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吉羅に送られて、暁愛とふたりきりになると、切ない苦しさと不安が香穂子を襲ってきた。 またあの女性のところに行くのだろうか。 それは余りにも苦しくて切ない。 あの女性とはまだ続いているのだろうか。年上の美しい人妻であるあのひとと。 それとも別の女性がいるのだろうか。 悶々と考える余りに、香穂子は息苦しさを感じていた。 もう本気になってはならない相手だ。 これ以上は何も出来ない。 近付いてはならないのだ。 不意にスカートの裾が引っ張られる。 「ママ、ごあん」 「解ったよ。作るから待っていてね」 「あい」 息子の無邪気な笑みを見ていると、切なくて泣きそうになる。 吉羅に本気になってはならない。 まるで呪文のように言い聞かせているのに、こころは従ってはくれなかった。 息子のためにと、香穂子は大好きなオムライスと、栄養たっぷりの具だくさんの野菜スープを作ってやる。 胸が張り裂けそうに痛くて、香穂子は余り食べることが出来なかった。 泣きそうになっていると、息子が心配そうに小首を傾げて見つめてくる。 「…あきちゃん…」 いつも香穂子がしてやるのと同じことをしてくる。 「ママ、おねちゅあるの? ぽんぽんとか痛いの?」 額に小さな手を宛てられて、香穂子は泣きそうになる。 息子がいるから。 今はこの子がいるから大丈夫だ。 深く傷付いてしまう前に、引いてしまえば良い。 これ以上、吉羅に深入りをしてはならない。 香穂子は息子を抱き締めると、その背中を撫でた。 「あきちゃん、ママは大丈夫だよ。だから心配しなくても良いからね。あなたは本当によいこだね」 「…ママ…」 香穂子はもう一度強く抱き締めると、涙を堪えるように上を向いた。 今週中にここを出て行こう。 そう強く決めた。 よく眠れなかったが、それでも生きて行かなければならない。 香穂子は、新しい一歩を踏み出すのだとこころに決めて、朝を迎えた。 朝食後、先ずは息子を連れて外に出る。 セキュリティの解除のためのキーを、念の為、吉羅に貰っていたのだ。 息子を、吉羅が買ったものではなく、自分で買ったバギーカーに乗せる。 「あきちゃん、少しだけ散歩しようか。お散歩をするのは久しぶりだからね」 「あいっ!」 香穂子は息子を連れて、先ずは近くのショッピングモールに向かう。そこで、就職情報誌を幾つか貰う。 これを見て、当座の仕事を探さなければならない。 後は、携帯サイトで登録をすれば良いから。 香穂子は、吉羅にこれ以上は世話になれないと思う。 世話になってしまったら、依存してしまうような気がしたからだ。 それに傷も深くなるのは解っていたからだ。 香穂子はショッピングモールの子供の遊びスペースで息子を遊ばせた後、のんびりとするために公園へと向かった。 息子がおやつを欲しがるといけないので、赤ちゃん用の煎餅を買う。 公園で息子とのんびりしながら遊ぶ。 まだよちよちと歩き始めたばかりだから、片時も目を離さなかった。 「ママ!」 暁愛は本当に楽しそうに笑っている。 この笑顔が誰よりもの宝物になった。 可愛い息子。 また息子とふたりで一生懸命に生きて行こうと思わずにはいられなかった。 昼食前までゆっくりと遊んだ後で、マンションに戻る。 こうして長い間外出をしていることが平気になった以上、恐らくはかなり元気になっているのだろう。 これならば働けそうだ。 息子と自分用に、具だくさんのそうめんを作り、ふたりで楽しんで食べた。 「おいちいね!」 「本当においしいね」 香穂子が笑顔で言うと、暁愛は嬉しそうに笑った。 