けることしか、今は出来なかった。 「無理をしなければ多少は遊んでも構わないらしいからね」 「解りました」 香穂子は頷くと、小さな溜め息を吐く。 何処にも行かせない。何処かへ行ってしまわないようにするしかない。 吉羅は、香穂子を捕らえるように一瞥を投げた後、車で水族館へと向かった。 「うわあ! おしゃかなしゃんっ!」 暁愛は大きな水槽を見るなり、歓声を上げた。 「楽しいかな?」 「たのちい!」 「もっと高いところで見ようか?」 「うん!」 吉羅は愛しげに息子を見つめると、抱き上げて肩車をしてやる。 「しゅごいっ!」 息子は嬉しそうに声を上げると、手足をジタバタさせながら喜んでいた。 「このまま水槽をぐるりと見ていこうか?」 「うん!」 吉羅の肩車に乗って水槽を見る息子は、本当に楽しそうで、今更、降りてくれだなんて言える筈もなかった。 暁愛を悲しませることは、なるべくしたくはなかった。 三人で本物の家族のように寄り添っていると、誰もが羨ましそうに見ている。 確かに血は繋がってはいるが、完全な家族ではないのだから。 暁愛は本当に嬉しそうに声を上げているのが香穂子には同じように嬉しかった。 暫く魚を見た後、暁愛は香穂子の洋服を引っ張った。 「ママ、お腹しゅいた」 「じゃあお弁当にでもしようか?」 「うん!」 暁愛は機嫌よく返事をすると、吉羅に下ろしてくれるようにと促していた。 「降りるのかね?」 「あい。降りる」 息子の言葉に、吉羅は渋々ではあるが、下ろした。 「ありがと。おべんとー」 暁愛は小さく頭をさげる。 「香穂子、お弁当を作って来たのかね?」 「…はい。この子はおにぎりが大好きで、それにお弁当を食べたがっていましたから」 「…そうか」 「吉羅さんの分もあるんですが、嫌だったら構わないですよ」 吉羅と一緒に暮らしている頃は、お弁当を持って、何処かへ出掛けるということはなかった。 出掛ける時は、何処かでランチをする形だったのだ。 「私もお弁当を頂こう」 「解りました」 三人でお弁当が広げられる場所に陣取り、腰を下ろした。 「さあ、あきちゃん、先におててを拭こうか」 「あい」 かいがいしく息子の世話をしている様子を、吉羅がじっと見つめている。 呼吸がおかしくなるのではないかと思うほどの熱いまなざしに、香穂子はからが熱くなるのを感じた。 「…香穂子、今日は私に世話をさせて貰えないかな?」 「吉羅さん…」 吉羅が世話をしてくれるのは、正直言って嬉しさと戸惑いがある。 暁愛を慈しんでくれるのはとても嬉しいのに、素直に受け入れられない。 こころな傷が、トラウマになっているからかもしれない。 だが、息子のためにもやって貰いたいと思う。 「解りました。お願いします」 香穂子が受け入れてくれたことが嬉しいからか、吉羅はほんのりと微笑んだ。 「あきちゃんは何を食べたいのかな? 吉羅さんに教えてあげて?」 「これと…、こえっ!」 「解った」 吉羅は、無邪気に食べ物を指差す息子に目を細めながら、食べたいものを取ってやる。 「ありあと」 吉羅は本当に嬉しいからか、目を細めながら息子を見つめていた。 少しぎこちないがー吉羅は暁愛に食事をさせてくれる。 その様子を見つめながら、香穂子は温かくて切ない気持ちを抱いていた。 暁愛は次々に吉羅に食べたいものを言い、それを食べさせてくれる。 香穂子は久しぶりにゆったりと食事が出来る気分だった。 暁愛が落ち着いたところで、今度は吉羅の食事の番になる。 香穂子が息子をあやす番だ。 吉羅がお弁当を食べるなんて、こんなにも似合わない風景は他にないのではないかと思う。 だがそれがまた人間味が溢れて魅力的でもあった。 「こうして外でお弁当を食べるなんて、久しぶりだからね。たまには良いものだね。外の食事も…」 「そうですね。あきちゃんはお弁当を食べるのが大好きですから…」 香穂子が穏やかな笑顔を向けると、吉羅は何処か寂しそうに笑う。 「香穂子、有り難う」 「…吉羅さん…」 「早く昇格したいものだね…。“暁彦さん”に…。昔のように…」 吉羅は香穂子と息子のふたりを見つめてくれている。 こんなにも柔らかく優しいまなざしで包まれたら、香穂子の心はとろとろにとけてしまいそうになる。 「食事をしたら、イルカショーでも見に行こう。暁愛が喜びだろう」 「…そうですね…」 香穂子は甘えるように抱き付く息子の髪を撫でながら、そっと頷いた。 イルカショーが行われているスタジアムまで、ゆっくりと歩く。 「あいっ」 暁愛は吉羅に手を差し延べて繋ぐように促す。 吉羅はフッと微笑むと、息子に手を差し延べた。 「…私は君のママとも手を繋ぎたいが、構わないかな?」 「え!?」 暁愛を中心にして手を繋ぐとばかり思っていたので、香穂子は驚いてしまった。 「…あ、あの、暁愛を中心にするんじゃ…」 「私は大切なふたりをしっかりとつなぎ止めていたいからね」 「…吉羅さん…」 吉羅は強引に香穂子の手を握り締めると、そのまま三人で歩き出す。 香穂子の心臓は、かつて以上にときめきのビートを刻み付けていた。 こんなにも甘い感覚は他にない。 蕩けてしまいそうな感覚に、このまま溺れてしまいたかった。 親子水入らずでイルカショーを楽しんだ後、ドライブをする。 暁愛は大喜びで、何度も歓声を上げていた。 「今夜の食事は何をしようかね。何処かに食べに行こう」 吉羅がそこまで言ったところで、携帯電話がけたたましく鳴り響き、車が静かに路肩に停まった。 「…あ、君か…。何? そうか…。すぐそちらに向かう」 吉羅は静かに言い携帯電話を切ると、香穂子に向き直る。 「…悪いが…、用が出来た。家まで送ろう」 「はい」 幸せが一気に吹き飛ぶような気がした。 |