食事の後、息子を昼寝させ、香穂子は就職情報誌をめくり始めた。 良さそうなところにチェックを入れ、携帯電話のサイトにもエントリーをしておく。 一刻も早くここを離れなければならないから。 一通りチェックを終えた後、息子のために手作りのおやつを作っていると、電話が鳴り響いた。 「…はい…」 「香穂子か。吉羅だ」 吉羅の声に、香穂子の鼓動は甘く疼く。 「御用でしょうか?」 「調子はどうかと思ったのだがね?」 「随分と良くなりました。散歩を楽しめるようになりましたから」 「余り無理をしてはいけない。君は完治をしていないのだからね」 「はい。お気遣い有り難うございます。もうすぐ治ると思いますから、大丈夫だと思いますよ」 「香穂子、素人判断はいけない。医師からきちんとした許しが出るまでは、大人しくしておいたほうが良い」 吉羅は香穂子に注意を促すように言う。 「有り難うございます。私は本当に大丈夫ですから」 香穂子の言葉に、吉羅は呆れ果てたように溜め息を吐いた。 「君は何も解ってはいない。きちんと養生するんだ。大丈夫ではないんだからね」 「…吉羅さん…」 「今夜は立ち寄ることは出来ないが、しっかりと眠って明日に備えるんだ。良いね」 「解りました…」 「じゃ」 吉羅に電話を切られた後、香穂子はひどく寂しさを感じる。 今夜、吉羅は来ない。 それが寂しくて、泣きそうになる。 ひょっとして、あの女性と一緒にいるからかもしれない。 吉羅が誰と愛し合おうが、恋愛をしようが、それは吉羅の自由だ。 それぐらいは解る。 だがこうして、想像するだけで嫉妬に苦しんでしまうなんて、こんなにも辛いことはなかった。 香穂子は何とか自分の気持ちを押さえるために、何度も深呼吸をする。 こんなにも重い感情はなかった。 夕食は野菜を沢山使ったバランスを取ったメニューにし、なるべく食費を抑えるように心掛けた。 息子に食事をさせ、風呂に一緒に入り、授乳をして寝かせる。 淡々とやるべきことをやった後で、香穂子は再び職探しを始めた。 明日、区役所に行き、母子寮の情報を貰いにいかなければならない。 母子寮に住めれば、すべてが解決する。 これ以上のことはないと、香穂子は思った。 眠ろうとしたところで、不意に玄関先のチャイムが鳴り響き、香穂子は慌てて出た。 モニターには吉羅暁彦の姿が写っている。 「…吉羅さん…」 「君の顔がみたい」 吉羅の甘い声で囁くように言われると、従うしかない。 香穂子はセキュリティを解除する。 それから暫くして、玄関のチャイムが鳴った。 香穂子がドアを開けると、吉羅がほんのりと疲れた表情で立っている。 「…今晩は」 吉羅甘いまなざしを送ってくれたから、香穂子の心は波立つ。 「暁愛はもう寝ましたよ」 「暁愛に逢いたかったわけじゃない。君に逢いたかった」 「吉羅さん…」 吉羅は香穂子の頬に手を伸ばすとゆるやかに撫でてきた。 「…君が気になってね…。息子はグッスリと眠っている様子は分かるからね」 「…お疲れ様です。お茶なら用意出来ますが…」 「有り難う」 吉羅は何処かホッとしたように言うと、香穂子に笑みを向けた。 「暁愛は?」 「眠っています。寝顔をご覧になりますか?」 「ああ。有り難う」 吉羅はそっと寝室に入ると、息子の寝顔を見つめた。 「本当に彼は可愛いね」 吉羅が目を細めながら見ているのをみると、香穂子は胸が締め付けられる。 「…暁愛を見に来られたんですか?」 香穂子の言葉に、吉羅は首を横に振った。 「私は君に逢いたくて来たんだよ」 吉羅はいきなり香穂子を抱き締めると、そのまま唇を塞いで来る。 何が起こったのか、香穂子は瞬時に理解することが出来なかった。 |